●司会 伴英幸さん(原子力資料情報室)
福島原発は、いまでも安定しているとは言い難い状況です。確かに冷却水を送りこんでいますが、それは一方方向です。部分的には蒸気になり、部分的には原子炉から漏れて、建屋のどこかに行っている状況が続いています。
この段階で余震が起きれば、どのようなことになるでしょうか。4月10日に余震が起きた時には、冷却作業が2時間ほど、ストップしてしまいました。もう少し大きな余震が来て、5時間とか6時間とか冷却ができなくなれば、より大きな事故になる危険をはらんだ状態にいまでもあるのです。そのことをしっかりと認識していただきたいと思います。
本日はもともとの計画では、チェルノブイリ原発事故25周年の集会でした。ロシアからパーヴェルさんをお招きしています。この集会にも来ています。また福島の現地からの事故や避難の様子、高い放射線下に置かれている子どもたちはどうなっているのか、そういった報告があります。
最初に、ヴェヴィチンコ・パーヴェル・イヴァーノヴィッチさんを紹介します。彼は今も、汚染の高い地域に住んでいます。事故の翌年にラジーミチという団体を結成して、汚染地での活動をしています。彼自身は国際部門の担当者として、事故の様子を伝えたり、被災者の支援活動に責任を持って携わったりしている方です。
●パーヴェルさん(ロシア・ラジーミチ)
コンニチハ。親愛なる日本の友人の皆さん。
チェルノブイリとフクシマという共通の悲劇が、私たちをここに集めています。もちろん私は、被害を受けたあなた方の国の人々が、自らに対する災いを辛抱強く忍んでいる姿に驚嘆しています。しかし私は、あなた方に大変同情しています。
私はよく、1986年以前の自分の故郷を思い出します。私と私の友人たちは、清らかな川で水浴びをし、自分たちの森で散歩し、野菜や果物を栽培し、そうではない時代が来るとは決して思いませんでした。
私たちから180キロ離れた場所での、人災の大惨事は、20万の同郷人の生活から多くのものを奪い取りました。
今日、私の孫たちは、新鮮なミルクを飲むことができません。そこでは非常にしばしば、放射能が基準値を超えるのです。私たちは伝統的に食べてきた、森のイチゴや、野生動物の肉、湖の魚を食べることができません。
私たちは、どこで汚染の無い食料を買ったらいいのか。私は冬に備えて、汚染されていないジャガイモを買うために、200キロの道を車で行きます。川や森に行く時に、どのように慎重に行動したらいいのか、いつも考えています。
私たちは、医療検診や、医者にあうことを恐れています。なぜなら、彼らの言葉は、判決のように響きかけないからです。そしてこの状況は、私の土地で何十年も続くでしょう。
このように25年間、私は生きてきました。同じように、子どもたち、孫たち、ひ孫たちも、人生を送るでしょう。これは私たちの悲しい十字架です。チェルノブイリの十字架です。
親愛なる素晴らしい日本の皆さん。チェルノブイリとフクシマは、あなた方とあなた方の子どもたちにとって、永遠に深刻な警告として残るように、あなた方にできるとのすべてを尽くしてください。核の災いが再度、あなた方の家にやって来ることを許さないでください。
(通訳:坂本博さん/元富山国際大学教授/ロシア思想史研究家)
●大賀あや子さん(大熊町住民)
この3月26日が、福島第1原発40周年にあたる日です。福島の市民活動をしているグループでは、延長運転をしていても、間もなく廃炉の時期を迎えるということで、昨年の秋から「廃炉アクション」を始めました。原発賛成の人も反対の人も、一緒になって廃炉になる原発を考えよう、廃棄物を考えようという趣旨で始めたのです。
私自身は、20代から16年間、大熊町に住んでいて、地元に根付いて小さな農業をやっています。第1原発も第2原発も廃炉になり、放射性廃棄物が残ることに対して、市民運動として声を上げていこうと思っていたのです。
原発震災の警告はたくさん知っていました。25年前にチェルノブイリの放射能が日本まで来ていたのを知っていました。妹が小さくて、とても心配でした。自分より若い人を、訪放射能の被害に合わせてはいけない思いで、運動していました。
これまでは、「事故が起こったら危ない」ではなく、「事故が起こらなくても危ない」、「大変な問題が起こる」と伝えることが多かったのです。原子力防災については自分でも学んで、車には常にマスクやカッパを積んでいました。
本当にいざという時にどうしたらいいのか、皆さんに伝える活動ができていませんでした。そうして3月11日が来てしまいました。
(涙で話が止まり、会場からは応援の拍手)
ものすごい地震で、まず津波の注意がアナウンスされ、停電になり、町の防災無線以外には、何の情報もありませんでした。ラジオで「緊急停止」の情報がありましたが、余震の恐怖もある中で、近所の人と地震の対策をしていました。
そして、やっとつながった携帯で福島市の友人から、「原発の非常用ジーゼルが止まった」という情報が入りました。「え!」と思い、情報の出所を聞く前に電話は切れてしまいました。その後は携帯がつながりませんでした。近所には原発で働いている人がいます。あまりにも不確かな情報を、誰にも伝えられませんでした。もう少し確かめてから逃げようと、やんわり言ってみようかなどと考えてみました。それでも、うちの家族だけで車に乗って、ラジオか携帯の電波の通じるところに向けて走り出してしまいました。でも道路は地震で寸断されていて、私の車がパンクしたら救急車や消防車の邪魔になるのでなないかと思うような道でした。電源車とすれ違った時には、デマではなく本当に電源が必要なのだと思いました。
そして3キロ圏の情報が、ラジオに入りました。もう近所の人々は避難を始めたという情報もあり、反対方向に行くのは邪魔になるので、前に進むしかありません。11日の夜にいわき市まで移動しました。それから1日、2日は、「大熊町は1日で避難できた」というラジオの放送を聞いていました。自分が一足先に出てきてしまったことに対して、自分個人はつらかったです。
それが、全然、放射能は止まらないし、毎日毎日、状況は悪くなっていきました。1日、2日で逃げられた双葉郡の人は運が良かったぐらいになりました。20−30キロで、屋内待機で宙ぶらりんにされた人々、30キロ以上でも汚染がひどい区域にいる人が、きちんと避難できずに混乱していく、避難所に入ってきた人がひどい状況が続いているという話を、ニュースやメールで聞きました。つらかったです。
そこで、圏外に避難したメンバーとともに、「廃炉アクション」を続けることにしました。緊急声明を発表したり、福島県内に残ったメンバーの活動をサポートしたりしました。そうした毎日です。東京でも色々な人と出会って、活動を進めています。
●中田聖一さん(福島市)
「原発震災復興福島市民会議」という市民グループを立ち上げました。
首都圏の皆さんに、一つだけお願いがあります。私の妹は飯舘村にいました。しかし村でだけ、被害が起きているわけではありません。いま福島県内の76パーセントの土地が、非常に危険な状態です。ここに150万人の県民が放置されています。汚染管理区域、原発の中で働いている人と同じ状態の区域に、約30万人の子どもたちも放置されたままです。
自分の子どもは疎開させています。でも、疎開したくてもできない人がいます。避難するにも、疎開するにも、勇気がいるのです。ぜひ、法律家、医師、宗教者、アーティストに立ちあがっていただいて、勇気を福島県民に届けてもらいたい。自分の子どもを守る勇気を、与えてもらいたいと思います。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」という映画の有名なセリフがあります。現場を福島と読んでいただくこともできます。
でもいま、30万人の子どもを助けるのか、見殺しにするのか、その事件がおきているのはどこでしょうか。それは全部東京なのです。現場は東京なのです。原子力安全委員会も、対策委員会も、文部科学省も東京じゃないですか。
19日に文部科学省は、「福島の子どもたちは動かなくていい」という通知を出しました。本当に悩みました。すぐにでも東京に行って、菅直人総理に撤回させようと思いました。撤回するまで帰ってこないという思いで、東京に行こうか一晩悩みました。
結局思いとどまったのは、東京にいるたくさんの仲間たちを信じて、自分は福島でできることをやろうと思ったのです。でも次の日には職場で、「1月後には仕事をしていられるかわからない。その時はよろしく頼む」と言いました。
首都圏の皆さんに、現場にいる皆さんに力を借りて、何とかして福島の子どもたちを守ってもらいたいと思います。今日もこれからデモです。どんなことでも、皆さん1人1人ができることを、立ちあがって、政府に対して、「福島の子どもたちを守る」という決断を迫ってください。よろしくお願いします。
●阪上たけしさん(福島老朽原発を考える会) *2枚上の写真の右側の男性。
いま中田さんから、首都圏の私たちに重い問いかけがありました。年間20ミリ・シーベルトという高い線量を、文部科学省は福島の人たち、子どもたちに押し付けようとしています。
20ミリシーベルトという値は、「放射性管理区域」という、18歳以下の労働は禁じられている地区の6倍もの高線量の地域に当たります。
20ミリシーベルトは、原発労働者で、白血病で亡くなった人の、労災が認定される年間平均線量でもあります。そのような場所に、子どもたちがいるのです。子どもたちは校庭を使うのを控えてきました。それを、文部科学省が20ミリシーベルトという基準を出したために、「もう外に出してもいい」という動きが出ています。20ミリシーベルトまで浴びさせることが、いまの国の危険な方針なのです。首都圏の人間が、福島の皆さんと共に、撤回させていく必要があります。20ミリシーベルトの基準を撤回させるために、国会では政府との交渉が行われています。またネットによる署名活動も行われています。
こうした活動を続けながら、福島の子どもたちをまもるために、力を合わせていきましょう。
●山崎さん(たんぽぽ舎)から、今後の行動日程が説明されました。
●高木章次さん(プルトニウムなんていらないよ!東京)が、浜岡原発の状況について説明されました。
●会場の正面は、こんな感じです。
●今回も、海外のメディアがたくさん取材に来ていました。こちらは韓国のテレビ局です。
●開会前に、歌を披露するグループ。
●このサイトで提供しているプラカードを、持ってきてくれました。ありがとうございます。
●デモ行進の出発です。
●デモでは、250人〜300人を1つのグループにして、左車線を1車線つかって行進します。今回のデモでは、こうしたグループが14になりました。
●東電本社が近づいてくると、警察の警備も厳しくなってきます。
●こちらは機動隊の広報車です。東電に対する私たちのシュプレヒコールにかぶせるように、大声でアナウンスを繰り返しています。その内容は「歩くのが遅い」などの言いがかりです。なぜ政府や警察は、それほどまでに市民の声を封殺しようとするのでしょうか?。
●これでは、市民がデモをしているのか、警察官がデモをしているのかわかりません。
●それでも、プラカードを高く掲げて東電に抗議です。
このサイトで最初に紹介した3月27日のデモの参加者は1200人、4月10日には2500人、4月16日には渋谷で普段はデモなどしない人たちの主催で1500人、そして今回が4500人です。4月11日には杉並区の高円寺で1万人を超えるデモも行われ、また今日も渋谷で別の団体による集会とデモが行われて5000人が参加したそうです。
福島原発の事故から原子力発電の危険性に気がつき、停止・廃止を求める声をあげる人は確実に増えています。そうした参加者の多くが、個人参加・デモ初参加であることが、今回のうねりの特徴だと思います。上の写真には、いくつか労働組合や市民団体の旗も出ています。だけれども、私がスタッフをしながら会場を回り、デモの前後をいったりきたりしていると、2人から3人で来ている人、小さいお子さんを連れている人、デモ初参加の人たちを、本当にたくさん見かけました。
テレビでは、政府や東電や原子力保安院の記者会見が流れています。また学者や評論家が、「放射能は安全!」と断言しています。しかし政府や東電が情報を隠蔽していること、「流言蜚語に気をつけて」という政府の発表が「流言蜚語」であることを、人々は気づいているのでしょう。だから本当の情報を求めて集会に集まり、さらに一歩進んで街で声を上げるのだと思います。
このサイトを見ているけれど、まだ集会とデモには参加したことのない皆さん! 次回はぜひ一緒に街を歩きましょう。
写真・文書:八木隆次
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