インタビュー | 平和フォーラム

2021年02月01日

毎日もやもやしながらでも運動を続ける

インタビュー・シリーズ:162
小説家 矢口敦子さんに聞く


矢口敦子さん

やぐち あつこさんプロフィール

1953年 函館市に生まれる。/1965年 小学校休学/1966年 東京に転居/1969年 二度目の心臓手術/1971年 中学校卒業程度認定試験合格/1974年 大学入学資格検定試験合格/1979年 慶応大学文学部通信課程卒業/1990年 札幌に転居
 『かぐや姫連続殺人事件』でデビュー。代表作に『償い』(幻冬舎文庫)、『人形になる』(徳間文庫)、『最後の手紙』(集英社文庫)等。


─矢口さんは小説家でいらっしゃいますが、反原発の運動にずっと携わってこられたとお聞きしています。最初に反原発、脱原発の運動に関わるきっかけをお聞かせください。

1970年代に中山千夏さんたちが作った革新自由連合という文化人が中心となった政治団体がありましたが、その団体にボランティアで加わっていました。そこで、東大の自主講座の宇井純さんが「やっぱり原発って危ないらしいよ」とお話しされたのを聞きましたが、その後、1979年にスリーマイル島で原発事故が起こって、「ああ、やっぱり危ないんだ」と思い、1980年に小さな反原発グループに入ったのが始まりです。1990年まで東京にいたので、それまでずっと東京で反原発運動をしていました。

─3・11のときはどこにいらっしゃったのですか?

札幌におりました。大きな地震でしたので、原発がどこかやられないかと心配していたら、案の定という感じで。どんどんどんどん原発事故が広がっていくので、毎日、地図で北海道と福島の距離を測っていました。北海道まで放射性物質が飛んで来たら、日本は食糧庫を失ってしまうと思ってほんとうに心配でした。少し落ち着いてからは、悔しいというか、悲しいというか、なんとも言えない気持ちになりました。札幌にいても、東京電力に対する株主運動をやっていたのですが、あの年はとにかく東京電力にすべての原発を止めるようにと株主提案をして、デモにもでかけました。とにかく悲しかったし、みんな無事でいてほしいと思っていました。いまでもあの当時のことを思い出すと、気持ちが沈みます。東京電力に対する怒りが湧いてきたのはしばらく経ってからのことです。

─福島の事故から10年経ちましたけれども、この10年の運動や、または10年間の福島についてはなにか話さなければいけないということはありますか。

私は日本で大きな原発事故が起きたら、政府は原発から手を引くと考えていました。いまになってみるとそれはとても甘い考えでした。私は原発が止まるだろうと思っていましたので動き出すのが遅かったですし、反原発の運動をやっている中には、私と同じように甘い考えの人間がたくさんいたのではないかと思います。原発推進派に比べたらほんとうに甘いですね。そういう反省というか、怒りといったものがあります。

─これだけの事故を起こして、福島があんなひどい状況になったのですから、もう原発政策はもたないと考えるのが普通だと思います。しかし、いまの政府はそうではない。気候危機の問題が出ると原発に頼るしかないという発言を始めます。ドイツはチェルノブイリのあと脱原発の方向性を作り上げてきました。福島のあとは脱原発に向けて動いているわけですよね。この政治の土壌と違いをどのように考えたらいいのかをお聞かせください。

政治もそうですが、日本の国民自体が忘れっぽいのではないかと思います。なにか起きたときに突き詰めて考えるということが少ないです。日本という国は自然災害に何度もやられてきて、忘れるしかないという土壌ができているのかもしれません。政府はしっかりしてほしいけれども、その政府を選んでいるのは国民なのだから、国民がしっかりしていないのだろうな
と、少しきつい考えかもしれませんが、そう思います。
3・11直後は誰もが原発はいやだと思ったはずですし、東京電力の株主総会でも、私たちの原発廃止の提案に賛成の手が林立しました。その状況に比べて、いまの東京電力の株主総会は原発賛成派、容認派にのっとられている、あまりにひどい状況です。原発より電気がある快適な暮らしがしたいとか、そういう人が多いのかなとも思います。地震や風水害で多くの人が亡くなっていく、そういうものを乗り越えていくときに、忘れるというのもひとつの方法であるとは思いますが、原発事故は自然災害とは違って人の手で防げるのですから、そのこと自体は忘れてはいけません。世論調査ではまだまだ脱原発という声は大きいのですよね。しかし、それが政治を動かすことにつながらない。
運動をやっていてさみしいところはありますね。

─札幌にお住まいになっていて、過度の電力依存から抜け出さなければと書かれていますが、冬に暖房を使わないのは厳しい。私も北海道の生まれで、冬の寒さと厳しさはよくわかっています。矢口さんはガス暖房を使われているのでしょうか。

電気を使わないで温まる暖房器具がないかと思っていろいろ探しましたが、やはりどこかで電気を使うのですね。ガス・セントラルヒーティングでも300ワット以上も使うので、それはちょっといやだなと思っていました。それで暖房を使うのをやめました。この部屋は集合住宅なので、熱が逃げない作りになっています。日中陽が差せば20度くらいになるし、夜になると16度くらいで、北側の部屋に行くと10度ちょっとですが、ダウンなどを着て耐えています。水道管を破裂させないために自動で暖房がつくことはありますが、数年前から自分では一切暖房をつけていません。

─個人の生活では努力して電気の消費量を少なくできますが、エネルギーとしての電気というものは社会経済がまわっていくために必要になっています。エネルギー政策についてはどのように捉えられていますか。

ペンクラブの環境委員会で風力発電とか小水力発電とかを見学に行ったりしていますが、騒音がひどかったり、風力発電でいえば渡り鳥の衝突による死傷とか、低周波音で牛が乳を出さなくなったというドイツの人の話も聞きました。太陽光発電では希少物質を使って発電するしかないのですよね。そういうことを考えると企業が省エネルギーの製品を作って、個人が少しは贅沢をあきらめるという、このふたつしかないのではないかと思います。エネルギー源と資源を未来の世代にまで伝えるのは、そういうことでしかできないのではないでしょうか。パソコンも冷蔵庫も、省エネルギーの製品に買い替えてはいますけれども、でももっともっと省エネルギーになってほしいと思っています。
スマートフォンだってガラケーに比べるとずっと消費電力が多いので、ほんとうにスマートフォンが必要なんだろうかと疑問を感じます。NHKが8Kのテレビを盛んに宣伝していましたが、それだって電気を食うのだろうなと考えると、電力消費ではなくて、省エネの方向に向かっていってほしいと思います。

─北海道では高レベル廃棄物の問題が寿都町と神恵内村で起きています。私たちは抗議声明も出しましたが、原発政策は寿都や神恵内のような生活や状況の厳しいところに付け込んできます。いま住民の人たちと話してみたいことはありますか。

ずっと都会に住んでいて、不自由なく暮らしている人間になにか言える資格はないと思うのですが、ただ、たった20億円ですよね。20億円なんてあっという間に消えてしまいます。そんなもののために自分たちの暮らしを売っていいのかと考えます。寿都の町長は洋上風力発電を造る財源にしたいと言っていましたけれど、福島では600億円以上をかけて洋上発電を造ったけれど、うまくいかなくて撤退しました。20億という一見大金に見えるお金で、どこか貧しい村に廃棄物を押しつけさせないためには、地層処分をしようという政府の政策を変えていくしかないと思います。廃棄物の処分は昔から言われていて、「トイレなきマンション」みたいな言われ方をしていたので、本気で考えなければいけないと思いますが、日本にそんな強固な地盤があるとは思えないですし、お金で村を操ろうというのもおかしい。ほんとうに難しいです。

─世界的に見ても最終処分場というのはどこにも決めきれていない難しい問題です。原水禁としてはいちばん安全なのはドライキャスクかと考えています。常時監視できる方法で当分は保管しなければならなのではないかとしか言えません。

同感です。私もそう思います。

─小説を書くようになったきっかけはありますか。

小学校2年生のときに夢を見て、その夢がおもしろかったので文章にしたのが始めです。30歳くらいのときに会社勤めをしましたが、8時間も他人といるのがいやで、それで、小説家なら誰にも会わなくて済むし、小説家になりたいと思いました。小説を書くということ自体が好きですね。私は出版社からの原稿依頼がなくても勝手に書いて、できあがったときに出版社に持ち込みます。テーマがあって書くのではなくて、書いていくうちにストーリーができてきて、自分でもどうなるかわからなくて、わくわくしながら書くということが多いですね。出版社からこのテーマでと依頼があって執筆する場合はひどいものしか書けないです。捨ててしまう作品も随分ありますが、とにかく書くのが楽しくて、毎日1行でも書きたいと思っています。

─最後にこれからの原水禁の運動についてお聞かせください。

これまでどおりがんばってください。私は裁判も関わったし、選挙運動も関わったし、集会もいろいろ出てきました。これ以上なにをやったら今の政権を変えられるのかがわからなくて、ある意味お手上げ状態です。新しい展開がまったく見えませんが、でもお手上げだと言っているわけにはいかないので、毎日もやもやしながらでも運動を続けるしかありません。一緒にがんばっていきたいと思います。

2021年01月01日

困難を抱える少女たちの現状を知り、一緒に声をあげてほしい

インタビュー・シリーズ:161
Colabo代表 仁藤夢乃さんに聞く


仁藤夢乃さん

にとう ゆめのさんプロフィール

一般社団法人Colabo代表。東京都「青少年問題協議会」委員、厚生労働省「困難な問題を抱える女性への支援のあり方に関する検討会」構成員を務めた。TBS「サンデーモーニング」にコメンテーターとして出演中。主な著書に『難民高校生-絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル』、『女子高生の裏社会―「関係性の貧困」に生きる少女たち』など。Colaboについては、https://colabo-official.net/ を参照。

―仁藤さんが高校生の頃はいかがでしたか?

私の高校時代は、家が安心して過ごせる場所ではなく、街をさまよう生活を送っていました。父親が「亭主関白」で、両親の関係も対等ではなかった。今思えばDVもあったし、母も働いていたけど、自分の気持ちを押し殺して生活していたということを子どもながらに感じていました。そんな父親に会いたくないので、部屋にこもったり、家を出たり。すると父は母にあたって切れたりするんですよ。

家で安心して眠れないので、遅刻が増えたり、授業中寝てしまったりと、やる気がない生徒と問題児扱いされ、先生から怒られることもすごく増えるし、友達からも「がんばりな、ちゃんとしなよ」と言われることが、負担になってくる。誰もわかってくれない、みんなの家とは違うと思って、だんだん閉じこもってしまう。だから学校でも居場所がなくなってしまい、結局、高校2年生の夏に中退しました。

支配とか暴力がある環境では、いつもびくびくしている。家の共有スペースを使うことに非常に気を遣う。トイレに行く、風呂に入る、歯を磨く、ほかの家族と会わないように、ピリピリして生活している。とても勉強なんてできる環境ではない。それで夜の街に出て公園などでたむろするようになりました。そんなとき、声をかけてくるのは、手を差し伸べようとする大人ではなく、性搾取や買春を目的とした男性しかいませんでした。

そこで夜の街や公園でたむろし、群れることで、身を守り合っていたんですよ。危うい所だけど、「あの先輩と二人になるとヤバイよ」「あの店は出してるお酒に薬入れているよ」とか、群れることで情報共有して生き延びていました。

でも最近は、群れることも許されなくなってきました。渋谷の宮下公園がナイキの宮下パークになるとき、路上生活者を追い出したんですね。その時、たむろする女子高生も排除されちゃった。いまや、逃げ込める社会の隙間が本当になくなっている。これって逆に危なくなっている。

群れることができないから、今の子たちは孤立していて、性搾取や買春を目的とした男性から身を守る情報がない。ツイッターで「誰か泊めて」なんてつぶやくと、すぐにサポーターのふりをする加害者がいっぱいいるんですよ。SNSで人目もつかずに好き放題声をかけることができるようになっている。

―仁藤さん自身が変わっていくきっかけになったことはなんでしょうか?

高校中退後、都内にある高校中退者向けの予備校に行ったんです。その予備校は大学のように主体的に学べる場になっていて、社会問題を考えるゼミとかがあって、講師の方々も労働運動とか社会運動をしてきたガチな左翼の人や右翼の人もいるような所でした。

私はその中で、友達に誘われて農園ゼミに入りました。当時の私は畑なんか全然興味ないし、土も触りたくないけど、宿泊できてご飯もあると聞いて、ハイヒール履いてバリバリギャルみたいな格好で出ていったんですよ。そこで元高校教師だった講師と出会いました。その方は、大人の押しつけをせずに、互いの話をする事や議論することを大切にしていて、自分のその先を一緒に見てくれる感じだった。横並びの関係性って思えたんですね。またいろんな運動もやっていて、山谷に畑でできた野菜を送ったり、難民支援とか、フィリンピンから日本に来た女性の婚外子支援の裁判にも関わったりしていて、私もさまざまな困難の中にある人との出会いを通して、自分事として参加するようになっていきました。

こうしたところで、いろいろな問題に声をあげる大人の姿を見せてもらったことが大きかった。

それと、あるとき予備校の本部から教務部の人が送り込まれてきて、生徒たちがたむろしていたスーペースを私語禁止にして追い出そうとしたり、いきなり生徒の意見を無視した改革を始めようとしたんです。それに反対すると「君たちみたいなダメな子たちは、ある程度規制してあげないと生きていけないよ」なんて言ったりして、それで、生徒たちで謝罪を求める署名を集めました。結局その教務に謝らせることができたんですね。

小さなことでも問題に気づいたら声をあげることで、理解者を増やし、動かすことができるんだなっていう実感も予備校時代の経験で持つことができたんです。

―大学在学中にColaboを結成された、そのきっかけは。

18歳の時、その講師と行ったフィリピンで、日本人男性が当時の私と同世代の少女たちを買春しに来ているところを目にしました。そのとき、私は「この男たち、知っている」と思いました。家に帰れずさまよっていた渋谷で毎日のように声を掛けてきたあの人たちと同じだ、と。海外まで女性を買いに来ているのかと驚きました。店ではフィリピンの女の子たちが、日本人向けに、日本名らしい源氏名を付けられて売られていました。彼女たちは、地元には仕事がない、本当は学校に行きたかったけど、生活のためにこうするしかないと。「私たちと同じだ」と思いました。どうしてこういう女性たちには他の選択肢がないんだろう。社会の仕組みを知りたいと大学に進学しました。

明治学院大学の社会学部に進学後、国際協力の学生による活動にも参加しました。そういう活動をしている学生たちは「いい人」が多いんだけど、海外の貧困や性搾取の問題には、妙に「かわいそう、なんとかしなきゃ」って言うけど、私の経験を元に「日本でも同じことがあるよ」って話すと、「えっー映画みたい」「でも日本は平等だし誰でも努力すれば大学だって行けるしねぇー」って。それができない子たちは好きでやってんじゃないと、自己責任論になっちゃう。これにかなりショックを受けて、自分が今まで生きてきた世界と大学に来ている学生の世界とは、こんなにも違い、分断されているんだと思ったんです。大学に普通に行けるエリートな人たちが、政策を作ったり、社会を形作っているなかで、行き場のない子たちの状況を知っているものとして、自分が取り組むしかないと活動を始めたんです。

―子どもへの虐待などに対応する公的機関や社会のあり方についてはいかがでしょう。

虐待や貧困、孤立など、さまざまな困難を抱えた子どもたちに必要な支援を届けられていないのが現状です。家出や性暴力・性搾取の被害に遭った子どもたちを、被害者としてみるのではなく、「非行少女」「問題行動」として捉える支援者も多くいます。家が安心して過ごせる場所でなく、声をかけてきた男性にすがる気持ちでついていき、性被害にあった子どもに「どうしてそんな人についていっちゃったの」と責める大人が日本社会にはほんとうに多くいます。その人を頼るしかないと思わせてしまうくらい、孤立させ、手を差し伸べない大人や社会の問題です。そして、そうした状況に付け込む加害者の存在や手口があることに目を向けなければなりません。しかし、「なぜ」と聞かれるのはいつも、加害者ではなく被害者です。

性搾取を目的とした買春者や業者が、新宿や渋谷には、それぞれ毎晩100人以上立ち、彼女たちに声をかけています。そうした子どもたちにつながろうとしているのが、そういう人ばかりなのが問題で、彼らに加害させない社会にしなければなりません。

児童相談所などの公的支援が、機能していないという現状もあります。虐待相談件数も年々増える中、児童相談所はもともと手一杯で、命の危険が高い、乳幼児などの対応を優先せざるを得ないとはっきり言われたこともあります。ハイティーンの子どもたちは、それまでの大人への不信感などから、関係性を築くのにも時間がかかることが多くありますが、そこに向き合う余裕もありません。開所時間も平日の日中のみで、保護のニーズが高まる夜間や休日の行き場がない。また、児童相談所の一時保護所でも、大人の管理の都合で人権侵害ともいえるルールが存在しているところもあります。私語禁止だったり、入所時に全裸になってチェックされたり、手荷物や衣類も一切持ち込めない、学校にも行けないなどです。そのため、公的支援を利用したがらない人が多くいます。

私たちは、そうした少女たちに出会うため、夜の街でのアウトリーチや、10代の女性向けの無料のバスカフェ「Tsubomi Cafe」の開催、児童相談所や病院などへの同行支援、一時シェルターでの緊急宿泊支援や保護、中長期シェルターでの生活支援などを行っています。コロナ禍で相談も急増している中、民間だけで支えるのには限界があります。国や都も、公的支援につながれていない女性たちを民間が支えていることを認識し、2018年から「若年被害女性等支援モデル事業」を始めましたが、委託費がたったの年間1,000万円。それで未成年を保護する場合は夜間の見守りをするようにと。それだけの資金しか出さないで言うんです。

―夜に駆け込める所がないということですね。最後に、社会の大人たちへのアドバイスをお願いします。

子どもたちとか、女の子たちの背景を想像できる大人があまりにも少ないと思うんですよね。家出していたり、性搾取されている子どもたちについて、その子たちを責める社会がある。それは子どもたちだけでなく、性暴力でも、被害にあったときに女性が責められる、現状があります。搾取や暴力の構造について多くの人が理解し、加害者の存在、加害者の問題に目を向けていくべきです。

活動の中で大切にしている事は、対等な関係性を意識すること。どうしても、年齢や立場が違うため、対等にはなり切れないということを関わる大人が自覚したうえで、いかに自分の加害者性とか自分の特権とかに向き合いながら付き合えるかっていうことがすごく大事だと思います。この現状を知りながら、何もしない大人は、女の子たちにとって加害者の一人です。加害者たちに、性加害させにくい社会にするためにも、まずは学んでほしい。そして一緒に声をあげてほしいと思います。

2020年10月01日

気候ネットワーク桃井さんと 5名の若者に気候危機についてのインタビュー

インタビュー・シリーズ:159

桃井貴子さん

─気候危機の概況についてお聞きします。

桃井貴子: 私は気候ネットワークという環境団体で働いています。気候変動問題は、人々や動物等が適応できないスピードで、地球規模で気候が変化していることです。その原因は、人間活動によって排出される二酸化炭素等の温室効果ガスです。産業革命以来、平均気温が約1℃上昇しています。平均するとたった1℃の上昇ですが、世界中で様々な異常気象やその被害が起きています。また、例えば北極域の気温上昇は激しく、夏場は20年前に比べて日本の国土の約8倍の面積に相当する氷が消失し、船が行き来できるようになってしまっています。シベリアなどのツンドラ地帯では、気温が38℃になることもあり、体温を超えるような気温を記録し、永久凍土が溶け出し、メタンが排出され、温暖化をさらに加速化しています。今後、気温はさらに上昇すると見込まれていますが、人類にとって気候の危機を回避するために、産業革命前に比べて1.5℃の上昇に抑えようというのが世界の合意「パリ協定」です。しかし、今のように温室効果ガスの排出が続けば、早ければ2030年には1.5℃に達し、その後3℃、4℃と気温は上昇するだろうというのが科学の知見です。1.5℃の目標に留まるためには、この10年の取り組みが重要です。温室効果ガスを2010年比で2030年に45%削減し、2050年には実質的にゼロにすることが必要です。新型コロナウイルス感染症パンデミックにより世界的に経済が停滞し、二酸化炭素の排出が減少していますが、今後、経済の回復とともにグリーンな形で社会システムを移行させることを目ざせば気候危機を回避できるだろうと思います。

小林誠道さん

─それぞれなぜ気候問題に取り組んで、どのようなことをしているかお聞かせください。

小林誠道:Friday For Future)(以下、FFF)Osakaの小林誠道です。防災、減災を中心に学ぶ学部で勉強しています。そこで気候変動問題に興味を持ちました。気候変動と防災減災はどうなっているのかを知るために、2019年2月から3月、気候ネットワークの京都事務所にインターンに行き、FFFを知って活動に参加しました。異常気象というものが、温暖化によって次々発生するのではないか、という危機感を持ちながら大学で勉強しています。FFFに参加したことで、気候変動についての活動を通して、様々な観点から見るようになったと思います。気候問題を知っているからこそ、自分たちにとどめておくのではなくて、発信することが重要と思っています。気候変動について知識や情報を得ることができるボードゲームを作っています。何も知らない人でも楽しめるけど、終わった後で、世界ではこうした状況になっているのだと、ということを知ってもらって、その後行動してもらうことだと思います。

小野りりあんさん

小野りりあん: FFFはじめ、いろいろな気候変動に取り組む人たちと、一緒に活動しています。350JAPANでもボランティアをしています。また、スパイラルクラブで環境について情報発信するコミュニティの立ち上げもしました。最近はインスタグラムで環境に関する情報を発信しています。気候変動に積極的に取り組むのは、グレタ・トゥーンベリさんを知ったことがきっかけです。2019年の秋、できる限り航空機を使わずに、環境活動を訪ねる世界一周の旅に出ました。その旅から帰ってきて、気候変動に対して行動する人を増やし、繋がりを大きくしていくことを主にしています。私のフォロワーは10代から30代の女性が多く、いままで声をあげなかった人たちがすごく活性化しています。気候危機は日々感じますが、同時に動き出す人も増えてきているので、これまでの日本の環境運動界になかったことだと思い、希望を感じています。気候変動の政策を重要だと思っている人たちが、声を上げられるようになることを大事に考えています。日本では、特に女性においては、自分の意見を言わないのがいいとされる文化があると思うので、若者、女性の声が反映される社会にしていきたいと考えています。何かしたいと思っている人たちが、出会える場所を確保していきたいと思います。

酒井功雄さん

酒井功雄: FFF Tokyo/Japanで活動し、今アメリカの大学で勉強しています。2019年2月頃からFFFに関わり始めて、東京でマーチに関わったり、日本の学生のために、イベントなどを開催しました。気候変動に関心を持ったきっかけは、高校2年生の時に、アメリカに留学し、環境科学の授業で気候変動について学んだことです。特に驚いたのは世界中で同じタイミングで災害がおきていることです。いまだに、化石燃料の企業にお金が回っていることは、経済社会システムとして構造的な誤りであると思います。個人が変わるとともに、システムを変えなければならないということです。絶望的になったり、怒りを感じながらも、反面危機を乗り越えるチャンスだと思っています。

能條桃子さん

能條桃子: 大学生です。一般社団法人「NO YOUTH NO JAPAN」 代表です。若い世代の声がもっと社会や政治に届くよう政治的アプローチをし、社会に声をあげていく若い人たちを増やしていこうとしています。インスタグラムメディアを運営していて、10代から30代前半ぐらいを中心に4万6,000人ぐらいのフォロワーがいます。若者が必要とするジェンダーとか、気候変動の問題を一番にあげ、若者の候補者選び、政党選びの基準として、気候変動が大事だと伝える武器にしていきたいです。2019年4月から10月まで、デンマークに留学したことがきっかけで、気候変動問題を知り、取り組むようになりました。留学した学校が、サステナビリティ(持続可能性)で環境や気候変動に力を入れていて、授業でも気候変動の知識を知る機会がありました。航空機はCO₂を排出するから良くないとの考えで、修学旅行はバスでした。それまで、環境に悪いことをしてきたなという加害性みたいなことに、気づくきっかけになりました。ちょうどデンマークで国政選挙があり、気候変動が一番上のトピックとして、党首討論でも語られているということに衝撃を受けました。若者が挙げた声に政治家が票を取ろうと応えていると聞いて、若者が社会を動かしていることに感動し、気候変動に関心を持ったということもあります。

藤原衣織さん

藤原衣織: 今年3月に大学を卒業して、FFF Tokyo Japanの活動を中心に生活しています。マーチをオーガナイズし、SNSの管理をやっていました。2年ぐらい前に気候変動に関心を持ち始めて、350Japanという環境NGOが主催していた集会で気候変動がどのくらいやばいのか、パリ協定の内容も初めて知りました。コロナ禍の中で、人々の意識が気候変動など社会的なものに向いていると思います。私は新しく入ってくる人へのガイダンスも担っています。自粛期間が始まってから、学生とか社会人も含めて、オーガナイザーに応募する人が増えています。だからコロナ禍は危機だけどチャンスでもあると感じています。「私たちは気候危機を止められる最後の世代」という言葉があり、「今やらなくては」という感情だけでなく、私たちにしかできないし、だからできるみたいなポジティブな強さもあると思います。若者が世界を変えたという成功体験が、気候変動に限らず、日本社会全体において重要なことだと思います。これから、すごく重要なエネルギー政策の会議が始まるので、タイトルに「私たちの未来を奪わないで」という言葉を入れてオンライン署名を始めました。ぜひ原水禁のみなさんにも広げていただきたいと思います。

─いまやるべきことは何ですか。

桃井貴子: 現在、各国が温室効果ガスの削減目標を示していますが、それらを全てたし合わせても、気候を安定化するための「1.5℃目標」とは大きなギャップがあります。全ての国が、より野心的な目標に引き上げることが求められています。特に日本の目標は「2030年に2013年度比26%削減」ですが、欧州の目標「2030年に1990年比40%削減」に比べても非常に低く、これを引き上げねばなりません。そのためには政治のリーダーシップが必要です。 

また気候変動対策では、石炭火力発電のように非常に温室効果ガスの排出量が大きいものから止め、化石燃料を使わない社会の方向にエネルギーシフトしなければなりません。しかし、日本は石炭火力を推進し、いまだに「重要なベースロード電源」などと位置付けています。原発や石炭のようなかつての大規模集中型電源に頼る構造からの脱却が必要です。そのために必要なのはまずは省エネです。福島原発事故以前と比べ10%程度の省エネが進みましたが、まだ省エネのポテンシャルは大きくあります。また、再生可能エネルギーの割合を大きく増やすことが必要で、野心的な再エネ導入目標を打ち出し、具体化していく必要があると思います。

温室効果ガスを減らし、効果的にエネルギーシフトを進めるために有効なのが、カーボンプライシングだと思っています。日本は温暖化対策税が導入されていますが、税率が非常に低いので、削減効果が出るレベルに引き上げていく必要があると思います。

さらに、エネルギー政策の決定プロセスにおいても、若者や市民の声を政策に反映させていくべきです。ここに参加されたような10代・20代の人たちが、この厳しい気候変動問題に向き合って、自分たちこそが最後の取り組みができる世代との責任感を持って活動しています。その声をしっかり政治が反映し、希望を持てる社会を作れるのだということを大人は示すべきです。私自身もこういう若い人たちとも連携しながら、石炭火力発電所をやめ、気候危機を回避していくというのに、全力を注げたらと思っています。

2020年05月01日

どんな状況でも声を上げ続けていくことが大切

青木 初子さん

インタビュー・シリーズ:156
青木 初子さんに聞く

あおきはつこさんプロフィール

沖縄出身

沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック

部落解放同盟東京都連合会品川支部

─最初に沖縄での子どもの頃のことをお聞かせください。

父は強制労働で大阪に行き、そこで好きな女性ができました。敗戦後、単身で沖縄に帰ってきた父は、しばらくしてその女性を大阪から呼びました。その時、母は私を妊娠していて、もうすぐ生まれるという時期でしたが、父は家から追い出したのです。友達の産婆さんが、私を取り上げてくれましたが、母は豚小屋で産んだと言っていました。ですから、私は父親と暮らしたこともなくて、父親に対しては何の思い出もなく育ちました。私の上に3人の兄姉がいますが、いちばん上の姉は沖縄戦で亡くなり、平和の礎に名前が刻まれています。母は父の家から逃げてきた兄と姉も引き取り、野菜の行商をして私たちを育ててくれました。近所でも最も貧しい家庭でした。母にご飯を作ってもらったという記憶はなく、料理は子どもの仕事でした。私は、高校を卒業すると沖縄で実施されていた本土の大学への留学で、1966年、パスポートをもって新潟大学歯学部に入学しました。お金を儲けて母に楽をさせたいという気持ちでした。しかし、中途退学してしまい、しばらくは敷居が高くて家に帰れませんでした。

大学中退後、東京に出てきました。1970年頃です。そこで労働運動と部落解放運動をやっている夫と知り合いました。はじめの頃は、部落差別と言っても、「何が部落だ。部落だって日本じゃないか」という反発心がありました。部落解放運動のなかで、1980年に品川区の学校用務員として採用されました。現業の定年制が敷かれ、多くの年配者が切られ、新たに新規採用が行なわれたころでした。私が部落解放同盟ということで、ほかの職場から「部落解放同盟の人ってどんな顔をしているのか」と私を見に来た人もいました。「沖縄って、英語を話しているの」と質問されたこともありました。

そのころ学校警備に対する合理化案が提示されていて、それに対する組合の案に私は納得がいかず、いま反対の声を上げないと後悔すると思って、「現場の声」という機関誌をつくり発行、全学校職場に配布し、執行部の提案に反対しました。闘わずに、自ら合理化することに納得いかなかったのです。職場の用務の仲間は私を応援してくれました。組合運動をやるために入ったわけではありませんが、執行部に反対してやらざるを得ませんでした。その後、上部団体の自治労か自治労連かの路線選択のたたかいもあり、学校用務協議会の事務局長として多くの仲間に支えてもらいました。

─青木さんの中にどうしてそういう闘志が湧いてくるのですか。

部落問題や労働問題もそうですが、差別に対する怒りです。「ふざけるんじゃない!」「ばかにしているのか!」という怒りです。学校に入るまでも、全国一般南部のパートの組合を作って、身分保障せよとたたかったりしていました。学校現場は、校長が頂点のピラミッド型になっていて封建的なところがありましたね。あらゆるところで用務員の声がなかなか上に届かない、無視されてしまう。そういう理不尽なことに対する怒りです。生意気でしたね。花壇で草取りをしていたときに、校舎の上の階から子どもに唾を吐きかけられたときは、三階まで駆け上がっていき、怒鳴りつけたこともあります。でも、子どもたちは真剣に向き合えば、ちゃんと応えてくれました。

─沖縄復帰のときのことを教えてください。どのようにお考えでしたか。

初めは平和憲法のもとに戻るんだと思っていましたね、本当に。日本に帰ったら基地がなくなるんだと。今は「日の丸・君が代・元号」に反対しているが、その時は単純に「日の丸」は祖国復帰の象徴だったんですよ。「君が代」も歌ったことがなく、知りませんでした。それが「即時無条件全面返還」ではなく、基地はそのままだということがわかり、ベトナム戦争もあり、反戦復帰、復帰反対に変わっていきましたね。屋良朝苗主席が沖縄県の意見をまとめて建議書として国会に持って行ったときも、政府は抜き打ちに強行採決し、まったく無視して議論すらしなかった。2013年1月の「建白書」と同じです。今も続く「沖縄の民意無視」の抑圧です。憲法の上に、日米安保条約があって、地位協定があって、その中での復帰という仕組みの矛盾。あのときの学生たちは問題意識としてみんなが持っていたと思います。私もその中のひとりです。

─その世代がこの日米安保60年の年に、あまりものを言わないと機関紙のコラムに書きましたが、そうは思いませんか。

そのとおりです。システムの中に埋没しちゃって、いいおじいちゃん、おばあちゃんになってしまっています。私たちのときから今に至るまで、本当の教育というのがなされていないのではないでしょうか。とうとう道徳教育までやられるようになって。ものを言わないような、物事を知らせないような教育、そのほうが権力には都合がいいんですね。難しい問題を避けて、生活が豊かになることがよいとされてきているので、自民党の教育が功を奏しているのかもしれませんね。

2月11日の「建国記念の日」に反対する集会に参加したときに、いちばん印象に残ったのが日韓の高校生のディスカッションでした。平和大使にもなった日本の高校生が、疎外されるのが心配で友だちの中で政治の話とか集会の話ができないということに大変驚きました。韓国では普通に話せることが日本の高校生は友だちにもその話ができない。そういえば、地域でも政治の話がタブー視されていますよね。「愛知トリエンナーレ」どころではなく、私たちは日常的に表現の自由が保障されていないのではないか。自民党支持ならOK、天皇制万歳ならいいけれど、ほかの権力に反する話は一切ご法度ということが暗黙のルールになっているのではないか。今年は天皇代替わりがありましたが、ましてや天皇制批判などご法度ですよね。憲法の思想信条の自由、表現の自由が保障されていないことに危機感を覚えます。

もうひとつ左翼といわれている、いまの政権に反対する人たちにも問題があると思います。先日も法案に反対して自分だけ起立しなかった立憲民主党の議員が、離党届を出したという報道がありました。このことにも私はとても腹が立ちました。いろいろな考えがあって、ぶつかりながらでも団結しなければ闘えないんです。自民党を割るくらいにしないといけないのに、こっちが割れてどうするのだという思いです。巨大な自民党があって、反対勢力はほんとうに小さいのに、その中で喧嘩して更に小さくなって。なにをやっているんだと怒りがわきます。地をはうようにたたかっている人たちがいるのに。

こういうことでは安倍政権を崩せない、いつまでたっても自民党がなくならない原因のひとつではないでしょうか。民主党の鳩山さんが総理になったときにもみんなが痛烈に批判したでしょう。はじめて政権をとって、うまくいくわけはない。それを支援していかなければならないのに、足をひっぱってどうするんだと。いろんな問題がありながらも、反自民の政権を作っていかなきゃならないのに。

─私もそう思います。次に沖縄の運動についてお聞かせください。

辺野古の工事が始まった時に、銀座や有楽町でバナーを持ってスタンディングを始めました。解放同盟の仲間が後押しをしてくれ、私は沖縄問題で発言するようになりました。そして、仲間と共に南部の会という個人加盟の小さな組織を作りました。翁長さんや山城さんが国連でスピーチをしたとき、反差別国際運動の国連ジュネーブの事務局が大きな役割を果たしました。それは1988年に部落解放同盟が立ち上げた日本で初めての人権NGOです。その反差別国際運動がすごい力になっているということを知ったとき、部落解放運動ってなんてすばらしいんだろうと感動しました。そして自分が解放運動をやっていることに改めて誇りを持ちました。

─安倍政権の沖縄政策、安倍政権になってから辺野古も含めてものすごく強行にやり始めたという印象があります。安倍政権の沖縄政策というのはどのように思っていますか。

税金を湯水のように使って武器を爆買いして、辺野古にしても、軟弱地盤があることがわかっていて、崩壊するかもしれないと指摘されているのに、とにかく基地建設を強行する。三権一体となって沖縄の民意を踏みにじっています。それは安倍政権になってあからさまに見えただけで、今までもそうだった。復帰のときも、屋良朝苗主席の建議書を全く無視して、国会で強行採決した。2013年の「建白書」のときも同じように日本政府は無視しました。日本本土を守るために沖縄を捨て石にして、戦後は日本が独立するために沖縄をアメリカに差し出した。沖縄の民意というのは一度も顧みられたことがないと私は思っています。軍事基地は他の県ではいらないから沖縄に置いている。基地があることによって騒音、性被害、土地や海の汚染・・・・・。沖縄だって他府県と同じように基地はいらないんですよ。しかし沖縄には民意を踏みにじって強行する。そういう支配の構造に沖縄の歴史は置かれ続けてきた。昨年、アメリカのNGOが辺野古・大浦湾を日本で初めて「希望の海」に指定しました。「希望」を見つめながら闘っていく、どんな状況になっても声を上げ続けていくことが大切だと思います。特に、安倍政権は、違法・強権・弾圧で沖縄に襲い掛かっています。「沖縄に寄り添って、基地の削減に取り組む」という言葉を聞くと、寒気がします。絶対に許せません。

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