声明・申し入れ、2014年

2014年11月03日

憲法理念の実現をめざす第51回大会(護憲大会)閉会総会  まとめ 藤本泰成事務局長

全国から参加された皆さま、そして、多忙な中で、ご協力いただいた助言者の皆さま、そして、大会運営を支えていただいた地元実行委員会の皆さま、本当にありがとうございました。心から感謝申しあげます。
3日間、積極的な議論が展開されました。まとめきれないほど、様々な側面から、今の政治に対する、日本社会に対する警鐘が鳴らされたのではないかと思います。
少し長くなるかも知れませんが、私なりにまとめていきたいと思います。

51回の岐阜大会のテーマは「『戦争をさせない』私たちは平和主義を、そして命を守ります!」でした。
安倍政権は、「集団的自衛権」の行使を7月1日に閣議決定しました。10月6日には、日米ガイドライン見直しの中間報告が発表されました。米国の世界覇権に協力して、自衛隊の世界展開がもくろまれています。
6の課題別分科会のうち、3分科会において「権利と差別」が議論をされました。私は、その中に通底する人間の「命」の尊厳が、極めて危機的状況にある、そして、それは「戦争をする社会」を追い求める安倍政権の姿勢が、つくり上げているのではないかと感じています。

「教育と子どもの権利」の分会において、山梨学院大学の荒巻重人さんは、日本の子どもは「自己肯定感」が低い、自分が大切にされているという実感が乏しいのだと指摘しました。子どもは、安心感や自信がない、将来の希望がない、貧困、格差、孤立化などのすすむ中で、子どもの成長を支えきれない状況がある。議論の中から見えるのは、権利と権利のあり方を、私たちの側が、きちんととらえ切れていないという状況ではなかったでしょうか。
「権利と義務」がしばしば論じられますが、しかし、義務と言うのは、権利を守る国や自治体の義務、子どもで言えば親の義務が先にある。自分の権利と他者の権利が衝突する時、他者の権利を尊重しながら、どこまで、どうやって自分の権利を主張するのかは、権利の行使のあり方の問題であり義務と考えるべきではない。日本社会は「公的な義務」と「倫理的義務」を混同しているとの指摘は新鮮でした。

戦争をさせない1000人委員会の事務局長、内田雅敏弁護士は、集会後のパレードの後、公園のステージに立ち、憲法13条「すべて国民は個人として尊重される」との条文こそが重要だと指摘されました。2013年に発表された自民党憲法改正草案は、「個人」を「人」と読み替え、多くの人権に「公益と公の秩序」をはさみ、制限を加えています。権利の主体が主権者個人に在り、その尊重こそが人間の尊厳を守るもの、戦争は最大の人権侵害であるとの視点を常に持ち続けることが大切です。

子どもの権利に関する議論は、1924年に国際連盟が「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」を採択したことに始まる。第1次世界大戦を経験した人類は、「戦争によって最大の被害を被ったのは子ども」との視点から、子どもの権利を議論し始めたと荒巻さんは話します。

私は、2013年の3月8日にNHKが放送した「それでも私は生きた~いま明かされる戦争孤児の実像」と言う番組を思い出しました。第2次世界大戦で孤児となった子どもたちは、12万人を超えていたと言われています。その子どもたちが、戦後の混乱期をどう生きてきたのか、そのことの実像を記録したドキュメントでした。
「商店街でトマトを盗んで逃げた友だちが、直後にジープに引かれて死んだ。血だらけの中に盗んだトマトが転がっている。トマトを見るたびに友だちのことが思い出されて、今でも私はトマトを食べられません」
孤児が、政治によって救済されることはありませんでした。戦争が終わってから、生きていくための戦争が始まったとの指摘もあります。生きていくために盗みなどをせざるをえなかった多くの戦争孤児が、警察の取り締まりの対象となっていきます。本来、保護され教育を受けるべき子どもたちが、犯罪者とされていったのです。

「子どもの人権」ということへの意識が、「戦争」の中から生まれてきたとの指摘は、「戦争」の本質を突いています。しかし、安倍政権を構成する閣僚などの発言を見ると、戦争を肯定するかのような発言が目立ちます。
「真のエリートの条件は、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があること。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない。」これは稲田朋美自民党政調会長の言葉です。
下村博文文部科学大臣は、教育勅語を評価し「わが国が危機にあった時、みんなで国を守っていこう。そういう姿勢はある意味では当たり前の話」と述べています。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」この言葉でいったいどれだけの若者が戦死したでしょうか。そこには、政治家として重要な想像力が欠如しています。

「人権確立」の分科会では、東京造形大学の前田朗さんが、ヘイトスピーチが「表現の自由」の問題ではなく「差別と煽動と迫害」であり、これを許してはならないことを強調されました。そのことを理解しない自治体は、レイシスト集団の会場使用を認めてきました。それは表現の自由を認めることではなく、差別に手を貸すことに他ならないのだと。国連の人種差別撤廃条約は、いかなる個人または団体による人種差別も後援せず、援護せず又は支持してはならないこと、そして、国及びその機関は、人種差別につながる偏見と闘う義務を負うことが決められていると指摘されました。
私は、安倍政権の2006年の愛国心教育の導入から続く国家主義的政策や言動に、日本社会が大きく影響を受けているのだと思います。

ひろば「オスプレイ・低空飛行問題全国交流」で、神奈川平和運動センターの代表である福田護弁護士から、日米地位協定の問題が提起されました。国家主権を脅かす地位協定によって沖縄県民は、自らの平和な生活を米軍と米軍軍属から脅かされてきました。沖縄県民の人権が否定され続けてきました。そして、いま、沖縄は米海兵隊辺野古新基地建設で揺れています。地位協定の不平等性がそのことを作り上げています。
沖縄の平和運動センターの岸本喬さんから、沖縄県41全市町村の市役所にオスプレイ反対ののぼりを立て、全市町村が反対を表明し、10万人集会など県民運動を展開したにもかかわらず、「何事もなかったように」普天間基地にオスプレイが強行配備されたことを、無念の思いを持って語りました。
しかし、全市町村が一致団結して行動したこと、そのことが、今回の知事選挙において、一致して元那覇市長の翁長雄志さんを推すことに繋がっている。沖縄の運動が、保革の立場を越えて、少しづつ沖縄を変えている状況が明らかにされ、沖縄の思いを無視する安倍政権を、追い詰めるほどの闘いが報告されました。

「非核・平和・安全保障」の分科会では、東京新聞の半田滋さんから、安倍首相の集団的自衛権行使容認の理由が、全くの嘘で固められていることが報告されました。
この事態の向こうに、指摘された「第2次朝鮮戦争」や安保条約の改定などがあるのだとするなら、私たちはその危機を乗り越え、新しい東アジア諸国との友好と協調の関係構築、そして北朝鮮との国交正常化への取り組みを強化していかなくてはならないでしょう。
内田雅敏弁護士は、シンポジウムで1972年の日中共同声明から95年の村山談話までを取り上げ、歴史認識がアジア諸国との和解にいかに重要かを指摘しました。
「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国」私たちは、過去を清算し戦後70年の節目に向かって新しいアジアとの関係を築かなくてはなりません。

基調提起で、私は松尾芭蕉の句を紹介しました。芭蕉の句から、すべての命に寄り添う姿勢が見てとれると思うからです。

いま、政府は、原発事故が起こった福島県を縦断する国道6号線を、きわめて高い放射線量を記録する実態があるにもかかわらず、開通させています。
第2分科会「地球環境・脱原発に向けて」で原子力資料情報室代表の伴英幸さんから、現在もなお厳しい状況にあるフクシマの現状が報告されましたが、安倍政権の姿勢がフクシマの人々の思いに寄り添うものでないことは明らかです。
通過するだけで普通に暮らす場合の年間被曝量に匹敵する道路を、無理矢理開通させる人間の命を省みない姿勢、戦争、原発、貧困、差別、すべての共通するものです。
私たちは、3.11の東日本大震災・福島原発事故の後、「一人ひとりの命に寄り添う政治と社会」を求めてとりくみを展開してきました。3日間の議論を大切にし、かみしめながら、新たな時代に向けて、しっかりと歩みを進めていきましょう。

来年、第52回大会は11月14日から16日まで、柿がおいしかった岐阜から、リンゴの里、本州の北端青森へ会場を移して開催をします。より多くの皆様にお越しいただき、1年の成果を持ち寄り、より成熟した議論を展開したいと思います。

最後に、冒頭で紹介をした番組の中の、ある戦争孤児の手紙を紹介してまとめにしたいと思います。

戦争孤児となった私は、
同じ浮浪児の仲間と戦後の荒れ果てた町で
周囲の人から棒を持って野良犬のように追われ
バイキンの塊と呼ばれ、ゴミのように、水をかけられ逃げ回り

お母さん、あなたが命を犠牲にして守ったわが子の
そんな憐れな姿を見たらどんなに哀しむでしょうか。

何よりも辛かったのは、自分には帰る故郷がない、
支えてくれる家族がいない、たった一人という孤独感でした。

辛すぎて、何度も死を考えながら、
それでもとことん生きてやるという思いにさせてくれたのは
自分を犠牲にして私を守り
生き埋めになったままのあなたの無念な思いに対して
母さんここまで生きてきたよ、自分が生きた証を残したかったからです。

私は見えないあなたに支えられて生きてきました。
ありがとうお母さん。

 

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