復帰40年 5・15平和行進を開催
延べ5540人の参加者が米軍基地の撤去とオスプレイ配備の反対を訴え県内を歩く


 沖縄では「復帰40年 講和60年 5・15平和行進」が、5月10日から13日の日程で開催されました。主催は沖縄平和運動センターと5・15平和行進実行委員会です。
 5月10日は那覇市の県立武道館アリーナで「全国結団式・与那国コース引き継ぎ式」を行い、県内外の参加者約300人が基地の無い沖縄を取り戻すために決意を固めました。続く5月11日から13日には沖縄本島内を東・西・南の3コースに分かれて行進し、3日間で延べ約5540人が参加しました。また13日午後には、宜野湾市の海浜公園野外劇場で、約2500人が参加して「5・15平和とくらしを守る県民大会」を開催しました。
 今回の平和行進では「復帰40年特別企画」として、5月6日に与那国での行進を行いました。与那国での平和行進の実施は、今回が初めてです。与那国はいま、民主党政府が進めようとする陸上自衛隊の配備に対して、島民の世論が二分されています。こうした中で自衛隊の配備反対を訴えて行われた行進には、多くの島民の関心が集まりました。また5月12日には宮古島で、15日には石垣島で、それぞれ平和行進が行われました。
 日米両国政府は平和行進直前の4月27日に「日米安全保障協議委員会(2+2)共同発表」を行い、普天間基地の辺野古移設を改めて確認しました。さらに行進が始まった5月11日には、アメリカ海兵隊が普天間基地への配備を予定しているMV−22オスプレイに関して、当初の10月配備を前倒しして、7月にも船舶で那覇軍港に搬入することを表明しました。
 今年は、日本の独立と引き換えに沖縄を切り捨てた「サンフランシスコ講和条約」の発効から60年、沖縄の本土復帰から40年を迎えます。復帰後も沖縄では、アメリカ軍による事件・事故・基地被害が続いています。そこへさらに、日米両国政府は新しい基地を建設し、欠陥機オスプレイを押し付けようとしています。3日間の行進を通して、沖縄と全国の参加者は、基地の県内移設反対とオスプレイの配備阻止を強く確認し、そのための行動を開始することを誓いました。

 以下は今年の平和行進に関するレポートや新聞記事のクリップです。


◆写真報告◆
 1.特別コース/与那国島(5月6日)
 2.全国結団式(5月10日)
 3.本島 東・西・南コース(5月11日・12日・13日)
 4.県民大会(5月13日)
 5.特別レポート 「南コース1日目に参加して」(阿部浩一)


◆動画報告◆
再生方法
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  画面下に出るツールバーの右側にあYouTubeをクリックすればOKです。

1.沖縄5・15平和行進/与那国コース


2.沖縄5・15平和行進/本島3コース



◆新聞の記事から◆
 琉球新報
 沖縄タイムス


◆「沖縄5・15平和行進」とは?
 沖縄の人々はなぜ、毎年5月15日に平和行進を行っているのか、皆さんはご存知でしょうか。
 アジア・太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍は3月26日に沖縄県の慶良間諸島へ、4月1日には沖縄本島への上陸作戦を開始しました。激戦の末、6月23日には日本軍による組織的な抵抗は終わり、沖縄はアメリカ軍の占領下に置かれることになりまた。日本も同年8月15日にポツダム宣言を受諾し敗戦、連合国軍は日本全土を占領しました。
 1951年9月8日、日本と連合国はサンフランシスコ講和条約に調印しました。同条約は1952年4月28日に発効し、これによって日本は独立を回復しました。しかし同条約の3条で、沖縄を本土から分断してアメリカの施政下に置くことになったのです。
 沖縄の人々は日本本土と平和憲法への復帰を求めて粘り強く運動を続け、1972年5月15日には沖縄の本土復帰が実現しました。このとき、復帰に関する日米間の合意は「核抜き・本土並み」とされていました。しかし実際には、復帰後も多くのアメリカ軍基地が残り、沖縄の人々にとっては復帰前と変わらぬ日々が続くことになったのです。
 こうした中で1977年から、沖縄の本土復帰の日である5月15日に、本土復帰後も続くアメリカ軍による占領状態に抗議し、基地の撤去を訴えて沖縄全土を歩く平和行進が、沖縄県内の労働組合や革新政党が中心となって始まりました。
 最初は県内のみの取り組みでしたが、やがて本土からも参加するようになり、平和行進は今回で35回目をむかえたのです。


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