平和軍縮時評
2011年03月30日
平和軍縮時評3月号 今こそ、思い起こそうビキニ水爆被災-海流が運んだ「死の灰」と汚染マグロ 湯浅一郎
1. はじめに
2011年3月1日、ビキニ・デー沖縄県集会に行く機会があった。ビキニ・デ―と言えば第5福竜丸被災と反応があるのが普通である。しかし、その中身について正確に認識している人は少ないのではないか。私自身、事前準備の中で「俊鶻丸」(しゅんこつまる)による放射能汚染調査や汚染マグロの獲れた位置を示した北太平洋全域の図を見て、問題の本質を知らなかったことに気が付いた。この問題の根の深さを押さえた上で核文明を問わねばならないと改めて思った。
それから10日後の3月11日、人類史に残るであろう重要な日がやってきたのである。宮城県沖130kmの海底を震源とするM9の巨大地震とそれに伴う津波が、多くの市民の生命と生活の場を奪ったことに加え、東京電力福島第1原発の冷却系統を破壊し尽くした。原発の運転そのものは停止したにもかかわらず、核分裂の結果として残った核分裂生成物(いわゆる「死の灰」)の崩壊熱を制御できなくなり、そこから6基の原子炉との勝算のない格闘が始まった。結果として、1~4号機(約280万kw)の燃料棒の一部損傷、水素爆発、使用済み燃料プールの過熱と損傷、破損した燃料棒に直接触れた汚染水の海洋への漏出など、度重なる事故が相次ぎ、相当量の放射性物質が環境中に放出された。海洋への影響という点では、英仏の再処理工場を除き、最大の問題になりかねない情勢である。原発事故としての深刻度は、チェルノブイリと同格のレベル7に引き上げられた。まだ、事態は進行中で、評価できる段階ではないが、私たちは、核文明とも言うべき、開けてしまったパンドラの箱の前で、立ち止まり、これとどう向き合うのか冷静に熟慮すべきである。
過去に放射性物質の拡散で、最も大規模で、かつ深刻だったものは、1945年から四半世紀続いた大気圏核爆発(通常、核実験という言葉が使われるが、これ自体が軍事作戦であり、核爆発という言葉を使用する)と1986年のチェルノブイリ原発事故によるものであり、福島原発事故がこれに加わった形である。福島事故も、約70年にわたる核エネルギー利用の歴史的文脈の中で位置づける必要がある。そこで、沖縄行きで考えた大気圏核爆発の典型であり、国際原水禁運動の直接的なきっかけともなったビキニ環礁での核実験を、これまで余り整理されていない海洋汚染の観点を中心にふりかえってみたい。
2. ビキニ被災
1954年3月1日、ビキニ環での米国による水爆実験で放出された膨大な放射性物質が地球規模での汚染をもたらす事態となった。第5福竜丸のマグロ廃棄後も、約1000隻の漁船が持ち帰った汚染マグロは、すべて廃棄され、水産業は大打撃を受けた。そして米ソの大気圏核実験に起因する降る雨の放射能が世界中の人々に、核の恐怖をもたらした。
この年の3月1日から5月13日、米国は、太平洋のほぼ真ん中に位置するビキニ・エニウエトク環礁で「キャッスル・テスト」と呼ばれる一連の核実験(水爆5回、原爆1回)を行った。初日の3月1日に爆発させた爆弾はブラボー爆弾と名づけられ、その爆発力は、TNT火薬に換算して15メガトン(メガ=106)である。15キロトンの広島型原爆の1000倍の威力である。ブラボーは、サンゴ礁の岩上にたてられた高さ50mの鉄塔の上で爆発した。島には、直径約500m、深さ数百mの大穴があき、数億トンのサンゴ礁を構成する岩石の粉が空高く吹き飛ばされた。 その日、ビキニ環礁からほぼ160km東方でマグロはえ縄漁をしていた第5福竜丸が、実験に伴い降下した径0.1ミリくらいの白い灰をかぶって被災し、半年後、乗員の一人久保山愛吉氏が死亡するに至った。「午前4時前頃、西方に異常な光が現われた」、「午前6時半頃から、6時間の間、白い粉末がチラチラと降る雪のように、断続的に船上に降り注いだ。」注1その日の様子については、大石又七「ビキニ事件の表と裏」(かもがわ出版(2007))注2など、当事者の方による多くの文献がある。
水爆は、水素原子の融合に伴う質量欠損からエネルギーを瞬時に取り出すもので、それを誘導するために原爆が利用される。いわば、核分裂を起動力として、核融合を起こすという代物である。まず原爆に伴う核分裂生成物ができる。しかし、第5福竜丸に降りそそぎ、久保山さんの命を奪った白い灰には、タンパーとして用いた天然ウランに高速中性子が衝突して核分裂が起こってできた核分裂生成物も大量に含まれていた。また、高速中性子が、サンゴを構成する炭酸カルシュームや、海塩の中の硫酸基のなかのイオウに衝突してできたカルシューム45、イオウ35などの誘導放射性物質も大量に放出された。水爆の恐ろしさは、ここにある。
3. 放射能による地球規模の海洋汚染
第5福竜丸の被災では、空から白い灰が降り注ぎ、その中で過ごしていた24人の乗員に異変が起こったように、ブラボーをはじめとして、6回の核爆発がもたらした放射能汚染は、まず大気経由で認識された。「ビキニ環礁から北東3000キロも離れたミッドウエイ群島付近で操業していた」三崎(神奈川県)の漁船、第8順光丸の船体は、1万cpm以上の放射能で汚染されていた注1。cpmとは、ガイガーカウンターで測定した時の、1分間当たりのカウント数である。死の灰は、貿易風や偏西風に乗り、地球規模で移動し、多くは雨となって降下した。後になって分かったことであるが、米政府の調査によると、ビキニ実験の灰は、貿易風に乗って北半球低緯度地帯を中心に拡散し、日本では、沖縄が最も影響を受けたと考えられる。4月頃から放射能雨の調査が各地で行われた。
日本政府は、核実験に伴う影響を具体的に特定するため、農林省の「俊鶻丸」による海洋の放射能汚染調査を組織した。1954年5月15日から7月4日まで、爆発海域を中心に、赤道から北緯20度、東経145~175度までの広大な領域で、海水、プランクトン、魚類などの放射能調査を行った。このとき、米原子力委員会のストローズ委員長は、「実験場のごく近くを除いては、ビキニ海域の海水には放射能はない」注1と豪語した。俊鶻丸調査団の顧問の中にも「大きい池の中に赤インキを一滴おとしたようなもの。海水には放射能は検出されないだろう」と考えている人がむしろ多かった。ところが実際は、予想に反して、5月30日、実験海域から東に1000kmも離れた海水から150cpm/リットルの放射能が検出されたのである。それから、3週間ほど、北緯5度から15度の北赤道海流の流域に沿って海水から放射能が検出され続けた。最大の汚染が確認された6月12日には、ビキニ環礁から西方約150km付近で、海水566~1610cpm/l、プランクトン1920~7220cpm/l、イカ6600cpm/g、カツオの肝臓33000~48000cpm/gなど驚くべき数値が出ている。ここには、当時、まだ常識になっていなかった食物連鎖に伴う生物濃縮の過程が明確に示されている。核実験から90日近く経過している中で、東西2000km、南北1000km以上に渡って、海洋汚染が起こっていることが判明したのである。
同じ頃、「台湾沖で、強い放射能を持ったシイラがとれ」、「7月には、東シナ海南方、さらに四国沖や伊豆七島の海域でも汚染マグロがとれ」注3ていた。8月になると伊豆半島、房総半島、茨城県沖で汚染されたカジキが取れ、9月には、茨城・福島両県の沿岸近くで、強く汚染された魚が取れる。これらのことから、北赤道海流や黒潮に乗って魚が回遊している様子が見えてきた。
水産庁は、3月から12月にかけ指定海域を通過した漁船が持ち帰るマグロの放射能検査を行った。その結果、汚染魚を水揚げした船は856隻、廃棄された魚は486トンに及んだ。高知県ビキニ水爆実験被災調査団注4によると、マグロを廃棄した船は、延べ992隻、実数で548隻にのぼると報告されている。
水産庁が作成した1954年3月から12月の期間中に汚染魚が漁獲された位置の分布図を示す注2。私は、この図を見た時、本当に驚いた。図は、汚染魚が基本的に北太平洋亜熱帯循環に沿って分布していることを示している。最も目立つのは、ビキニの海域よりも、日本列島の周辺、特に沖縄や九州南方に集中していることである。また爆発海域の東も含めて北赤道海流の流域に広く分散し、赤道より南側では、ほとんど漁獲されていない。これは、「死の灰」や汚染魚が、地球上でも最大規模の海流系に乗って移動し、分散していたことを示唆している。
大気には貿易風と偏西風という地球規模の循環流があるが、これに対応して海洋には風によって形成される巨大な循環流ができる。北太平洋亜熱帯循環は、熱の不均一分布をならす方向で、赤道地帯から極地方に向けエネルギーを輸送するメカニズムの一つである。北半球では、地球自転の効果が加わり、太平洋の北半分の全体に広がる時計回りの大きな循環流となる。日本列島は、この循環流の西端から北西部に位置し、西岸境界流により流れが強くなる部分が日本海流つまり黒潮である。
本来、恵みを運ぶはずの海流が、グアム、フィリピン、台湾、沖縄、日本へとビキニ発の「死の灰」と汚染魚を輸送していたのである。ビキニで、瞬間的に放出された放射性物質が、北太平洋亜熱帯循環に乗り、移動し、6~9ヶ月後には日本列島周辺に到達していたのである。その間、動・植物プランクトン、小魚、大型魚と食物連鎖における濃縮過程を経て、マグロなどの大型魚になると高濃度の放射性物質が検出された。マグロの産卵地が九州南方にあるという説もあり、魚類の生活史との関連性において、死の灰の分布を考えることが重要である。
4. 生物の論理になじまないものをなぜ大量生産するのか?
ビキニでの核爆発は、偏西風や貿易風が放射能を運び、恵みの雨が大地に放射能を降らせ、北太平洋規模の循環流が汚染マグロを輸送したという悲しく、つらい出来事をもたらした。そして大気圏核爆発は、1945年から1980年までの25年間に渡り、現在の国連安保理常任理事国である5ヵ国により、実に543回も行われた。これによって放出された放射性物質の量は膨大である。ストロンチウム、セシウム、プルトニウムなどは半減期に応じて残存し、今もバックグラウンド値を高めている。ビキニから半世紀以上がたち、多くの人の記憶から遠くなっていることは否めないが、福島事態の渦中にいる市民にとって、このときの状況を思い起こすことは極めて重要である。
特に今、福島原発では、冷却に使用されたと見られる大量の汚染水の海洋への漏洩、ないしは排出がいつ終息するかわからない情勢である。原子力安全委員会は、「海水中に放出された放射性物質は、潮流に流されて拡散していくことから、実際に、魚、海藻などの海洋生物に取り込まれるまでには、薄まると考えられます」とくり返している。これは、ビキニ被災での米原子力委員長の認識と全く同レベルであり、海洋の構造や食物連鎖過程での生物濃縮について無知をさらけ出している。福島で懸念される海洋汚染の継続を考える上でも、ビキニ実験に関わる一連の放射能による海洋汚染の体験は、今、改めて重要な意味を持ってきていると思われる。
地球上に生物が生存できている最も基本的な条件は、水が形を変えながら、地球上を循環できるシステムが、安定的に存在していることにある。風や海流に乗って、様々な物質が輸送されるが、大気や海洋の流れこそ生命圏保持の基礎である。ところが20世紀に入ってからの人類は、科学技術の発達を通じて、もともと自然界に存在しなかった物質群をつくりだし、それに依存する社会を形成してきた。核物質は、その最たるものである。核物質の制御がきかなくなり、環境中に放出されたとき、本来は恵みを運ぶはずの大気・海洋は、地球規模に毒物を輸送する役割を担うことになる。これほど悲しく、情けないことはない。そうさせているのは、我々人類である。循環型社会の構築は、今や、世界共通の原理であるが、原子力エネルギー利用は、循環してはならない物質群を製造し続ける限りにおいて、この原理に矛盾する。これを克服するためには、軍事、平和利用の如何に関わらず、日々、大量の放射性物質を生産することを放棄し、核エネルギーに依存する社会構造を変えていく以外に方法はない。
注:参考文献
- 三宅泰雄「死の灰と闘う科学者」、岩波新書(1972)
- 大石又七「これだけは伝えておきたい、ビキニ事件の表と裏」、かもがわ出版(2007)
- 武谷三男「原水爆実験」、岩波新書(1957年)
- 高知県ビキニ水爆実験被災調査団編「もう一つのビキニ事件」、平和文化(2004)