「原発にさようなら集会」&「原発にさようなら1000万人署名」の記者会見
鎌田慧さん、澤地久枝さん、内橋克人さんが、脱原発に向けた思いを訴え、行動を提起
●2011年6月15日
●東京都千代田「アルカディア市ヶ谷」




 6月15日に東京千代田区の「アルカディア市ヶ谷」で、「原発にさようなら集会」と「原発にさようなら1000万人署名」の2つの脱原発行動のスタートを告知する記者会見を開きました。
 2つの運動は、内橋克人さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、鎌田慧さん、坂本龍一さん、澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さん、辻井喬さん、鶴見俊輔の九人が呼びかけたものです。。
 記者会見には、内橋克人さん、鎌田慧さん、澤地久枝さんの3人が出席し、原子力発電を止めるための思いを訴えました。
 「原発にさようなら集会」は、本年9月19日(月・敬老の日)午後1時から、東京の明治公園で、5万人の参加を目標に開催します。また「原発にさようなら1000万人署名」は、脱原発を求める署名を1000万人分集めて、福島原発事故から1年目となる来年の3月11日に、日本政府と衆参両院に提出しようというものです。
 呼びかけ人は、2つの運動の目標として、@新規原発建設計画の中止、A浜岡からはじまる既存原発の計画的廃止、Bもっとも危険なプルトニウムを利用する「もんじゅ」「再処理工場」の廃止――の3つをあげました。
 呼びかけに応え、事務局として協力するために、「原水爆禁止日本国民会議」(議長・川野浩一)、「原子力資料情報室」(共同代表・西尾漠)、「環境エネルギー政策研究所」(代表・飯田哲也)の3団体が、「さようなら原発1000万人アクション実行委員会」を結成しました。また行動への賛同を、作家・著述家・学者・法律家・ジャーナリスト・NGO代表などの方々にお願いしたところ、6月14日現在で、48人から賛同をいただきました。
 以下に、記者会見での発言の要旨を記載します。ぜひご覧ください。





●澤地久枝さん
 おはようございます。澤地久枝です。呼びかけ人のうち、この時間に出席できる三人が顔を揃えました。この運動を始めるにあたって、まだ何の下相談もしていません。ただ共通しているのは、「原発を止めたい」ということです。
 自民党の石原伸晃幹事長は、脱原発を「集団ヒステリー」と言ったそうです。新聞やテレビを見ていても、「もう大丈夫」であるとか、「原発を止めたら日本は滅びる」とか、原発に対して疑問を持つ人たちを引き戻そうとするものが、本当に目に付きます。
 日本は世界に先駆けて、核兵器はもとより原発を無くす方向へ、はっきりと国の政治を変えていくべきだと思います。これは本当に正論だと思います。だけれども、そう考えている人たちが、テレビや新聞に出てきて、物を言える社会でしょうか。そうじゃありません。
 ここに来る途中に乗ったタクシーで、運転手さんにそういう話をしたら、「どうそ、がんばってください」と言われました。「何かやらないのか」と思っている人は、たくさんいると思うのです。何もしないでいたら、このまま進んでしまいそうです。知らない間に、原発が五十四基もできてしまったのです。そして案じていた通りに原発の事故が起きて、水素爆発も起きてしまったのです。私は最初からメルトダウンが起きていると思っていましたから、子どもたちの集団疎開も必要だと思いました。
 でも政府や、原子力安全・保安院の発表は、一日一日と変わりましたね。はっきりとした数字も見せません。つまり私たちは、知る権利があるのに、知らされていない状態に放置されていたのです。
 政権が交代するのかどうかわかりません。国会では「政治ごっこ」をしているとしか思えません。この事態に対して具体的な手を打てる、一人の政治家もいないのです。それなら、いまこそ衆智を集めなければならないと思うのです。その時に誰が首相かは、二の次です。勇気を持て、やれる人を、私たちは首相として選びたいのです。そのことで菅さんを変えなければならない理由はありませんが、新聞やテレビを見ているとその話ばかりです。

 そうした事態の中で、自分に何ができるのかを考えました。私一人の力は本当に小さいけれども、原発はいやだという気持ち、危ない物を持ってしまった、世界に対して恥ずかしい気持ちがあります。なぜなら、広島・長崎があり、第五福竜丸があり、東海村のJCO事故があり、日本は他の国にはない被ばくの歴史を背負っているのです。
 その国に原発が五十四基あり、保安管理が実に杜撰であることが、明らかになりました。今度の事故でも、最初に被爆した三人の作業員のうち二人は、長靴も履かずに放射能に汚染された水に入って、被爆したのです。こういう核のエネルギーに対する無警戒、あるいは無知な態度は、被ばくした人たちに対して痛ましいと思うと同時に、一人の日本人として、世界に対して恥ずかしいと思うのです。
 致命的なダメージは、これから育っていく子どもたちの身の上に起きるということが、チェルノブイリ事故の実例などをあげて、さんざん語られてきました。いまも安全だと言いながら、でも屋外では遊ばせないで、窓を閉めて部屋の中で遊ばせるようにとか、全然安全でない指示が出されているのです。こうしたことに対して、はっきりと疑問を投げかける場所がないのです。

 一人の力は小さいです。しかし一千万人が「原発はいやだ」と署名したら、いくら頭の良くない政治家であっても、それは無視できないと思うのです。これは百万人では、ダメだと思うのです。人を動かすことができる数字は、一千万人だと思うのです。鎌田さんから提案をもらった時に、鎌田さんにそういう話をしたら同じ意見でした。
 一千万人の署名はできます。いまバラバラに運動が始まっていますが、一つの形を作って、呼びかけ人の責任で取りまとめて、政治家たちに突きつます。その実績を早く作りたいのです。
 署名に際しては、自分の意思で名前を書ける人は、年齢制限は必要ないと思います。ハンディキャップを持っていて自筆で書けない人は、そのむね記して誰かが代筆する。そうした幅の広い署名をやっていきたいと思います。最初は十八歳以上とか、二十歳以上とか、有権者とか、年齢制限を考えたのです。でもいま関心を持っているのは、子どもたちも同じです。ですから年齢制限なしで、自筆の署名を一千万人集めます。

 この事故は、日本だけの問題では済みません。海には仕切りはありません。空気にも仕切りはありません。ですから、朝鮮半島や、アメリカ西海岸や、台湾で、福島原発の事故による放射能被害が出て、その国からクレームが来る可能性もあります。地球に対する致命傷になるようなマイナスなことを、日本はやってしまったのです。世界に対して、私は恥じたいと思います。恥じるだけでなく、行動に移したいと思います。
 亡くなった小田実さんがいたらと思います。小田さんは、いつも、「一人でもやる、一人でもやめる」と言っていました。「小さな人間が、大きな人間を動かす」とも言っていました。思ったことを口に出し、政策として実行することを小田さんは実現していました。
 その小田さんが亡くなりました。加藤周一さんが亡くなりました。井上ひさしさんも亡くなりました。日本の良心だと思われていた人たちが、亡くなり、年齢が高くなり、病気になり、こうした場所に出てこられなくなりました。出てくることができない人たちも、「やらなければならない」という意思があることは、はっきりしています。ですから私は、出てくることができない人、亡くなった人たちも含めて、そうした人たちの思いを背負って、この場に来ました。
 みなさん、どうぞこの問題を理解していただき、人々に広めていただきたいと思います。よろしくお願いします。



●内橋克人さん
 内橋克人と申します。みなさん、おはようございます。今日は本当にありがとうございます。鎌田さんから、声かけられました。今、やはり声を上げて行動しなければいけないとこういう決意、非常に深いものがあります。
 私は、経済の世界、世界経済と日本経済ですけれども、ちょうど五十四年目に入りますが、半世紀以上、眺めてまいりました。私は当初、経済、それから技術、とりわけ匠の時代という日本の技術の先端というのですか、技術大国といわれるとようになった開発という形で、そのきっかけを作った人々、そういう人から取り掛かったわけです。

 ちょうど今から二十五年前に、『原発への警鐘』(講談社文庫)という本を、書きました。この本は絶版になってしまいましたが、先日、一部を抜粋して、『日本の原発、どこでまちがえたのか』(朝日新聞出版)として復刻しました。いまから三十年前に、アメリカから原発が導入されてくる。福島第一原子力発電所の一号炉の開発が、どのようにして行われたのかというところから歩き始めました。そして、関わった人たちの証言をそれぞれ得ながら、現場を歩きました。
 当初は、原発に対して賛成でもなく反対でもない、皆さん方と同じような関心の持ち方、立場でした。それで取材し、とにかく自分の目で確かめるということを始めたわけです。今も覚えていいますけれども、原子力発電エネルギーに対して、疑いを持つ、意義を呈する者は、「科学の国のドン・キホーテ」だと言われたのです。先端的な科学立国である日本の中で、本当に遅れた前世紀の遺物であるようなドン・キホーテという扱いだったのです。あるいは異端者ですよ。三十年前にそういう経験をして、それを書きました。
 もっと覚えておりますのは、島根原発の第二号炉を増設するときです。原子力安全委員会が、公開ヒアリングを行いました。地元の人たちの、住民の意見を聞くということです。ところが、それがまったく儀式に過ぎない。取材しまして、行くところ行くところ、全て儀式なのですね。
 子どもさんを二人持っている若いお母さんが、「島根原発で事故があった場合に、私たちに宍道湖を泳いで逃げろというのか」と、本当に胸詰まる質問を発するのです。そうすると、原子力安全委員会の委員長が議長をしておりましたけれども、一切無視したのです。「私たちはあなた方の話を聞くだけだ」、「私たちは意見を述べない」という態度、これを終始貫いたのです。こういう事態を長い時間をかけて取材をし、発見いたしました。

 そうして何ができたかといいますと、「合意なき国策」です。原子力エネルギーは国策と言っているけれども、国民的な合意は、いつ誰が与えたのか。いまは、稼働している原発五十四基と、さらには計画が十四基。当時は、原発百基構想がありました。海の景観を見ようと思うと、原子力発電所の設備が目に入ってくる。日本列島を原発で囲い込んでしまおうという事態が進みつつあったのです。一時は、原発百二十二基構想が唱えられたこともありますね。
 『原発への警鐘』の中で、原子力発電、もちろん技術も含めてですが、それの「合意なき国策」を進めていくそのやり方、これに対して大変に怒りをもつにいたりました。そういう中で「科学の国のドン・キホーテ」でした。
 それから、市民の漠然とした不安です。生きている人間が、生きている身体として、ごく自然に、どっかやっぱり不安なのではないでしょうか。科学者はそういう風に言うけれども、技術者はそういう風に言うけれども、漠とした不安というものを持つというのです。それを一切、考慮することない。そういう漠とした不安こそが、実はこれからの、二十一世紀のリスク社会といわれる世の中で、最も大事な平衡感覚なのです。それを全て無視してしまって、果たして、本当に安全な技術開発、人間の幸せにつながる技術開発はあるかと、そうそういう疑問をどんどんどんどん含めてきたわけです。
 そう意味では私は、原子力発電に対する疑問を、三十年前に一つの形として、既にまとめているわけです。その中で、「合意なき国策」です。

 原子力発電そのものを、人間の制御下、アンダーコントロールにおけるものではないということが、事実を調べる中で十分わかってきました。とりわけ、地震列島、活動期に入った狭い日本列島の中で、原発過密立国というのが、はたして人々の安全、幸せにつながるのかという、大変深い疑問を持ったのです。
 いま問題になっております福島の一号炉、これが作られる過程も、詳細に証言を得て再現いたしました。これはフルターンキーです。ターンキーというのは、キーをいただいて、ぐるっと回せば、ダダッと工場が動くというものですね。全てをアメリカのGEからいただいた。しかもGEの技術者が福島にやってきてビレッジをつくった。そして最後にキーをいただいて、それを差し込んで回せば稼動する。何にも疑問をさしはさむことが許されない。与えられるものは何でもいただく。そっくりいただくという、そういう状況です。こうした技術開発は、とても危ないと思うのですね。
 その結果、アメリカにおいては、一部報道に出されましたけれども、私のコメントも入っていますけれども、台風とかハリケーンとか、そういうものに備えた、原子力発電の設備が造られていたにもかかわらず、日本にそういうものを持ってきていない。日本は一応台風の心配もありますけれども、もっと心配なのは、地震であり、津波なのですね。地震、津波という日本列島の自然の固有の脅威に備える施設、システムになっていない。それをいただいてくる。これは日本の戦後の技術開発、大変そういう部分が多いのです。とりわけフルターンキーということがあるのです。私は大変疑問もちました。そして当時の日本の技術者はアメリカに、わずか二週間研修に行っただけなのですよね。

 さらに申し上げたいことは、「合意なき国策」と言いましたけれども、いうまでもなく、原発利益集団ができ上がっていきます。原発マネーフローですよね。それは、不毛の民主主義です。民主主義とは異なります。私たちは一人一票しか選挙権がないのに、もうひとつの選挙権、もうひとつの選挙民集団、これが日本の経済界で、経済権力を持っている人々が行使しているのです。
 例えば某経済団体は、当時の政権政党の自民党、あるいは野党の民主党に対して政策評価をやって、ABCDとランク付けをして、政治献金の斡旋をするのです。その政党が原子力エネルギーに対して前向きなのか、否定的なのか、それをランキングして政治献金の額を割り振る。斡旋する金額を決めていく。もう一つの選挙民集団、経済権力なのです。これが原子力というものを取り囲んだ、利益集団を形成している。その実態も十分にわかってきました。

 アメリカに、トーマス・F・マンクーゾというピッツバーク大学の医学博士がいました。原子力発電や放射線障害について詳しい調査をしておるのですね。「マンクーゾ報告」というのがございますけれども、『原発への警鐘』の中でそれも紹介いたしました。その中で出てまいりますが、スロー・デスという言葉があります。緩やかなる死です。晩発性の二十年、三十年かけてゆっくりとやってくる死、これはスロー・デスなのですね。津波で即、亡くなってしまう、それはサドン・デスです。サドン・デスに対してスロー・デス。臭いもなければ、香りもなく、色を見ることもできない。眼鏡でも見えない。何の音もしない。そういった不気味なる放射線で、二十年、三十年後に障害が現れて、ゆっくりとした死に向かうというケースが、実際に疫学的調査その他で、実に明快にアメリカで調査されていたのです。
 私は、これを書きました。そして京大の原子力実験室の、大変良心的なある先生に、正当な評価をしていただいたのです。三十年前ですが、その方は助手でした。いまでも助手なのです。大変に優れた原子力の科学者であるにもかかわらず、日本の国策に反するということから、いまでも教授になれない。
 こういう、学問研究における差別があります。そうして原発やエネルギーに対する不都合な言質を排除していくのです。そうして、エネルギーの多消費社会、電力エネルギー多消費社会を作り上げていく。国策としての原子力発電所の建設をすればするほど、原子力以外の自然な再生可能エネルギーへの意思というものを摘まんでしまうのです。エネルギー選択の幅を、自ら狭めてしまうのです。とても残念です。
 私は、北欧デンマークにおけるエネルギー選択、ヨーロッパにおけるエネルギー選択、ずいぶん早く書いてまいりました。九十年代半ばに、『共生の大地』(岩波新書)を書いて、その中に詳しく、各国におけるエネルギー選択のあり方を書いてまいりました。こうした自由なエネルギー選択というのがあるからこそ、技術は進むわけです。
 それを、原子力発電、原子力エネルギーに特化させることで、本当はもっと幅の広いエネルギー選択の幅を自ら狭めてしまった。そして、ここに至ったのだと思います。今回の三・一一が、人々に及ぼす、世界に及ぼす影響、これは申し上げるまでもありません。結局、人間の制御下置けるものではない。そういう事故の悲惨について、私は強調したいのです。
 そして、戦前における軍需産業、これが戦後における原発産業でした。ですから、原発産業で数千億、こういったものを作り上げていくことによって、国内での個人消費がたとえ豊かにならなくても、経済が成長できるような構造を作っていったのです。戦前は、昭和恐慌から脱出するために軍事産業を興していく、戦争につながったのです。戦後は明らかに、原子力エネルギーという部分に、私たちはかつての軍需産業の姿を見ることができるのです。これはどうしても止めなければなりません。
 その方法は、様々あると思いますけれども、次に来る世代、さらに次に来る世代のために、どうしても原子力発電をやめなければならない。私たちの国、とりわけこの活動期に入った地震列島日本、これを過密原発立国、原発過密列島にしてはならない。そういうことを何とかして、皆さん方に伝えていただきたいし、私自身もこれからも発言を続けたいとこういうことでございます。ご理解いただきたいと思います。以上です。




●鎌田慧さん
 いま原発のある地域は、全部、反対運動のあった地域です。反対運動があったけれども、潰されてきた地域なのです。お金で潰された地域です。僕は全て回ってきましたが、全部お金で潰されているのです。買収されています。電力会社が、何でも寄付し、お金で買ってあげてしまう。それは電力料金にそのまま加算されていますから、ものすごいお金をばら撒くということなのです。
 電源三法で、原発を一基作りますと、最初の建設までの十年間で五百億円、稼働してから十年間で四百数十億円、二十年間で一千億円が入るのです。建設でも五千億円くらいのお金が入りますから、膨大なお金が地域に流れ込んでいくのです。
 ですから反対運動も、なかなか成立しません。いまでも、ほんの少数の人たちが残っていますが、ほとんどが負けてしまっています。反対すると、「いままでのお金を返せ」といわれるのではないかという話もあります。原発は、アン・モラル、非道徳な存在だと思います。全てをお金で解決してきたのです。
 原発体制として、国・官僚・政治家・学者・マスコミ・裁判所が一体化して、頭の上に乗っていました。それがいま、不幸なことですが事故が起きて、それがはじけて、語りやすくなったのです。そういう時に、大きな運動で押し返していく、そのチャンスなのです。なんとか署名と集会を、やり遂げていきたいと思います。ヨーロッパに負けないような、大きな力を発揮したいと思います。


●五島昌子さん(瀬戸内寂聴さんのご友人)
 一昨日の午後、瀬戸内寂聴さんに会ってきました。とても元気でした。脊髄圧迫骨折を患っていたのですが、会ったときには、ご自分で歩いていました。
 鎌田さんから、署名の呼びかけ人になって欲しいと手紙が来ていたけれど、その時には痛くて、ちらりと見ただけで返事ができなかったそうです。でも、もちろん賛成してくれるということでした。瀬戸内さんも、被災地を訪れて、お寺で講話もしてきたそうです。
 瀬戸内さんは、寂庵で毎月講話をされています。「そこに来る人たち、みんなに署名を頼むから、用紙をたくさん送って」と言っていました。一千万万人の署名を集めて、日本国民の意地を知らせなければいけない。私たちは、あまりにも、怒りが少なすぎるとおっしゃっていました。こういう事態で、一番エネルギーになるのは、怒りであり、愛であるとも、おっしゃいました。
 それから、被災地の学校に行って、子どもたちと話をしたそうです。みんな、明るくて元気だった。瀬戸内さんは来年で九十歳、卒寿だそうです。卒寿とは、生きることを卒業することだそうです。瀬戸内さんは、子どもたちの未来のためにと言い尽くされているけれども、生きている限りは怒っていく、がんばっていくとおっしゃっていました。
 会には出ていかれないけれども、皆さんによろしくお伝えくださいと、記者会見には出られないけれども、自分のできることは何でもしていきたいとのことです。


記者の質問に答えて
■質問 これまでの反原発運動の弱さ、限界などについて。

●鎌田慧さん
 私は運動の中心にいるわけではないので、口はばったいです。私の個人的な感想ですが、いままでいろいろな地域で、反対運動が負け続けてきたのは事実です。裁判をやっても負けました。地域別に各個撃破されてきて、そのことで諦めてしまって、全国をつないで盛り返そうという力が、無くなってしまったのだと思います。大胆に、積極的に、どんと開いていく、そうした運動が作れませんでした。
 住民運動や民衆運動は、大胆な構想で大胆な行動を提起したことがありませんでした。これまでは政党や労働組合が中心で、市民自らが手を結んで、大胆に全国的にやっていこうということが少なかったと思います。それは、いろいろな人たちが、力を失っていたからだと思います。
 でも、もうそうしたことではいけません。死に物狂いでがんばらなければなりません。それで私たちはロートルですが、いま若い人や女性たちが、あちこちでいろいろな集会をやっています。それは、どこかが司令するのではなくて、本当に個人個人がやっていて、それが段々と大きくなってきています。これは従来の様な中央司令部が命令する運動とは違って、リゾーム型、根っこ型、ネットワーク型で、いろいろな人が、いろいろな所で、いろいろな思いでやっていま。そうして、反原発、脱原発の運動が広がってきています。そういう人たちと、どうやって一緒にやっていくのかが、今後の課題になります。

 今日の記者会見で、「やりましょう!」ということをお伝えして、今後はインターネットやチラシなどでお知らせして、実行委員会にも加わってもらいたいと思います。またいろいろな集会に、私たちが出かけて行って話をして、そうしたことで違った流れを作っていきたいです。
 海外の状況を見ても、どんどん脱原発の方向に向かています。簡単にいいますと、核武装しない国は、反原発の方向に向かっていくのですよね。核武装を念頭にないところが、「もう原発はやめよう」となってきているのです。私はそう考えています。
 被ばく者の連帯の問題、つまり広島と長崎の被ばく者と、これから出てくる福島の被ばく者の連帯の問題も課題になってくるでしょう。やはり、「核」をどう無くしていくのか、そういうところに向かっていく運動だと思います。

●内橋克人さん
 これからの進め方について、乗り越えるべき困難は大きいと思います。国策として原子力エネルギーを進めてきました。そこにはPA戦略があります。どういう戦略で国および電事連が行ってきたのかを、知れば知るほど、手ごわいことが分かります。
 もちろんいまは、世界の流れも変わってきました。当時とは、事情は違ってきたと思います。しかし、大変な勝負です。乗り越えるべき困難は、依然として大きいのです。
 PA戦略を、簡単にお話します。三本の柱があります。一つはマスコミのOBを通じての、様々なブラフです。その背後にあるのは、電気事業連合会です。週刊誌やその他の雑誌の、一つ一つの記事をチェックして、厳しい抗議を、くり返し、くり返し行うのです。ちょっとした記事に対して、詰め方が甘いところがありますと、そこを何度も、何度も抗議するのです。そすると記者やライターは、萎縮する、自己規制するようになります。それにOBを通じて、企業内の上層部が関わっている場合もあるのです。それがこれから、どう動くのか。

 二番目は教育です。先日、『世界』(五月号・「原発安全神話」はいかにしてつくられたか)に書きましたが、教育が徹底して行われています。小学生・中学生・高校生に至るまで、原子力発電、原子力エネルギーが、いかにあなた方の世代のクリーンなエネルギーであるかを、徹底して教え込んでいくのです。成績評価の対象にもなるのです。教師が児童・生徒を見ながら、どこまで理解したか採点をするのです。ですから、原子力発電は未来にふさわしいエネルギーであることを理解したと示せば、成績も上がる仕組みなのです。それから副読本です。それには巨大な資金を投入しています。『わくわく原子力ランド』(作成:文部科学省・経済産業省)などの副読本を、無料で配っています。ワークシート、つまり教師のための指導要領も緻密に作っています。教育の面で、徹底して原子力の安全教育を行っています。原子力安全神話は、いかにして造られたのかを考える場合に、教育が効果を発揮しています。
 三番目は、パブリシティーです。商業マスコミですから、新聞もテレビも雑誌も、採算が合わなければ困ります。常にスポンサーを必要としています。そういう中で、スポンサーとしてお金を出しながらパブリシティーをやっています。著名人も、ありとあらゆる人々がその中に入っています。いかに原子力が極めて科学的なエネルギーであり、これを疑う者は時代遅れだと宣伝しています。それをメディアがやってきました。例えば雑誌の巻頭グラビアで、著名人や著名なキャスターを、通常は公開しない施設に連れて行って、彼らに語らせるのです。それで原子力発電を、一般の人々にイメージ付けていくのです。
 この三つの柱を、とりわけ電気事業連合会として、組織的にやってきました。文部科学省とも、二人三脚でやっていると思います。そうして人々の、漠とした不安を、片隅に追いやっていくのです。それを長年にわたって行ってきました。

 いま人々は、身にしみて危険性を感じている時期ですけれども、この時期が一過性で過ぎてしまうかもしれません。リーマンショックの後も、新自由主義に対する批判などがありましたが、通り過ぎてしまいました。
 しかし今回は、そういうわけにはいきません。スロー・デスという言葉のように、影響は二十年、三十年と続くのです。いかに賢明な、聡明な市民になっていくのかが、試されているのだと思います。東北の人々には、本当にいいところがたくさんあります。でも、あまりにも我慢強い。「なぜ分からないのか」と思うぐらいです。それには理由がありますから、よくわかります。でもいまは、本当の意味で、怒りと憤りを日本中が取り戻す、そうした時期に来ているのではないでしょうか。



■質問 広島・長崎の被ばく者と、福島の被ばく者の連携について。

●鎌田慧さん
 これから、残念なことですが被ばくの影響が現れてきた時に、問題になるだろうと思います。いま具体的にどうするのか、それはありません。問題が出た時に、具体的な連携が迫られるでしょうし、私たちも連携の努力をする必要があると思います。いままで、反核と反原発は、結びついていませんでした。ようやく、同じ核の被害として、被ばくの問題がつながり始めたのだと思います。


●澤地久枝さん
 いま、いろいろなところで福島を考える集会、原発を考える集会を行うと、予想以上に多くの人々が集まり、熱心な会をやっています。私が出席した会の一つは、吉祥寺のお寺の本堂で行われて、五十人以上が参加しました。アメリカ男性の尺八や、非常に珍しい楽器のコンサートをやって、そのあと、福島から来た人たちが福島の状況を訴えました。「ひどいけれども、私たちは福島でがんばる」と、発言していました。女性が多く、若い人も含めて、非常に熱のある集まりでした。主催者たちは、大変喜んでいました。
 みんな、「本当のことを知りたい」と言っています。情報が足りなさすぎます。私は日本という国は、市民を本当にばかにしていると思うのです。事故が起きてしまったときに、言うべき言葉があったと思います。
 それは、「残念なことだけれども、こういう事故が起きた。そして最悪の事態についての見通しはこうだ。それを避ける努力をしてきているが、避けきれないときにはこういうことが起きる可能性がある。その可能性が不幸にも実現してしまったときには、我々はこうする。それでも犠牲が出るかもしれないけれども、冷静に一緒にやっていこう。我々も全力を尽くす」と国民に向かって、呼びかけるべきでした。
 少し時間が経ってから、世界に向かって「救援に感謝します」と言いました。でもその前に「皆さんに対して申し訳ないと思う。我々の国こそが、こういう事故を起こしてはならない国であった。なぜなら過去に、核がいかに恐ろしいかを体験した世界で唯一の国なのに、事故を起こしてしまった。その事故の影響は我が国に留まらずに、世界中に影響していくだろう。我々は恥じるし、申し訳なかった」と、まず言ってもらいたいと思います。その上で、各国からの救援に対してお礼を申し上げる。人が何かをするときに順序があるように、国が何かをするときにも順序があると思うのです。しかし、そういう認識が無いのです。

 先ほどの質問に関わりますが、広島と長崎について、記憶が風化してきたのだと思います。原爆投下直後に広島・長崎を通った人、身内に被ばく者を抱えている人、被爆についてこだわって仕事をしてきた人たちは、ずっと同じことを言い続けてきました。それでも力は弱かったのでしょう。
 では、ダメかというと、そうではないと思います。私は、ドン・キホーテと言われてもいいと思うのです。いま生まれた赤ちゃんが、大人になって、親になる時代が来ます。その時にどうなのかという問題があります。さらには、その子ども大きくなってどうなるのか。五十年、百年の時間をおいて、核の利用を考えなければならないのです。
 いま非常に巧妙な議論がでています。新聞で読んだのですが、アメリカの学者が、核は非常に怖いけれども、核の研究は欠かすことができないと言っているのです。それは、ガンに対する闘いにも有益なことがあるから、やめる事はできないというのです。
 これは一種の脅しだと思います。核から、何かいいことが生まれてくる可能性は無いと思った方がいい。核兵器はもちろんですが、原発を含めて、人間が核エネルギーを引き出した時に、私たちは終末に向かって歩きだしたのだと思います。

 私は一九五〇年に、夜間大学の一年生でした。教室で席に座っていると、署名用紙が回ってきました。それは「ストックホルム・アピール」でした。戦後に反核の署名運動が世界中で行われましたが、その最初が「ストックホルム・アピール」です。私は何もしないで、次の人に回しました。戦争で、いかに自分が馬鹿であったか痛いほど思い知っていたのに、無知を恥じていたのに、「ストックホルム・アピール」を見て、「これに署名したら赤に利用される」と思ったのです。赤が何かも分かっていないのですよ。戦争が終わって、わずか五年ですよ。その時に、人並みの感性があると思っていた私のような人間でも、もう考えが汚染されていたのです。
 第五福竜丸の久保山愛吉さんを取材したことが、ジャーナリストとしての最初の仕事でした。私はずっと、一人のジャーナリストとして、核兵器に反対する、戦争に反対する姿勢を保ってきました。
 私が勤めを辞める直前のことですが、バートランド・ラッセルという伝説的な偉い人、高齢な人ですが、核兵器に反対してロンドンでデモをやって、警察に捕まることがありました。私はラッセル夫人に、原稿を書いてくれと依頼しました。そして原稿が来ました。『婦人公論』に載っています。その中には、夫がどういう気持ちでデモを行い、捕まって、牢屋にいるのか、それを書いています。そうした仕事をしてきました。
 原発ができ始めた最初のころに、どこかの原発で冷却水が漏れ出す事故が起きました。どういう処置をしたかというと、箒(ほうき)と塵取り(ちりとり)なのです。これは新聞で読みました。非常に科学的で、高度な技術を必要としている場所で、箒と塵取りとは、まさかと思いました。東海村のJCOの事故でも、ステンレスのバケツですよね。それで被ばくして犠牲者が出ています。
 
 フリーの物書きとしてスタートして、一冊の本を書きました。しかし次の注文はこないという状態でした。そしたら亡くなった評論家の草柳大蔵さんが、東北電力が春秋にやっている定期講演会の講師にあなたを推薦する、と言ってくれたのです。私はそれを受けました。春秋二回、二か所ずつで、一年に四回、私は東北電力のある、ほとんどの街に行きました。
 その頃にも反原発署名がありました。私は反原発の立場でした。でもその当時、東北電力は原発を持っていなかったのです。それだけが、唯一のエクスキューズでした。でも署名はできないと思っていました。
 女川が講演会場だったことがあります。扇谷正造さんという『週刊朝日』の名編集長と、女川に行きました。講演会の前に、町長だったと思いますが、「澤地さん、原発の話はしないでください」と言うのです。女川では、原発の受け入れを巡って、町が割れる騒ぎになっていました。特に漁業の人たちが、「魚が獲れなくなる」、「女川の魚はだれも食べなくなる」と絶対反対でした。
 しかし給付金が来るのです。貧しいところを、海ぎわを狙い撃ちにするようにして来るのです。そうして悲しいかな、お金に目がくらんで、昨日まで「絶対反対」と言っていた人たちが、だんだんと落ちて行って、最後に女川原発を作られてしまいました。
 私は、自分の発言が抑制されることに耐えられません。私は私の責任において物を言います。私には良識もあるし、女川で何が起きているのか分かっていて、そこに火に油を注ぐようなことは言えないと思っている。でも、その程度の人間であるとも認めてもらえなかった。その時に決心したのです。
 家に帰ってすぐに、反原発署名に参加しました。草柳大蔵さんには、「反原発署名に署名しました。東北電力の講師は辞退します」と告げました。有名な人たちが、講師に名前を連ねていました。でもその人たちが、私と同じ理由で辞めたとは、聞いたことがありません。警戒していないと、いつの間にか、お金や外国旅行で取り込まれていくのです。実に巧妙に、広がっていたのです。
 原発事故の直後は、いろいろな人が発言していました。でもいまは声が小さくなっています。自分の人生を振り返ってみて、発言できないという人もいるのでしょう。それぐらい浸透してしまったのです。

 なぜそういうことが起きたのでしょうか。それは、効率主義の利益最優先の戦後日本の国の在り方が、問題だと思うのです。アフガニスタンで砂漠に水を引くために活動している中村哲さんが言っていました。アフガニスタンの農民に「幸せは何か」と聞くと、「家族が揃っていて、三度の食事ができる事。それが一番のしあわせ」と言うのだそうです。
 そこまで戻ろうとは、言いません。しかし、それが、かけがえのない大切な物だということを、例えば両親を失った子どもたちは分かっています。家族が一緒にご飯を食べられる、その平穏な日々が、どんなに大切なものなのか。それをいま痛切に感じている人たちが、避難している人の中には、たくさんいると思うのです。
 福島の人たちは、私たち全員が直面したかもしれない原発事故による被害を、私たちの代わりに身に受けているのであって、福島で起きたことを忘れてしまうのではなく、福島と一緒に生きていくことを確認したいと思うのです。福島の人たちは、日々の事柄に追われているかもしれません。そうではない私たちにできることは何か、それがここに来た理由なのです。
 私は八十歳になりました。子どもも孫もいません。でも小さい子どもたちを見ると、この子たちの未来は私たちに責任があると、いつも思うのです。
 また、人間のことも大切ですが、何万羽もの鳥が死んでしまう。牛が餓死してしまう。汚染された地域でまだ生きている牛や、その他の生き物は、「残虐で無い手段で安楽死させる」と政府は発表しました。これが平和憲法を持っている国で、起きていいことなのでしょうか。つまり、人間を助けて、お金をもたらし、慰安をもたらした生き物たちを、餓死させたり、安楽死させたりする。それを子どもたちの目の前で行う。逆な意味で、ものすごい教育効果でしょう。子どもたちは、何も言いません。でも自分たちが見聞きしたことを、絶対に生涯忘れないでしょう。悲しみや怒りは、刻まれるものなのです。
 広島と長崎を背負って、私たちは六十六年間、生きてきました。その歴史の上に立って、いま発言する意思と勇気のある人たちには、署名に参加して、まわりに呼びかけて、一千万人を超える署名を集めましょう。九月十九日の集会には、会場がはち切れることを目標にしましよう。

 先日、「九条の会」の関係で、日比谷公会堂に行きました。その途中でタクシーに乗っていると、背広を着た公安警察官がたくさんいるのです。「私たちのような平和な集会になぜ」と思っていたら、タクシーの運転手さんが、「この先の東電本社を守っているのですよ」と言うのです。機動隊の車もたくさん来ていました。東電に対して怒りがあったり、デモがあったり、抗議があったりするのは、当然だと思います。でも警察は、しっかり守っているのですね。変なものです。東電はその防護の内側にいて、テレビに出ては、キョトンとして、ウソを言うのです。具体的なデータは出さないで。
 昨日のテレビで言っていましたが、アメリカは、日本が情報を出さないために、日本不信のようですね。アメリカにはアメリカの思惑もあるのでしょう。為にする発言もあれば、国家的な発言もある。地震の救援にきた原子力空母は、原発事故が明らかになったら退避しまいましたね。また在日のアメリカ人に避難指示を、大使館が出しました。
 アメリカは、スリーマイル島原発の事故以来、新しい原発は建設していません。でもアメリカと日本の原発関連の大きな資本が、ベトナムへ原発を輸出しようとして、フランスと争っています。前原誠司さんが売り込みに行ったりしました。自分の国で起きた事故もコントロールできないのに、他の国に持って行っていいのでしょうか。アメリカはそれをやったのです。そのアメリカ政府も、市民の意思表示で態度が決まります。
 最近ではイタリアで、原発の再開に関する国民投票が行われました。投票率が低いのではという予想に反して、多くの人が投票にいって、九十パーセント以上が、原発NOでした。デモのプラカードなどを見ていると、「FUKUSHIMA」の文字がありました。では、日本は何をしているのでしょう。私たちに返ってくるのです。原発はいや、命をいとおしむ、かけがえの無い命を大切にする。だから私は、原発をやめる方向へ、国の姿勢を変えたいのです。

 結論を先に出して、そこに向かって進んでいく。そのためには、在野の人たちの技術も必要でしょう。その人たちの協力を得る。衆智を結集して対処する時代なのです。
 その為には第一に、どうか署名に参加してください。小さなグループも、大きなグループも、それぞれが動いて、一つのものになれば、署名運動は成功するし、集会も成功すると思うのです。
 私たちは、政治に絶望すると同時に、日本人であることに絶望しかねない状況にあるのです。それは自分に絶望することでもあります。でも希望を捨てたら、生きていけないですよ。また未来の世代のために、希望の明かりを守る義務があると思うのです。
 自分が仕事をしてきて、実に多くの、名もない人々の、人生や無残な死を書いてきました。原発という人的事故を、くり返したくないのです。無残な死は、もう見たくないのです。そのために第一歩が、今日なのです。
 みなさん、一歩前へ出るのは怖いかもしれません。それなら半歩でも、三分の一歩でもいいから前へ出て、周りの人に話をする勇気が、試されているのではないかと思います。


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