ニュースペーパー

2021年02月01日

「くびき」からの解放をもとめて

「10年目の福島で、いま」第2回

脱原発福島県民会議 佐藤龍彦

ロシアの歴史にタタール人(蒙古)に蹂躙された時代があり、凡そ250年の世紀を超えたタタール人の支配を「タタールのくびき」と言うそうです。東日本大震災・原発事故からまもなく10年の節目を迎えようとしていますが、いまだ世界的大惨事となった未曽有の被害は消えることはありません。被害の爪痕は世代を超えて幾世紀にも及ぶ「フクシマのくびき」として残るのでしょうか。

原発重大事故を起こした責任は東京電力と国にあります。被害のすべては、重大原発事故から放出された大量の放射能に起因する実害であり、失われた故郷の「うつくしまふくしま」を取り戻すために、被害者は、苦渋を秘めた憤怒を胸に理不尽かつ苦難の努力を続いています。とかく福島の復興アピールが特化されて報道され、あたかも復興が着実に前進しているかのような錯覚に陥りがちですが、以下、特筆するべき事例を紹介しますので、ありのままのフクシマと併せて想像を膨らましていただければ幸いです。

ふるさとを返せ!いまも全住民が避難

原発事故に伴い、国の不作為により高密度の放射能被ばくをモロに受けたあとで期間困難地域に指定された浪江町津島地区、事故当時、同地区には約400世帯、1,400人が暮らしていましたが、今も全住民が避難、一部を除き帰還の見通しさえありません。除染計画なしの通称、「白地(しらじ)地区」が大半です。住民は、汚したところをきれいにしろ、ふるさとを返せという当たり前のことを求めて係争中(ふるさとを返せ 津島原発訴訟)、現在は、やっと結審し判決を待つばかりです。

原告団のひとり武藤茂氏(71歳)は筆者の親類にあたります。事故当時は南津島地区にある自宅に、妻(68歳)、長女(40歳)、義理の母(84歳)の4人で暮らしていました。オス犬のペット、ミニチュアダックスフンド「メル」も家族の一員でした。―括弧内は、各々が歳現在の年齢です。― 茂氏は事故当時からを振り返ります。長女の被ばくに心を痛めていることから始まり、多くの避難者を家に受け入れたこと。事故の情報が全くなかったこと。家族総出で避難が始まったこと。避難先へ辿りつく過程、避難中の身内の葬儀のこと。借り上げ住宅から現住居(福島市)に至るまで。見知らぬ街での生活。生活苦と不安の自給自足の生活喪失。家族の健康悪化。長女の雇用喪失。理不尽な特定復興再生拠点区域事業等など。

納得できない・・帰りたいよな!

「茂氏は旧姓、清信(きよのぶ)家の4男として生まれ、結婚と同時に養子縁組をして武藤家に入っています。武藤家は妻の生家であり、南津島に江戸時代中期以前から代々伝わる旧家です。津島地区には武藤姓がたくさんあり佐藤畑と呼ばれる本家筋にあたり、茂氏は武藤家15代目の当主です。

佐藤畑と呼ばれる武藤家の敷地にはヒバの巨木があります。樹齢数百年とも言われており武藤家のシンボルです。ヒバの巨木の根本には三つの池があり水神様を祀っています。また敷地内には母屋の他に納屋や牛小屋、外付けの風呂場等が立ち並び、前庭からそびえ立つ山林は武藤家の所有です。武藤家は主に農業を営み、田畑の耕作の他にも畜産や林業、養蚕で生計を建ててきました。近隣にある長安寺にはひときわ大きな墓があります。彼岸には焼香を欠かしたことがありません。仕事は大工、震災前に新築し自前で所有の山から木を伐りだし家族総出で建てました。」

以上は、茂氏の「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の原告として陳述した内容を抜粋した一部ですが、綿々と綴られる文面には、つつましくもある家族の幸せや、隣近所との濃密な付き合い、昔から伝わる行事や風習、文化、地域とのコミュニケーションが記されています。茂氏は、遠く離れた避難地から手塩に掛けた自宅をたびたび訪れ妻と共に隅々まで一心に清掃し線量を計ると言う。帰りたい想いがつのるばかりと、「納得できない。帰りたいよな!」の言葉を妻と一緒に繰り返すと言う。

被災した自宅で

故郷を返せ・人間を返せ・人生を返せ!

ある日突然、すべてを破壊した東京電力と国の責任は償っても償いきれるものではありません。あの日から10年、なにひとつ解決されることはない。故郷を返せ、人間を返せ、人生を返せ!たとえ朽ち果てても忘れることができない苦渋を、『くびき』からの解放を求めて淡々と訴えつづけています。

茂氏の人生を一瞬にして奪った原発重大事故、事実に向き合うことをしない国と東京電力、寡黙な茂氏の炎に燃えた目の奥で、二度とフクシマの悲劇を繰り返さないと伝えています。(さとうたつひこ)

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