ニュースペーパー
2020年08月01日
危機のなかで考えるメディアの役割、日本社会の未来
インタビュー・シリーズ:157
金平 茂紀さんに聞く
かねひらしげのりさんプロフィール
TBS「報道特集」キャスター、早稲田大学大学院客員教授。1953年生まれ。東京大学文学部卒。TBS入社後はモスクワ支局長、ワシントン支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、などを経て、2010年より現職。著書に『テレビニュースは終わらない』(集英社文庫)、『沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)、『抗うニュースキャスター』(かもがわ出版)など多数。
─金平さんは福島原発の現状について、継続的に取材をされていますね。
福島第一原発には毎年入って取材しています。今年はすでに2回入りましたが、決して楽観的にはなれない状況です。放射能汚染と新型コロナウィルス感染の二重の問題のなかで、廃炉作業員は「三密」状態に置かれていた(いる)現実があります。こういった実態についての報道が実は十分にできていません。
当初言われていた2040年までの廃炉完了は、どんどん延びています。原子炉のなかのデブリなどがどうなっているのかも把握しきれていないのが現状です。それを取り出すなどという人類史上初めての作業をやりきらなくてはならない。汚染水の問題も深刻です。
そんななかでもオリンピックを1年延期してでもやるというのだから、破綻しているとしか言いようがありません。
─今、新型コロナウィルス感染症問題が私たちの社会を揺るがしています。どのようにご覧になっていますか。
今回のパンデミックも「100年に一度」とも言われていますが、たしかに100年前にはいわゆる「スペイン風邪」(インフルエンザ)でたくさんの人びとが命を落としました。大きなパンデミックの後は、社会構造が変化します。100年前は資本主義の矛盾が噴出し、ロシア革命が起こったりした時代です。
これだけ大きく、地球規模で起きたパンデミックにしても、始まりなのかそれとも半ばにあるのか。どの段階にあるのか、私たちにはまだわかっていません。日本で小康状態に入って終わったかのように思っていたら、今度は南半球で、あるいはアメリカでも拡大している状態です。日本だって、今秋以降や来年どうなっているか、まだわかりません。ワクチン開発や治療法の確立にはまだ時間がかかります。
こうした問題が解決するかどうかがわかる前に「人類がコロナウィルスに打ち勝った証としてのオリンピック開催」などと言うのは、思考を放棄しているとしか言えませんが、こういう人たちが権力を持った代表者なのです。今の危機を乗り越えるだけの能力も想像力も持ち合わせず、ただ権限だけを行使し、みんなが混乱しているところに乗じてやりたい放題をやっているのです。暗澹たる気持ちになります。
─この危機のなかで日本の政治の問題性が大きく立ち現れています。
今という時代は情報過多の時代で、政治家も情報発信やパフォーマンスにばかり熱心で、もっと黙々と仕事をしろと言いたくなりますね。しかしメディアに露出している方が権力を維持できるようになってきていて、政治がメディアショーになってしまっています。為政者・公務員からは、国民に対する奉仕者だという基本的な倫理が失われ、自分たちの仲間うちだけの私利私益を追求し、権力を握り続けることが目的になっています。
コロナウィルス対策で休業させたのならば、当然それに対する補償があるべきですが、いくらか給付してやるぞ、で済ませようとしている。呆れてしまいます。近代国家における政府とは何かということがまるでわかっていない。自分たちが支配者であって、お前たちは「臣民」として従うんだという江戸時代のような感覚で政治をやっている。東京高検の検事長人事をめぐって検察OBたちが法務省に提出した意見書のなかで、「朕は国家なり」というルイ14世の言葉を引用したくだりがありましたが、まさにそういうことです。
1970年代にロッキード事件を摘発した検察の人びとの職業倫理の高さに比べ、今の政治家、たとえば法務大臣は、いったい何をよすがとして執務しているのでしょうか。ほとんど当事者能力を欠いていて、官僚の作文した想定問答を読み上げるだけです。
野党の責任も重大です。世論調査を見ても支持率は惨憺たる状況が続いています。与野党の力関係がこのような状態であるにもかかわらず、足の引っ張り合いに明け暮れている。
戦後の日本は一貫してアメリカに追従してきましたが、この安倍政権においては、トランプ大統領と安倍首相の蜜月ぶりに象徴されるように、極限的な追従にまで堕してしまいました。そのことによる損失は実に大きい。国家としての尊厳がずたずたになってしまった。日米安保条約が、実質上、憲法の上位法になってしまっていることが、政治や外交に歪みをつくっています。一言で言えば「属国」です。
香港で起こっているような基本的人権への侵害は、実は私たちの足元でも起こっています。例えば、関生弾圧のような、露骨な労働組合潰しが大手を振って行われています。まるで戦前の特高警察です。労働組合イコール悪かのような、前時代的な人権感覚が治安機関を中心に横行しています。
しかし、コロナ禍の副作用で、いかにひどいところに私たちがいるのかが、ようやく見えてきたとも言えます。多くの人びとが今の政権のままではいけないと気づき始めている。一刻も早く今の政権にお引き取りいただかないと、この社会そのものが持たなくなっています。
─こういう状況のなかでメディアが重要な役割を持っていますね。
新型コロナ禍はあまりに大きな現象だから、この全体を概観的に語るのは非常に大変な作業です。こういう状況にあって、メディアが何を伝えるべきなのかということを考え続けています。時間をかけてもやり続けなくてはならない。
例えば専門家会議から発表される見解や方針が本当に正しいのか、メディアはチェック機能を果たさなければならないのに、まるで宣伝係になってしまっています。これは恐ろしいことです。3.11以前の原発に対するメディアのスタンスと相似していて、「安全だ」という発表に対し、少数の人びとを除き、ほとんどのメディアは旗振り役のような役割を担っていました。(後日の注記:その専門家会議さえ「廃止」されてしまいましたが。)
「日本の医療水準は高い」、「民度が高い」などと自画自賛する政治家たちがいるなかで、「日本はすごい」というムードに流されチェック機能を失ったメディアは深刻な問題を抱えています。
社会にもたらされた混乱は大きく、経済活動や教育といった社会活動全般の「自粛」、私権の制限に至るまで、国民は飲まされたわけです。「要請」という名目で強制ではないようで、ほとんど「命令」に近いものでした。
「テレワーク」「リモート労働」と言っても、非正規労働者、エッセンシャルな(不可欠な)現場労働者、フリーランスの人たちへの補償は整っていません。こういった問題をメディアがしっかりと報じて、弱い立場に立って検証することが必要なのに、まるで「自粛警察」の先導役のように、パチンコ店客や外出する人々を叩き、今度は「夜の街」=水商売に対する差別的対処を煽るようなことをやっています。
政府による対策や施策は、総じていえば、原理原則を欠いたその場しのぎの弥縫策で、「火事場泥棒」みたいなことをやっているときに、国民はおとなしくしてはいられないはずです。電通系企業群の「中抜き」問題、検察ナンバー2の賭け麻雀もそうだし、国民やメディアが、我慢することに慣れてしまっているのではないでしょうか。
アメリカを見れば、新型コロナウィルス感染が拡がる厳しい状況のなかでも、警察によって黒人男性が殺害された事件に対する抗議を契機に、集会やデモをあそこまでやっています。アメリカの市民の動きを見て力づけられるのは、最終的には、草の根、市民の力が大きく世の中を動かしているのだということです。
─「ポストコロナ」という言葉が聞かれますが、今後の私たちの社会はどのように変わっていくのでしょうか。
大きな災害や危機の後には、とてもよくない反動がしばしば現れます。いつ終わるかわからないという状態が続くと、偏見や差別が、とりわけ嫌なかたちで拡がっていく。ウィルス感染の問題だけではなく、この偏見や差別の問題も怖いものです。だからこそ、このまま黙っていてはいけないのです。
「ポストコロナ」、新型コロナウィルス感染症を経験した後の世界は、単に前に戻るのではなく、必然的に違うものになっていくでしょう。しかし、そのことをバネとして、世界を大きく変革することが必要ではないでしょうか。
3.11のときは元通りに戻るということが強く意識されていて、実際に原発再稼働まで行ってしまっています。「アンダーコントロール」などと国際社会に嘘までついて、オリンピック招致もしてしまった。もう二度とそういうことを繰り返してはいけないのだ、ということを理解しなくてはいけません。
私たちの社会がいかに脆いのか、そして弱いものから順番に痛い目にあわされていくのかということがわかったのなら、元の世界に戻せばいいのではなく、これをきっかけにして、新しい生き方というものを自分たちの側から(政府から押しつけられるのではなく)作っていくのでなければと思います。ただ戻るのであれば、もっとひどいことになるでしょう。
日本社会全体が、知識や知性といったものを役に立たないものとして軽んじる一方で、声高に叫ばれる主張やマッチョな(新自由主義的な金儲け至上主義的な)価値観に惹きつけられていくような流れのなかにあります。とくに常にメディアに露出し続けることによって、自分という存在を保つポピュリスト政治家たちがいます。そういう人たちが行政の中心になってしまったことが悲劇です。おそらくアメリカは大統領選挙もあり、今後大きく変わるでしょうが、日本はどうなるでしょうか。
いま、私の持ち場であるメディアが変わるべきはもちろんです。労働組合や市民が果たすべき役割も大きいですが、とくにアカデミズムの世界ががんばってほしいと僕は思います。たとえば、大学という存在は、単に授業料を取って学生を教育するだけではなく、研究する場ですよね。こういうときだからこそ、社会に対して発信をしていくべきではないでしょうか。