ニュースペーパー
2020年08月01日
被爆から75年~私の原爆
原水爆禁止日本国民会議 議長 川野 浩一
早いもので「あの日」から75年が経過しようとしている。当時5歳の私も今や80歳、長崎の被爆者5団体のトップは次々と亡くなり、発足時から残っているのは私だけとなった。
自治労長崎県職員組合の青年部長時代から原水禁運動に関わってきたが、退職後も長崎県平和運動センター被爆連議長、原水禁副議長、議長と半世紀以上も、この運動に関わってきている。
平安北道で生まれて
私が生まれたのは、北朝鮮の最北部、中国との国境近くの平安北道、ここで父は警察官をしていた。警察官と言っても、主な任務は鴨緑江を渡ってくる匪賊(ゲリラ)への対応が主な任務で、軍隊とあまり変わりなかったようだ。晩年、酔うとその頃の話を独り言のようにしだす。「夏は良かったなあ。そんかし、冬は河の凍って、匪賊の馬橇でくるもんやけん、命懸けやった。電信柱には生首のようぶら下がっとった。畑にわっか(若い)男のおるぞというと、兎ば捕まえるごと、網ば張って捕まえよった」。こんな危ない話になってくると、いつも母が「やめんね、そんげん話は」と遮った。いつしか私は「加害者の子」を認識するようになった。
私が1歳9ヶ月の時、父が兵隊に取られたため、母方の実家を頼って長崎に引き上げてくる。
あの日、1945年8月9日は、長崎は朝から良く晴れていた。午前11時2分、ようやく警報が解除され、私は家の前の防火用水を背に、近所の子と遠くから聞こえるヒコーキ音を「友軍機やろ」と言って機影を探していた。と、その時、その子が気が狂ったように走りだしたところまでは覚えているが、ピカもドンも私には記憶がない。気がつくと15mほど離れたところに倒れていた。脇にいた近所の中学生は額から血を流しており、私はその血を浴びていた。上空にはB29が旋回しているのが見えたので、近くの防空壕に逃げ込んだ。壕内では近所のおばちゃんたちが、「どけ、爆弾は落ちたとやろか」と大騒ぎしていたが、男の人が「こら、広島に落とされた新型爆弾ばい」と言った途端、壕内は静まりかえった。広島の情報は知れ渡っていたのだ。母が迎えに来てくれ、我が家の防空壕に移ったが、幸い家族は皆無事だった。
しばらくすると、祖母が防空壕の入口から「子供たちは絶対外に出すな」と叫ぶ。爆心地の方から大怪我された人たちがぞろぞろと…祖母は私たちに見せてはいけないと思ったのだろう。まもなく山手の防空壕に避難命令が出、外に出てみると長崎駅の方は赤黒い猛烈な火炎が上がっており、道は避難する人でごった返していた。その夜、山の上から長崎の街が延々と燃える情景を多勢の人が見ていたが誰ひとり言葉を発する人はいなかった。8月15日、「日本は敗けたぞう」と叫びながら中学生が上がってきた。壕から出てきた人たちは彼を囲んで騒いでいたが、しばらくすると、みんな無言で山を降りた。家は無事だった。寝る前にどうしても気になることがあった。枕元の破れたバケツに入っている消し炭のようなもの…祖母に尋ねると「浦上のおばあちゃんよ」と教えてくれた。「街は危ないから浦上に来い」と盛んに言ってくれていたが、母は許さなかった。行っておれば同じ運命だが、原爆の投下目標地は街の中心地、目標通り投下されていたなら…私は骨も残っていまい。運命とはわからないものだ。
世界の核被害者と共に
原水禁の初代議長森瀧一郎さんに最初にお目にかかったのは、1987年9月26日から10月3日まで、ニューヨークで開かれた第1回核被害者大会。この大会はヒロシマ・ナガサキをはじめ世界各地の数百万人に上る核被害者が一堂に会し、核被害の阻止と補償の原則を確立しようとするものだった。この時、森瀧さんがおっしゃった「小さきものは美しきかな」という言葉は今でも覚えているし、また、我々原爆の被害者ばかりが核被害者ではないことを思い知らされた。
1994年5月8日から13日まで、原水禁は欧州へ国際交流調査団を派遣したが、スイス・ジュネーブで現地NGOの方から来年の国際司法裁判所の裁判に長崎市長を証人として出席させて欲しいと頼まれた。当時の市長は本島等さん、彼は市議会で「天皇に戦争責任がある」と発言したことから右翼に銃撃され重症を負いながらも命を取り留める。しかし、その後24時間警察の警護がついていたので、多分無理だと思いながらも、帰国後、その旨を市長に伝えたところ、本人は乗り気で、行く気満々でしたが、次の選挙であえなく落選、代わりに当選した伊藤市長が出廷することになった。
出発直前、市長から「外務省から制約がかかり、発言ができない。これでは行ってもお役に立てない」とのSOS。ラッキーなことに当時は村山政権、外務省を抑えてもらい、「黒焦げの少年・谷崎昭治さん」の写真を掲げ、長崎市長らしい証言ができました。その後1996年7月8日、「(核兵器の威嚇または使用は)一般的には違反する」との勧告的意見が出されました。
この判断から11年後の2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が、122ヶ国の賛成で可決されることになるが、その一翼を故伊藤市長は果たされたのではないかと思う。(伊藤市長も2007年4月17日、銃弾に倒れる)
原爆展への反応
インド、パキスタンの核実験に呼応して、1998年11月22日から11月28日までの7日間、パキスタン・ラホールで開かれた連合・原水禁・核禁3団体による原爆資料展に参加した。
3団体は私たちの団を含め6班を組織し、インド、パキスタンでそれぞれ同様な原爆資料展を行ない、日本政府も12月16日から政府主導による初の原爆展をパキスタンの首都イスラマバードで行った。他の核保有国との違いは多勢の一般市民の他、多勢の学生や軍人、警察官までが来たことで関心が深いことが分かる。労働組合の集会にも参加したが、産別ごとの激しいシュプレヒコールの応酬や政府要人の挨拶の時には、兵士が銃口を聴衆に向けていたのはお国柄だろうか。写真展で一人の現地エンジニアがこんなメッセージをくれた。「写真展を見て非常に悲しい気持ちになりましたが、それをどう説明できるでしょうか。これらの絵や写真は全ての国に対して原子爆弾や核兵器の廃止と人類の平和を訴える手本となるものです。日本が経済国であり、美しい平和な国であることは私にとって喜びでもあります。いつの日か日本を訪ねてみたいです。日本の皆さまへ平和を願います。」彼はイムラン・ハミドと名乗った。
2000年4月19日から10日間、NPT再検討会議に連携し、連合、原水禁、核禁の3団体の「軍縮・核廃絶」平和派遣団に参加したが、その行動の一環としてニューヨークで原爆展を開催した。しかし、なかなか人が入らない。そこで我々はプラカードを持って、街角に立ち、カタコトの英語で呼びかけたが、そこで直面したのは、私の顔に指をふれんばかりの、中年白人男性の「リメンバー・パールハーバー」の強烈な一撃だった。改めて米国民の「ヒロシマ・ナガサキ」への本音を思い知らされたような気持ちだった。
平和行進 2019年8月4日
どこの国の総理ですか
2017年8月9日、長崎の被爆者5団体は要望書を安倍首相に手渡しますが、今回はたまたま、私が渡すことになっていた。私たち被爆者はこの72年間苦しみ抜き、そして3たび許すまじ、原爆をと必死に闘ってきました。そして、やっと今年国連で核兵器禁止条約が採択されたのです。しかし、我が国は「世界で唯一の戦争被爆国」と称しながら、それに賛同もしない、私は素直に要望書を首相に手渡す気にはなれませんでした。私の口から出たのは「総理、あなたはどこの国の総理ですか」でした。そして、「私たち被爆者はこの72年間、子や孫のために、いやすべての人にあのような苦しみを味わせてはならないと…、核兵器禁止条約に賛同してください。そして、東北アジアの非核兵器地帯構想を実現しようではありませんか、私たちもお手伝いします。」と付け加えた。首相の顔は怒りのためか少し赤らんで見えました。
世界中がコロナ騒動で振り回されているためか、核兵器禁止条約の批准がなかなか進みません。批准している国は現在40ヶ国、50ヶ国に達してから90日後に発効することになりますが、批准後、NPTとの関係をどう図っていくのか、また、この条約に賛同してない核保有国や我が国をはじめ、核の傘にいる国々がどのような動きをするのか見えて来ません。
長崎大学の核兵器廃絶研究センター(レクナ)の6月9日の発表によると、世界の核弾頭は9ヶ国で1万3,410発と、前年同期から470発減少した一方、中国は30発増の320発となりフランスを抜き、ロシア、米国についで3番目に多い国となりました。確かに前年同期と比較すると減少したとは言え、地球上の人類を何十回殺しても有り余る数字であることには変わりありません。しかも近年、米国トランプ大統領は「中距離核戦力(INF)」全廃条約(1987年発効)を失効させ、さらに「核態勢の見直し(NPR)」では「使える核兵器の開発、あるいは通常戦争でも小型核兵器の使用」を表明するなど極めて危険な状況と言わざるを得ません。また、米・ロの核削減交渉も今後どうなるのか見通しがたっていません。このような時だからこそ、「世界で唯一の戦争核被爆国」の日本の出番があるのです。米国の核の傘から出て、東北アジアの非核兵器地帯構想を完成させることです。まさに、世界の核兵器廃絶のリーダーになれるのです。(かわの こういち)