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2012年06月01日

「日本よ、アジア社会の一員たれ」

1853年、米国のバージニア州・ノーフォークを出航したペリー提督率いる米艦隊は、大西洋・インド洋を横断し南シナ海から当時の琉球王国に到着した。この艦隊は、その後浦賀に来航し江戸幕府に開国を迫ったことはつとに有名だ。鎖国政策から210年余り、この艦隊が江戸幕府に与えた衝撃は大きく、1854年の「日米和親条約」、1858年の「日米修好通商条約」等の不平等条約は、江戸幕府崩壊の大きな要因である。今の日本、特に沖縄を見ていると、日本の不幸は、このペリー艦隊の来航に起因しているのではないかと感じる。

明治維新を成し遂げる薩摩藩や長州藩。攘夷を藩論として倒幕に進んでいた両藩は、薩英戦争・下関戦争を通じて欧米列強の実力を知る。彼らは、維新を成就した後、欧米に追いつき追い越せと、富国強兵政策に邁進する。1885年、ペリー来航からたった31年後、時事新報にある論文が発表された。福沢諭吉の書いた「脱亜論」である。「我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり」とし「惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」とする論は、その意図がどこにあったかは別にして、アジアにおいて日本は欧米と同様に振る舞うことを正当化し、侵略戦争と植民地支配に邁進した日本の近代史を象徴する。

日本は1945年にアジア諸国に多大な被害を与え敗戦を迎える。敗戦の責任を明確にできなかった日本は、明治維新後の日本近代を総括することなく、敗戦の理由は米国の物量にあったとして、米国の庇護の下、経済成長に邁進する。戦前の欧米への憧憬は「唯一の米国」に形を変えるも、アジアを蔑視し欧米文化に憧れる日本社会の姿に変化はなかった。復帰40年、変わらずに沖縄を痛めつける「日米安保条約」「在日米軍基地」は、ペリー来航以来の日本社会のあり方を変えていくことでしか解決策はない。

「日本よ、アジア社会の一員たれ」。そのことこそが、新しい日本をつくる。台湾を前にした与那国島に立って、その思いを一層強くした。

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