講演会「さようなら原発」に1300人が参加
9・19集会と1000万人署名の成功へ意欲を燃やす
●日時 2011年9月8日(木)18:30〜21:00
●会場 東京都新宿区 日本青年館・大ホール
九月八日午後六時三〇分から、東京都新宿区の日本青年館・大ホールで、「講演会・さようなら原発」が開かれました。平日夕方の講演会でしたが、個人参加者・市民運動団体や労働組合の関係者など、約一三〇〇人が参加しました。
三月一一日に起きた東北地方太平洋沖地震は、東京電力の福島第一原子力発電所を破壊しました。原発から漏れ出した大量の放射性物質は空気中に拡散し、いまなお、収束の見込みがついていません。
こうした中で、内橋克人、大江健三郎、落合恵子、鎌田慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔の九人は、(一)新規原発の建設の中止、(二)日本にある五四基の原発の計画的な廃炉、(三)プルトニウム利用の廃棄を求めて、「九・一九さようなら原発・五万人集会」と「さようなら原発・一〇〇〇万人署名」を全国に呼びかけています。
講演会には、呼びかけ人から鎌田慧、大江健三郎、落合恵子、内橋克人の四人が、賛同人からは山田洋次さんが出席して、脱原発へ向けたそれぞれの思いを語りました。また崔善愛(チェソンエ)さんのピアノ演奏も行われました。
それぞれの発言者は、太平洋戦争の体験から日本国憲法を制定した意義や、子どもたちのためにも、次の世代のためにも、いまを生きる私たちが、原発を無くしていくことの必要性を訴えました。脱原発を実現するために、多くの人に読んでいただきたいと思います。
なお要約は事務局が行いました。文責は事務局にあります。
鎌田慧さん
日本が戦争に負けた時に、「私は戦争に反対だった」、「戦争に負けると思っていた」、そういう人はたくさんいました。そうはいっても、人々は戦争に行き、戦場で戦い、亡くなったのです。
戦争が終わって、若者からは、「どうして戦争に反対しなかったのか」、「もっとがんばれなかったのか」、という疑問が起きました。すると老人は大抵、「反対できるような時代ではない」と言ったのです。
しかし戦争は急に現れたわけではないし、破滅は緩やかに傾斜を降りるようにやって来たのです。その間に、歯止めをかけることができなかったことを、どう反省するのか。
今回の原発事故を聞いた時に、そのことを思い起こしました。「どうして原発を止められなかったのか」。
私は原発に反対でした。事故が起きると思っていました。しかし事故が起きることを止められなかった。悲しい思いがありました。それで、再び原発事故が起こる前に、なんとか原発を止めなければならない。こうした思いで、集会が行われることになったのです。
福島の子どもたち、どうなるかわからない福島の人たち、野垂れ死にした動物。どうしてもっと力を込めて運動してこなかったのか。
日本に原発ができたのは、一九七〇年です。原子力予算が付いたのは一九五三年で、二三五〇万円です。どうして二三五〇万円だったのか。推進した中曽根康弘さんは、「ウラン二三五にかけた」と言ったそうです。ウラン二三五は、広島に落とされた原子爆弾の材料です。日本の原発は、広島・長崎の人々の犠牲に何ら考慮せず、それを踏み潰す形で始まったのです。
それから、どのようになったのでしょうか。この狭い日本の太平洋側と日本海側に、五四基の原発が並んでいます。アメリカには一〇〇基ありますが、国土の面積は日本の二五倍です。アメリカの二五分の一の所に、アメリカの半分の原発があるのです。そうして、今度の福島原発事故を迎えたのです。本当に悔しいです。もっとがんばる必要があったという思いです。
原発の一番の問題は、「安全だ」と主張しないと建設できないことです。危険なものを「安全だ」と言わなければいけないことが、原発推進者の致命的な欠点でした。例えば原発のある自治体に行って、そこの首長に「原発についてどのように考えますか」と聞くと、「国が安全だと言っているから心配ない」と言います。自治体には判断の根拠が無く、自主判断ができないのです。しかし原発に賛成すると、原発三法交付金が入ってきます。一三五万キロワットの原発では、「原発を引き受けます」と言った時から一〇年間で四八〇億円、稼働して一〇年経ったら四〇〇億円の交付金と固定資産税が入ってきます。安全かどうかは自分では判断しないが、入って来るお金で地域を開発するのです。
道もない、港もない、中央政治からは取り残されてきた辺境の地に原発があります。人口密度が少ない、周辺に人がいないことが、原発建設の条件です。そのため東北地方や新潟に、日本の原発の約半分が建設されています
また原発で働いている労働者は、ほとんど正社員ではありません。現場の労働者は、日雇いであったり、出稼ぎであったり、労働構造の最低辺の人たちです。そうした人たちが、各地の原発を回っています。
◇ ◇
「原発が無くなると経済が沈滞する、日本が空洞化する、だから原発は必要だ」と言う原発推進派の人たちに問いかけたいです。命とお金と、どちらが大切なのでしょか。
原発が無くても、経済生活はやっていけます。新しい自然エネルギーや、持続可能なエネルギーを開発する社会にしていく。そうするとプルトニウムの恐怖も無い、核武装の恐怖も無い、平和で安心した社会に向かって行くことができます。それが、今回の事故が教えてくれた、最も貴重な経験であると思います。
◇ ◇
皆さん、原発反対の声を上げていきましょう。戦争に反対していても声をあげなかった、そうした先輩たちの誤りを正して、子孫から、未来の子どもたちから、「がんばってくれた」と感謝の言葉をもらいましょう。
ありがとうございました。
大江健三郎さん
三・一一の後、私はずっと、テレビの前に座っていました。ある日の真夜中に、NHKで現地を訪ねる番組が流れました。計画的避難区域だったと思うのですが、深い谷合の向こう側の真っ暗な中に、一軒だけ明かりがついていました。そこへNHKの記者が訪ねて行きました。
入口から入ると、その家の人がこう言うのです。「自分の家の馬が出産しようとしている。そこで避難できないでいるのです」と。
翌日、同じ記者がまた訪ねますと、ご主人が「オスの馬が生まれた」というのです。
そして家の外の暗い木立を指さし、「あそこの牧場の草原を駆けさせてやりたいけれども、放射性物質が降っていてできない」と言いました。
この情景は、晴れている夕暮れだったのですが、私の頭の中には放射能の雨が降る夜の情景の印象が残りました。そうして眠れないでいるうちに、一つの考えが浮かんできたのでした。それは、もう起こってしまったのだ、取り返しがつかない、という思いでした。そして私は、広島・長崎に続いて、三発目の原爆が落とされた。しかも日本人の、というより私らの手によってという、苦しい、苦しい思いに取りつかれました。
◇ ◇
私はそうやって、もう終わったものとして、自分の人生を考え続けてきたのであす。
それでは、人生の始まりはいつであったのか。広島・長崎に原爆が落とされて戦争が終わりました。そうして、憲法が作られることになりました。その憲法では、もうこの国は軍備を持たない、戦争をしない、民主主義でやることになっていると、村にできた新制中学の先生に教わりました。あの一年半の間に、私の戦後の生活は始まったのです。
子どもながら私は、平和主義とは言いながらも、軍備を持たずに、戦争もせずにやっていけるのか、相手もあることだし、と思っていました。そこで先生に、質問をしました。それに対して、先生はこういう答えでありました。
「憲法には再び戦争の惨禍が起こることはないと、そう書いてあるのではない」と先生は言うのです。
「戦争の惨禍は無いというのなら、俺も疑う。しかし憲法を書いた人は、そのように決意すると言っているだけなのだ。決意するくらいは許そうではないか。そして世界の国の公正と信義を信頼して、自分たちは軍備無しでやっていくと書いてあるのだ。君は相手のあることだし、向こうが公正と信義の無い国ならどうするのかと思っているのだろう」と言うのです。
私は「そうです」と言いました。すると先生は、「軍備無しで安全と生存を守ろうと決意したのだ、と書いてある。そのように信じること、決意することは自由ではないか。お前はそれを疑うのか」と言われました。
私は良く考えて、「信じます。憲法の決意することを私も決意します」と言いました。
大人たちも、子どもの私も、そう決意しているということは、広島・長崎を原爆で全滅させられた、東京や他の大きな都市も焼かれた、大きな被害を経験したという気持ちあって、大人たちは決意したのだろうと私は思いました。
◇ ◇
私たちの国、私たち日本人は、軍備を持っていないとは言えません。私たちは自立して、平和主義を国際的に押し通しているとも言えません。アメリカの軍備を、それも核の抑止力という非常に危険な考え方を、あたかも確実な方針のように考えています。
しかし、憲法は変えなかった。戦争直後の一年半の間に決意したことは、守っている。それは、当時の日本の追い詰められた現実、被害体験と加害体験、辛かった事実、我々を囲んでいた現実を、覚えているからではないでしょうか。
樋口陽一さんという憲法学者がいます。私は樋口さんに聞いてみました。憲法を作る時の、自分たちを取り囲んでいる現実があって、自分たちを憲法の方へ押し出すことがあったのではないか。いまの僕たちが憲法を改正しようとは考えないで、そういう気持ちに捕らわれそうになると、あの時の事実や状況、自分たちの暮らしぶりを考えて、あの時の感情を自分たちが覚えているからではないか。ああいう現実があって、それが私たちに平和主義をとらせた。あの感情を思い出すと、私たちは憲法を捨てようとは思わない。こういうことがあるのではないでしょうかと聞いたのです。
そうすると樋口洋一さんは、「ピンポン!」と言いました。「大江さん、レジストレイティブ・ファクト、立法事実というものが法律にはある。立法するに当たって、法律を作ろうとする自分たちを押し立ててくれるような現実がある。その現実を見れば、この憲法しかないと考えるのです。そして私たちは、そのことを忘れてはいない。だから憲法があるのです」と、樋口さんはおっしゃいました。
◇ ◇
福島原発の大事故は、福島とその周辺に大量の放射性物質を降らせました。二つの方向へ吹いた一三日の風のために、非常に多くの土地が放射能で汚染されたことがはっきりしています。特に子どもたちが、放射性物質を体の中に吸い込んで将来苦しむことになるだろうと、専門家たちが言っています。さらに爆発を起こした原子炉や、大量の放射性廃棄物の後始末は、私らの生きているうちにできることではないようです。
こういうことを我々がやってしまったということは、あの被害体験、加害体験に根差して、新しい国としての自分たちの生き方を決めた、その決意を無駄にしたということではないでしょうか。敗戦直後に始まり、私などにも生きていく方向を示してくれた、苦しいけれども、貧しいけれども、新しい時代は、六六年間で終わってしまったのではないでしょうか。広島・長崎で始まったものが、福島の原発事故で終わったのではないでしょうか。
◇ ◇
ノーベル賞をもらったことで、私が存じ上げないような学者の方からも本をもらいました。本当にいい本が送られてきました。それは『死にいたる虚構―低線量放射線の隠蔽』という一冊でした。ジェイ・M・グールドとベンジャミン・A・ゴルドマンという二人の本です。それを肥田舜太郎さんという医師が、協力者と一緒にお訳しになったものです。
肥田先生は、ご自分も被ばくされながら、広島の被ばく者を治療された方です。
原爆による外部被ばくで、あれだけの人が殺されましたが、アメリカの軍人がこういうことを言いました。
「原爆で殺されるべき者は全て死んだ。いま残っている者が原爆に由来する原爆症で死ぬことはない」。彼の意見に即して、マッカーサーも、それを外国に発表しました。日本政府の方針にもなりました。
原爆による外部被ばく、非常に大きい放射線量が襲いかかって死ぬ人はいます。しかし広島の街に、原爆投下の三日後に、おばさんを探しに入った人がいます。そこで放射性物質を飲み込んでしまった。そして障がいが起きている人がいます。長年にわたって体内被ばくに苦しみ、ガンをはじめとした病気で亡くなられる被ばく者が、現在もいるのです。体内被ばくは大きいのだということを、孤軍奮闘して主張し続けてきた方が肥田先生なのです。
この本には、原子炉の事故があると書いてあります。チェルノブイリやスリーマイル島の事故を頂点に、いかに多くの子どもたちをはじめ、犠牲者を出してきたのか、詳細な報告が出ています。
特にアメリカ政府は、致命的な結果を出している事情を隠蔽しました。アメリカは核実験を続けていた数年間、出生率が低いのです。赤ちゃんの事故も多かった。子どもの死亡率も高かった。そういう事実を隠蔽したのです。それに対して、統計や医学的な新発見を示して告発しています。
雑誌『世界』の九月号に、肥田先生へのインタビュー記事が掲載されています。『放射能との共存時代を前向きに生きる』という文書は、必読の文書です。特に福島の子どもたち、お母さんたちには、最良の支えとなるでしょう。
◇ ◇
肥田先生の信頼されるアメリカの医師からの教えの言葉を写します。
「そういう被害を、もう受けてしまったのなら、腹を決めなさいということなのです」
「開き直る。下手をすると恐ろしい結果が、何十年かして出るかもしれない。それを自分に言い聞かせて、覚悟しなさいと先生はいうのだ」
「その上で、個人の持っている免疫力を高め、放射線の害に立ち向かうのです。免疫力を傷つけたり、衰えさせたりする間違った生活は決してしない。多少でも免疫力をあげることを選んで、一生続ける。あれこれ突くのは、愚の骨頂。一つでもいい。決めたものを全力で行う。要するに放射線被ばく後の病気の発病を防ぐのです」
これが先生の忠告です。
今の肥田医師の言葉を引き出したインタビュアーへの質問、先生の最初の明瞭な意思表示を、短いものですが引用します。
「一つは放射線の出る元を絶ってしまうことです。これが肝心です」。これが肥田先生の結論なのです。
放射線の出る元、この国の五四基の原子炉の全廃を、国家に突きつけようではありませんか。それがいま現在の私たちに、新しい国の進み行きを求めている立法現実に応えることであります。
私も戦後民主主義の、何とか生き残っている老人としまして、「さようなら原発」のラリーに加わるつもりです。
崔善愛(チェ・ソンエ)さん
*チェさんは、素晴らしいピアノ演奏をしていただきました。また演奏の合間に、以下のお話をしてくださいました。
私はきょう、この会場に向かう時に、追悼の意味を込めて、花を飾りたいと思いました。どんな花がいいか考えて、彼岸花を置きたいと思ったのです。駅のそばのお花屋さんで「彼岸花はありますか」と聞いたら、「その花は傷つきやすくて切り花にはできないのです」と言われました。
さて、皆さんがご自宅を出るときに、もう二度と帰れないとしたら、家を出ることはできるでしょうか。二度と帰れないということを自覚しない限り、私たちは福島には近づけないと思うのです。
私は、指紋押捺を拒否したために、法務大臣から、一度日本を出たら二度と入ってはならないという罰を受けました。二二歳の時でした。それでも私は留学がしたくて、三年間悩みました。もう二度と日本に戻ってこられないかもしれないけれど、留学をすべきかどうか悩んだのです。そしてある人が、「あなたが帰ってこられないはずが無い」と言いました。私はその言葉にすがるように、留学しました。そして日本政府は、私から永住権を奪いました。一四年間、永住権無しで、この国に住みました。そして裁判で負けました。
日本という国家は、無常だと思いました。一人一人は繊細で、思いやりのある人々なのに、なぜ組織の一員になると変わってしまうのか。私はそれがわかりませんでした。
この半年間、色々なことがありましたが、私には、どうしても許せないことがあります。それは、子どもたちの首に、放射線の線量計が掛けられたことです。九月一日の始業式の日に、一人一人に線量計が配られていました。先生はテレビの取材に対して、「お守りの様なもの」と言いました。この絶望感を、どこにぶつければいいのか、良くわかりません。私たちは変えることを恐れてはいけません。
私は、専門家という人たちは何なのかを、今回学びました。
突然ですけれども、コンサートホール、響きのいいホールは、舞台だけではなく、客席も響くのです。ですけれども、それが災いすることもあります。クラシックのコンサートは、静かにしなければいけません。ところが演奏中に、スパーのレジ袋を、どうしても今、その中から出したい、そういう方が時々おられます。音楽界は、一番、耳を使って聞く場所にもかかわらず、どうして袋の音が聞こえないのかと思うのです。五分以上、そういう状態が続きますと、どこかから人がきて、「ちょっと」と止められるのです。
音楽は聞いているけれども、自分の立てている音が聞こえないことがあるのです。これは一体、何なのでしょうか。私は最近よく考えるのです。どうしても、袋の中から取り出したいという一念に囚われると、他の音も聞こえない、自分が出している音も聞こえない。私は、専門家もそうなのだろうと思うのです。
どうしても電気を生みだす。しかしそれが、この世の中で、どういう影響を人に与えるのかが、まったく見えていないのです。
それは科学者だけではなく、音楽家にも言えることです。いい演奏がしたいということに囚われて、人間が見えなくなるのです。
皆さんご存じの、パブロ・カザルスという人は、スペインの独裁政権と戦うために、自らの音楽活動を止めました。その時、彼が言った言葉があります。「音楽よりも、一人の子どもの命が大切だから」。
私たちには、それぞれの生活があり、それぞれの仕事があります。忘れてはいけないのは、私たちには命を守る責任があるということです。
落合恵子さん
あの日からまもなく、半年が経とうとしています。原発と核兵器、この二つについて考えましょう。マンハッタン計画から始まりました。その成り立ちを見ても、原発と核兵器は、二つの頭を持った一羽の鷲のようなものだと、私は位置付けています。
私は一九四五年に生まれました。広島も長崎も心に刻みつけて、生きてきたつもりです。広島と長崎を二度と繰り返さないと誓うのであるならば、核兵器と同じ根っこを持った原発を許容することは、私は到底できません。原発を選ぶことは、戦争を選ぶことと、私の中では同じことになります。
「核の平和利用」というこの上なくいかがわしい名前の下に、私たちは核兵器になりうるものを、大量に持ってしまっているのです。すでに私たちは、核兵器の潜在的保有国に生きているのだと無念ながら考えます。
一九五四年、第五福竜丸の久保山愛吉さんという名前を、子どもながらに、しっかりと覚えました。「死の灰」という言葉を知ったのも、その頃のことだと思います。
三五年前から、東京と大阪で、子どもの本の専門店、「クレヨンハウス」を始めました。スリーマイル島の後も、チェルノブイリ原発事故の後も、いま亡き高木仁三郎さんや、専門家の方々をお呼びして、自主的に勉強会をやったり、いろいろなことをやりました。
けれども本当に反省をします。私の場合は、ある時から、何かが緩んできたのです。あんなに様ざまな企画を立てていたのに、私の本屋の上から下まで、反原発の本であれだけ一杯にしたのに、一年が経ち、二年が経ち、三年が経ち、私の中で明らかに緩んだものがありました。そのことが今回、色々な意味で、もう二度と、そんな自分でありたくはない、そんな思いにたどり着かしてくれました。
◇ ◇
今年の七夕。「クレヨンハウス」の玄関に大きな笹を飾って、子どもたちに、大人たちに、短冊にお好きなように思いを書いてくださいという行事をやりました。毎年やっています。いつもの年と同じように「クロールが上手になりたいです」とか、「早く前歯が出てきてくれますように」とか、色々な願い事が書かれていました。
けれども、昨年、あるいはその前の年、ずっと前の年とも違う短冊がありました。鉛筆で、ひらがなだけの幼い文字で「放射能来ないで」。子どもがそんなことを書かなければならない時代と社会を、私たちは迎え、どこかで作ってきてしまったのです。
同じころに知人から、「うちの町内で七夕祭りをやったら、放射能来ないでと子どもが書いたのよ」と言われました。「え、あなたの所でも」。私たちの現実です。
ネイティブ・アメリカンのダイアン・モントーヤさんという方が来日されて、お話をしたことがあります。彼女はこう言いました。
「私たちネイティブ・アメリカンは、何か重大な選択をする時に、おじいちゃんやおばあちゃんや、そのおじいちゃんやおばあちゃんや、そのまたおじいちゃんやおばあちゃんから言われてきた通りに、七世代先の子どもの事を考える。例えそれがいま便利であろうと、例えそれがいま効率的であろうと、例えそれがいま利益をもたらそうと、それを手にしたことで七世代先の子どもたちが苦しむのであれば、絶対にそれを手にしてはいけないと教わってきたの」。
私の中でずっと、「七世代先の子ども」という言葉が、鳴り響いていたような気がします。そして私たちはいま、七世代先の子どもどころか、同時代の子どもを、追い詰めている。ふるさとを奪われる人々、職業を奪われる人々、離散した人々、これが私たちと共に生きる人々の現実です。
スリーマイル島の事故の直後だったと思います。これも「クレヨンハウス」で、プライベート・フィルムを集めて上映会をしました。その中に、アメリカの女性の作ったドキュメントフィルムがありました。そこにインタビューに登場した、ヘレン・カルデコットというオーストラリアの女性小児科医の言葉があります。
「ここに鍋がある。熱湯が入っている。そこにカエルを放り込んだ時に、熱湯であればカエルは熱さで反射的に外に飛び出して、助かる可能性がある。けれども鍋に水を入れて、そのままガスにかけて火を上げていくと、カエルは温度に順応しようとして、気が付いたらカエルはゆであがっている」。
彼女は反核運動の活動家でもあります。
このゆでガエルの比喩を、私たちはもう一度、自分に引き寄せなければならないと思っています。政と官と産と学と、そしてメディアの一部を含めて、安全神話をこれだけ垂れ流してきました。そして安全神話が少し崩れたなと思うと、三月一一日以降にテレビに登場した専門家たちが何を言ったでしょうか。安全神話の代わりに安心神話を流布したのです。私はもう信じない。
◇ ◇
脱原発や護憲などの集まりで話をすると、「落合さん、身体に気をつけてがんばってください」と言われます。「あなたが、がんばってよ」と私は思います。ダメですよ。誰かだけががんばるなんて、間違っています。だれかをヒーローにするのも間違っています。みんなでがんばらなければいけないし、よって立つところは私です。それが私たちの心に、すとんと落ちた時に、この集会が、もう一つの意味を持つのだと思います。
もう二度と、私は自分を責めるのは嫌です。もう二度と、子どもたちを前に「ごめんね」という自分を作りたくはありません。少子化といいますが、もっともっと大きな範囲の子どもたちが、五年後、一〇年後、二〇年後に苦しまなければならない。
「お母さん、私は子どもを産んではいけないの」という中学生の女の子に、私たちは何と答えればいいのでしょうか。
生後二か月の福島の赤ちゃんを、だっこさせてもらいました。黒々とした目で、まっすぐに見られた時に、そこは長野だったのですが、「帰るな、福島に」と思いました。
私は長い間、権力と対峙してきたつもりです。でもいまの私は、権力が欲しいのです。福島の子どもたちを、全員、疎開させるだけの権力が欲しいのです。でも無いのです。だから一人一人、私たちは声を上げ続けましょう。
「がんばってください」と誰かに託すのではなく、一人一人の私たちが、声を上げていきましょう。
*落合さんに、詩の朗読もしていただきました。
内橋克人さん
私は神戸の生まれですが、敗戦の年の三月一七日と六月五日に神戸大空襲がありました。米軍のB−29による大規模な油脂焼夷弾の爆撃を受けました。空から降って来る油脂焼夷弾、人々は家が燃える、バケツリレーで水をまく。水を撒けば撒くほど、青白い炎が走り、もっと住宅が燃えるのです。土と紙と木でできた日本家屋を、いかに効率よく焼き尽くすか、その研究を大変な費用をかけて、実験を繰り返したのです。
本来ならば、私はここに立っていることは、できません。なぜならば、三月一七日の夜明け、神戸大空襲の時に、たまたま急性盲腸炎になりまして、自宅から二駅も西に離れた病院に入院したのです。入院して手術して、その夜に大空襲がありました。
私は早くに母親を亡くしました。母代りになって私の面倒を見てくれた、近所の親切なおばさんがいました。そのおばさんが、一人だけ残っていた姉が心細いだろうと、自宅に来てくれました。そして大空襲が起きました。おばさんは、すぐに姉を連れて、近くの防空壕に避難しました。その防空壕は、私も空襲の度に避難していた場所です。私がいないものですから、おばさんは防空壕の中の、私の指定席になっているところにお座りになりました。そのお座りになった場所に、直撃弾が貫通したのです。
戦後、私が書いたり話したりしたことの原点は、神戸大空襲です。その後の六月五日も大変な空襲でした。遺体は真っ黒焦げです。それが、川にぷかぷかと浮いているのです。その遺体を眺めました。あるいは、塀に遺体が積み重ねてありました。
こういう体験があり、もちろん多くの戦地に行かれた方があり、そのたくさんの犠牲の上に戦後の日本があるのです。しかしながら、本当に悔しいことに、今年の三月一一日以降、心穏やかなる日々を、皆さんは過ごすことができたでしょうか。
私は何度か、被災地を訪れています。三陸海岸の漁民の方がおっしゃいました。家が流されても、田んぼが流されても、私たちには宝の海がある、その海を私たちは信じていた。しかし最後に、信じていた海から放射性セシウムが現れてきた。がんばって漁業に戻ろうと思っているときに、初めての漁獲物にセシウムが混じっていたのです。これを語った人の言葉と表情を、忘れることはできません。私の戦争体験と同じ、または超える、悲痛な言葉でありました。
◇ ◇
いまの原発政策には三つの矛盾があります。
第一点は、経済界が原子力発電を推進しろと言っていることです。かくも多くの原発難民と困窮を目の前にしてなお、電力供給が安定しなければ、多くの企業は海外に出て行き日本は空洞化する、皆さんは貧しくなると脅しをかけています。彼らは同じ口で、「少子化」と言います。日本の未来は少子化が進んで困る、移民を入れよう、こういう話をします。
今回の原発事故によって、若いお母さん方、若い女性の方々は、もう子どもは産みたくない、子どもに辛い思いをさせたくないと考えています。少子化が進むのは当然です。少子化が進むのを覚悟の上で、彼らは原発推進を言っているのでしょうか。
◇ ◇
第二の矛盾です。電力が足りないといいますが、電力は余っているのです。皆さん、今年の夏、停電がありましたか。
九月直近の、東京電力の電力供給力は、五五一〇万キロワットです。それに対して需要は、四〇八〇万キロワットです。一五〇〇万キロワット近く、電力は余っているのです。いまは、原子力発電五四基の中の一一基しか動いていません。その他は定期検査などで止まっています。一基が一〇〇万キロワット発電するとして、一五〇〇万キロワットが余剰とすれば、運転中の原発を全て停止しても、需要と供給はマッチするのです。
こうしたトリック、あるいはレトリックに、易々と乗せられる日本人からは、もうそろそろオサラバしましょう。構造や言葉のウソを鋭く見抜く市民が増えなければなりません。
地域社会を大切にする東北の方々の我慢は、美徳であると思います。けれども、ボランティアや個別組織の救援で、巨大な災害の現場が救われるとは思いません。あるべきは、公的支援です。政府が、国家が、国民を守る決意を示すべきです。複合巨大災害、地震・津波・原発事故と、この三つが重なった複合巨大災害を、個人の力で、あるいはボランティアの力で、復旧することができますか。日常を取り戻すことができますか。被災地を歩くたびに、怒りがこみ上げてきます。これが二番目の矛盾です。
◇ ◇
第三の矛盾です。
災害は、終わったのではありません。良心的な地震学者たちが指摘しているように、災害はこれから始まるのです。地震の動乱期に入った日本列島に、過密なほどに原発を築いてきました。これから始まる巨大地震は、これからやってくる最悪です。それに対して、もう災害は終わったかのごとく、創造的復興などと言っています。
政府や国は、国民を守ろうとしない。私はそのことに、戦争中と変わらない日本の国の姿勢、本質を感じます。今回の巨大災害に、私はどうにもおさまらない。
トーマス・F・マンクーゾーというピッツバーグ大学の力学の先生が、仔細な放射線による内部被ばくの調査をして、マンクーゾー報告をまとめました。
彼はインタビューに対して、こう言いました。
「原発災害の最も大きな特徴は、スロー・デスを招くことだというのです。サドン・デスは突然の死です。津波や地震にあって、そのまま命を失う。それに対してスロー・デスは、ゆっくりとやって来る死です。二〇年、三〇年かけて、死はゆっくりとやってきます。子どもたち、あるいは、体質的な弱点を持っている方に、やってきます」。二〇年、三〇年経って、誰が責任を負うのでしょうか。スロー・デス、この言葉を、皆さんもご記憶に留めてください。
◇ ◇
また、マンクーゾーは日本からの取材者にこう言いました。
「私たちの、この広いアメリカでさえ、原発の安全性については、幾多の深い論議が闘わされている。あなた方のあの狭い日本で、もし原子力発電に事故が起これば、あなた方は一体どこに逃げるのですか」と、そう聞きました。
日本列島は地震の活動期に入りました。海沿いに一二二基の原発を作ろうという構想さえありました。原子力ルネッサンスです。こういう虚しいかけ声に踊らされてはいけません。反対することは、イデオロギーですか。原子力発電に反対することは、決して政治的ではありません。政治的なのは、これだけのハイリスク、高い危険性、コストが合わない、トイレなきマンションといわれるように放射性廃棄物の処理の方法さえいまだに決まっていない、こういう中で原子力発電を強行することこそ、政治的ではありませんか。それこそがイデオロギーでしょう。
どうか本物を見抜く、本当の現実の成り立ち、誰が何を企てているのか、きちんと見てまいりたい。こういう風に思います。