資料 沖縄と米軍基地
 作成者 全国基地問題ネットワーク/フォーラム平和・人権・環境
 作成日 2012年4月7日


 

1.在日米軍兵士の数は53,082
(1)日本は世界第1位の米軍駐留国
 多くの人々は、アメリカ軍は世界中に駐留していると思っているのではないでしょうか。実際、アメリカ国防総省が発表した資料を見ると、151か国にアメリカ軍が駐留しています。しかしそのうち118か国では、駐留兵士の数は50人以下です。さらに1,000人以上の兵士が駐留している国は、戦時中のアフガニスタンやイラクなどを除くと、9か国しかありません。 トップ5を以下に記載しました。日本は、世界で最も多くのアメリカ軍兵士が駐留している国です。駐留アメリカ軍兵士の数は長らく、ドイツが1位で日本は2位でした。冷戦中の1990年には、ドイツには227,586人のアメリカ軍兵士が駐留していました。しかしその後の20年間で、駐留部隊の削減が進んだのです。一方、日本では、冷戦後も駐留部隊の規模は維持され続けました。そのため2010年に、ドイツを抜いて世界最大のアメリカ軍駐留国になってしまったのです。

順位

国名

駐留米軍兵士数

第1位

日本

53,082人 

第2位

ドイツ

52,332人 

第3位

韓国

26,339人 

第4位

イギリス

9,677人 

第5位

イタリア

9,239人 

韓国は2008年3月31日現在、他は2010年3月31日現在。
アメリカ国防総省ならびに防衛省の資料より作成。

(2)米軍施設の面積は世界第3位
 次に各国のアメリカ軍基地・施設の面積を見てみます。日本がアメリカ軍に提供している基地・施設の面積は126,828エーカーで、世界第3位です。126,828エーカーは513,273平方キロメートルになります
(なお防衛省の発表では在日アメリカ軍基地・施設の面積は308,935平方キロメートルとなっています。アメリカ側の数値には訓練用の空域や海域が含まれるものと思われます。)

順位

国名

施設面積(エーカー)

施設数

第1位

グリーンランド

233,034 

1 

第2位

ドイツ

147,824 

137 

第3位

日本

126,828 

123 

第4位

韓国

32,435 

87 

第5位

オーストラリア

20,078 

6 

第6位

イギリス

8,376 

69 

第7位

イタリア

5,615 

83 

2008年3月31日現在。アメリカ国防総省の資料より作成。

 (3)駐留経費負担は世界第1位
 日米両国政府は2011年1月21日、「思いやり予算」に関する特別協定に調印しました。協定の中身は、日本が支出する「思いやり予算」を、今後5年間は現行水準(2011年度1881億円)で維持するというものです。「思いやり予算」の中身は、アメリカ軍基地やアメリカ軍住宅の施設整備費・光熱水費・基地従業員の給与などです。
 日米安全保障条約と日米地位協定によって、日本はアメリカに対して基地を提供する義務があります。そのためアメリカ軍基地の借地代金の支払いなどは、日本政府が行わなければなりません。しかし「思いやり予算」で支出される項目は、本来はアメリカが負担するものです。それが1978年に「円高・ドル安」となったことから、法的根拠はないがアメリカに対する「思いやり」として支払われるようになりました。現在では特別協定を支払いの根拠にしています。またアメリカ軍・軍人・家族は、様々な面で税金が免除されています。それらも実質的には日本の負担となっています。
 少し古い数字ですが、以下はアメリカの同盟国による駐留経費負担のトップ5です。日本の負担が飛びぬけていることがわかります。

順位

国名

直接支援

間接支援

総額

負担割合

第1位

日本

32億2843万ドル

11億8298万ドル

44億1134万ドル

74.5%

第2位

ドイツ

2870万ドル

15億3522万ドル

15億6392万ドル

32.6%

第3位

韓国

4億8661万ドル

3億5650万ドル

8億4311万ドル

40.0%

第4位

イギリス

302万ドル

3億6353万ドル

3億6655万ドル

41.0%

第5位

イタリア

2750万ドル

2億1096万ドル

2億2846万ドル

27.1%

2002年現在。アメリカ国防総省の資料より作成。
@直接支援・・・予算として支出されるもので、私有地にあるアメリカ軍基地の土地代金・基地従業員の賃金・公共料金・基地周辺対策費など。
A間接支援・・・本来は収入になるが政府が放棄しているもので、公有地にあるアメリカ軍基地の土地代金・税金・関税など。

なぜ日本にアメリカ軍基地があるのでしょうか?
 1945年8月15日、日本は連合国軍からの「ポツダム宣言」を受け入れて、無条件降伏しました。8月29日にはアメリカ軍の先遣隊が横浜に上陸し、30日には連合国軍最高司令部(GHQ)司令官のマッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちました。こうしてアメリカ軍による日本占領が開始されたのです。
 1951年9月8日、アメリカのサンフランシスコで開かれた講和会議で、連合国と日本は「サンフランシスコ講和条約」に調印し、日本は独立国として国際社会に復帰することになりました。同条約は国会での承認を経て、1952年4月28日に発効しました。この条約によって、7年にわたるアメリカ軍の占領は終わるはずでした。しかし日米政府は「サンフランシスコ講和条約」の調印と同時に、「日米安保条約(旧条約)」を結びました。その内容は、講和条約締結後も、アメリカ軍が日本国内に駐留する権利を認めるものだったのです。
 旧条約ではアメリカは日本に軍隊を駐留させる権利を持つが、日本を防衛する義務は無く、アメリカ軍が日本の内乱にも介入できる内容でした。そのために保守派からも批判も多く、両国は1960年1月19日に、旧条約を廃して新たに「日米安保条約(新条約)」に署名しました。新条約では、第5条でアメリカに対して日本防衛の義務を、また第6条で日本にアメリカ軍基地を置く権利を定めています。現在、アメリカ軍が日本に駐留する根拠となっているのは、この条約です。こうして流れを見ると、在日アメリカ軍は占領軍の延長であることがわかります。



2.沖縄米軍兵士の数は26,460
(1)米軍兵士の数が最も多いのは沖縄県
 前項では、駐留アメリカ軍兵士の数が最も多いのが日本であることを見てきました。それでは日本国内で、最も多くの兵士が駐留している都道府県はどこでしょうか。下の表は、防衛省発表の資料を基に作成しました。日本に駐留するアメリカ軍兵士の64パーセントが沖縄県に配属されています。第2位の神奈川県と比べても2倍です。またその下の資料は、沖縄県庁が作成したものですが、沖縄に駐留しているアメリカ軍のうち、海兵隊の割合が高いことがわかります。

順位

都道府県名

兵士数

第1位

沖縄県

26,460人 

第2位

神奈川県

13,084人 

第3位

長崎県

3,702人 

第4位

青森県

3,606人 

第5位

山口県

3,050人 

第6位

東京都

2,973人 

2010年3月31日現在。防衛省の資料より作成。

兵科

兵士数

陸軍

1,761人 

海軍

1,217人 

空軍

6,676人 

海兵隊

14,958人 

在沖縄米軍総計

24,612人 

2009年9月現在。沖縄県の資料より作成。

(2)米軍基地の73.83%が沖縄に集中
 さらに沖縄県には、日本にあるアメリカ軍専用基地・施設の73.83%が集中しています。またアメリカ軍基地は、沖縄県の全面積の10.2%を占めています。沖縄の県面積は日本全体の約0.6%ですから、明らかに過剰な負担です。

 

米軍基地

施設数

面積

(千u)

割合

(%)

日本全土

83

308,935

100.000

本土

51

80,861

26.17

沖縄県

32

228,074

73.83

2010年3月31日現在。防衛省の資料より作成。


 3.復帰後も事故や事件が多発
 沖縄県では1972年の本土復帰以降も、アメリカ軍関連の事故や事件が多発し、人々の生活を脅かしています。下に沖縄県がまとめたデータを、いくつか記載します。
@米軍航空機関連事故等 総計497件

飛行機

ヘリコプター

事故原因

件数

事故原因

件数

墜落

27 

墜落

16 

空中接触

2 

移動中損壊

3 

部品落下

25 

部品等落下

11 

着陸失敗

14 

低空飛行

1 

火災噴射

1 

着陸失敗

1 

不時着

302 

不時着

60 

爆弾投下失敗

2 

接触

1 

その他

30 

その他

1 

合計

403 

合計

94 


A米軍構成員等による犯罪検挙状況・・・総計5,634件

凶悪犯

粗暴犯

窃盗犯

知能犯

風俗犯

その他

合計

562

1,026

2,827

231

64

925

5,634

B米軍演習による原野火災等・・・512件/36,311,782u
C米軍構成員等が第1当事者(過失が最も重い者)の交通事故(人身事故)・・・2,491件
*@からBは1972年の復帰から2009年12月末まで、Cは1981年から2009年12月末まで。

●アメリカ兵・軍属・家族が犯罪を起こした場合
 最初に逮捕したのが日本の警察であれば、日本の警察がアメリカ兵の身柄を拘束し、取り調べを行い、起訴することができます。しかしアメリカ軍の憲兵に捕まった場合や、基地に逃げ込んでしまった場合には、日本の警察が検察に起訴するまで、身柄の引き渡しを受けることができません。警察は容疑者の取り調べができませんから、捜査は難しくなります。また以前には、起訴前に容疑者が国外に転勤になってしまうこともありました。

●アメリカ兵・軍属・家族が交通事故を起こした場合

 事故を起こした者が、私用で車を運転していたのであれば、捜査権も裁判権も日本にあります。しかし公務で運転していた場合には、裁判権はアメリカに移ります。アメリカ兵や軍属の交通事故に対して、アメリカ軍はしばしば、「公務中であった」と主張します。そしてアメリカの裁判では、非常に軽い罰で済まされてしまうことが多いのです。またアメリカ兵・軍属・家族は、自動車保険に加入していない場合があります。被害者が大きなけがを負い、あるいは死亡した場合でも、十分な補償を受けられないケースが多発しています。


4.沖縄の主な米軍基地と部隊

在沖縄海兵隊の編成


◆北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター 海兵隊)
 県内最大のアメリカ軍施設で、面積は78.242千u。国頭村と東村にまたがり、国頭村では村面積の23%、東村では41%を占める。海兵隊唯一のジャングル戦闘訓練施設で、沖縄以外からも多くの兵士が来る。訓練場の大部分は森林で、希少生物が生息する。訓練場内の5つのダムは、県内生活用水の約60パーセントを賄っている。ところがこのダムに、アメリカ軍が弾薬類を遺棄していたことが判明した。またベトナム戦争中には、訓練場内に枯葉剤を散布していた。
 1996年のSACO最終報告で日米は、訓練場の半分の返還と引き換えに、訓練場内の東村高江に、ヘリコプター着陸帯(ヘリパット)6か所を建設することで合意した。東村には現在でも15か所のヘリパットがあり、ヘリが兵士をロープで吊るしたまま離陸するなど実戦さながらの訓練が行われている。さらに6か所が建設されれば、地域の住民は騒音や事故の危険に晒されることになる。またヘリパット建設は、環境破壊にもつながる。そこで地域の人々は、2007年から反対運動を開始した。県内外の支援者の協力も得て、非暴力の座り込みで、国による工事を止めている。

◆キャンプ・シュワブ(海兵隊)
 名護市と宜野座村にまたがる。第3海兵師団の主力部隊である、第4海兵連隊・第3偵察大隊・戦闘強襲大隊が駐留している。第4海兵連隊(大隊800人×3個)は、アメリカ本土から6か月のローテーション配備。基地の東側は海岸に面しており、普天間基地の代替施設の建設予定地。隣接する辺野古では、建設反対の住民が座り込みを行っている。そこから水陸両用装甲兵員輸送車が沖合と基地の間を行き来する訓練や、海兵隊がゴムボートで上陸する訓練などを見ることができる。

◆キャンプ・ハンセン(海兵隊)
 名護市・宜野座村・恩納村・金武町にまたがる。県内最大の実弾射撃訓練場。第12砲兵連隊の第3大隊が駐留している。大隊所属の3個中隊は全て、アメリカ本土から6か月のローテーション配備。かつては演習場内で、155ミリ榴弾砲の砲撃訓練が行われていた。砲撃に際しては、基地内を横切る県道104号線を閉鎖したため、県民生活に大きな負担となっていた。SACO合意で実弾砲撃訓練は、日本本土5か所の陸上自衛隊の演習場に移転することになった。しかしその後も、機関銃や小銃の射撃訓練、手榴弾や地雷の爆破訓練が行われていて、野火が絶えない。また演習場と沖縄自動車道や住宅との最短距離が200〜300メートルのため、しばしば流れ弾が民有地に飛び込むことがある。沖縄自動車道を通ると、住民が立てた「流れ弾注意」の看板が見える。

◆嘉手納基地(空軍)
 嘉手納町・沖縄市・北谷町にまたがり、面積は19,869千u。アメリカが極東に保有する最大の空軍基地。第18空軍所属のF-15戦闘機や空中給油機など約100機が所属している。国内の他のアメリカ軍基地、在韓アメリカ軍基地、アメリカ本土の基地から訓練に来る外来機も多い。昼夜を分かたぬ爆音は近隣住民の生活を大きく阻害している。そのため2006年の在日米軍再編合意では、嘉手納基地所属の戦闘機の訓練を、年に数回、本土の航空自衛隊基地に移転することになった。しかし移転中も外来機が来るため、爆音の削減には至っていない。基地に隣接する「道の駅」から、基地の全景や航空機の離発着を見ることができる。普天間基地の移設先として、たびたび、嘉手納基地および隣接する嘉手納弾薬庫の名前があがっている。

◆トリイ基地(陸軍)
 読谷村にあるトリイ基地は、陸軍の通信施設で、西太平洋地域での戦略通信網の中心になっている。トリイ基地には通信傍受部隊のほかに、陸軍第1特殊部隊群(通称:グリーンベレー)の第1大隊が駐留している。この部隊は、フィリピン南部のミンダナオ島などで、アメリカ・フィリピン合同のイスラム武装組織の掃討作戦に参加している。

◆普天間基地(海兵隊)
 宜野湾市の中央に位置し、市面積の25パーセントを占めている。第1海兵航空団・第36航空群に所属するヘリコプターや空中給油機など、約60機が駐留している。(詳細は次項を参照)


5.なぜ辺野古に基地を作るのか
 沖縄では、全てのアメリカ軍基地が住民の生活環境を大きく破壊しています。「ここの基地には反対だが、あそこの基地はいい」ということではありません。
 しかし、そうした中でも現時点で重要な争点となっている基地はあります。それが宜野湾市にある普天間基地と、その移転先とされている名護市辺野古です。ここでは普天間基地の辺野古移設について、簡単に解説します。

(1)少女暴行事件とSACO合意
 1995年9月4日、3人の海兵隊員が12歳の女子小学生を誘拐し、性暴力を加える事件が起きました。沖縄県警は逮捕状を取り、アメリカ軍に対して容疑者兵士3人の引渡しを求めました。しかしアメリカ軍は日米地位協定を理由に引渡しを拒否しました。
 それ以前にも、沖縄ではアメリカ軍兵士による女性への性暴力事件は起きていましたが、小学生が被害を受けたことに対して沖縄県民の怒りは大きく燃え上がり、10月には宜野湾市で8万5000人が参加して「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれました。
 保守・革新を超えた反アメリカ軍感情の拡大に対して、日米両国政府は、アメリカ軍基地の存在が脅かされることを懸念しました。そこで「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置し、基地負担軽減の検討を行いました。その結果、1996年に発表された最終報告では、@いくつかの基地の返還、Aいくつかの訓練の本土移転、B騒音の軽減、C地位協定の運用改善――で合意したのです。その中で、返還される基地の目玉が、普天間基地でした。

(2)住民生活破壊する普天間基地
 普天間基地は宜野湾市の中心にあり、海兵隊のヘリコプターや空中給油機など、約60機が所属しています。基地が市面積の約25パーセントを占め、市の中心にあることから、交通は遮断され、公共施設の整備に支障をきたし、市の発展を妨げてきました。また基地の周辺は住宅地で、保育園・幼稚園や小中学校もあります。訓練は早朝や深夜も行われ、ひどい時にはヘリコプターが30秒おきに民家の上空を通過することから、市民の生活は破壊されてきました。
 そのため普天間基地の返還は、宜野湾市民や沖縄県民にとって大きな喜びとなりました。しかし、喜びは束の間のものでした。普天間基地の返還は、沖縄本島東海岸の別の場所へ新たな基地を建設して、移転することが条件だったのです。

(3)名護市辺野古海岸
 普天間基地の代替施設の移転先とされたのは、名護市辺野古でした。辺野古は、小さな漁村です。沖合にはサンゴをはじめ希少生物が生存し、絶滅危惧種のジュゴンの生息も確認されています。付近に海兵隊のキャンプ・シュワブがあり、演習も行われていますが、開発の進んだ沖縄本島の中では自然が残る貴重な地域です。
 突然の新基地建設に名護市民は反発し、1997年12月21日には市民投票が行われ、建設反対が過半数を占めました。市民の強い反対の前に、日本政府は次々と地域振興策を打ち出しました。公共事業が行われ、公的資金が投入される中で、やがて名護市長や沖縄県知事は建設賛成派になり、名護市議会や沖縄県議会でも賛成派が多数になりました。名護市も沖縄県も、基地建設に賛成か反対かで、住民が二分されてしまったのです。
 そうした中でも、基地建設反対の住民は、労働組合や市民団体の支援を受けて、反対運動を続けました。基地建設には環境影響評価(アセスメント)が必要ですが、アセスを強行しようとする国に対して、住民や支援者は陸上での座り込みや海上での阻止行動で、アセスを行わせませんでした。住民たちの闘いによって、基地建設の計画は事実上、頓挫したのです。

(4)在日米軍再編と普天間移設
 日米両国政府は2005年10月29日に「再編実施のための日米のロードマップ」を発表しました。いわゆる在日米軍再編合意です。その中には、@沖縄に駐留する海兵隊員8000人をグアムに移転する、A嘉手納基地以南のアメリカ軍基地6か所を日本に返還する、B普天間基地の代替施設を辺野古に移設する――ことが含まれていました。一度は頓挫した普天間基地の辺野古移設を、在日米軍再編にからめて再度、進めようとしたのです。
 新たな日米合意を受けて日本政府は、2007年5月に海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」と自衛隊員のダイバーを投入して、アセスのための機材設置を強行しました。政府に反対する市民運動に対して、戦後初めて自衛隊が投入されたのです。

(5)県が一体となって基地建設反対へ
 日本政府による辺野古新基地建設の圧力は強まっていきましたが、2008年に入ると基地建設反対の明確な県民意思が現れ始めました。2008年6月8日の沖縄県議会議員選挙では、与党の自民・公明の19議席に対して野党が29議席を獲得し、与野党逆転が実現しました。県議会は同年7月に「名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する意見書」を賛成多数で可決しました。
 2009年8月30日に行われた衆議院議員選挙では、4つある小選挙区の全てで自民党議員が落選し、基地建設反対派が当選しました。
 また2010年1月の名護市長選挙では反対派の稲嶺進さんが当選し、同年9月の名護市議会議員選挙でも反対派が多数になりました。11月の沖縄県知事選挙では、反対派の伊波洋一さんは惜敗しましたが、当選した仲井真弘多知事も選挙では県内移設反対を公約にしました。沖縄では、県知事・県議会・名護市長・名護市議会・県民世論が一体となって、普天間基地の辺野古移設に反対しているのです。

(6)鳩山内閣の発足と沖縄の期待
 2009年の衆議院選挙で与野党逆転が実現し、鳩山由紀夫民主党代表を首班に、民主党・社民党・国民新党の連立政権が発足しました。鳩山首相は以前から沖縄アメリカ軍基地問題に関心が深く、首相就任直後から、普天間基地の県外・国外移設を主張しました。
 しかし鳩山首相の指示は、従来案を進めようとする外務省ならびに防衛省官僚の強いサボタージュと抵抗にあいました。そのため2010年5月には、日米両国政府は辺野古移設で再合意してしまったのです。

(7)評価書強行提出と、日米再合意

 野田佳彦内閣は、停滞していた辺野古新基地建設を動かそうとしました。鳩山内閣発足以来、基地建設の前提となるアセスメントの手続きは、評価書の提出の前で止まっていました。野田内閣は、評価書の2011年内の提出を宣言したのです。12月末、沖縄県庁は多くの県民に囲まれ、沖縄防衛局は評価書を提出することができませんでした。そこで防衛局は29日の早朝4時に車数台で県庁に乗りつけ、一気に評価書の搬入を強行したのです。
 その後の国会審議で野田内閣の田中直紀防衛大臣は、国は2012年中の基地建設着工を意図していることを明らかにしました。
 しかし野田内閣の強行姿勢にもかかわらず、仲井真県知事の基地県内移設反対の立場は変わりませんでした。今年3月に提出された評価書に対する県知事意見では、辺野古移設は事実上不可能として、評価書の根本的な修正を求めたのです。

(8)外されたパッケージ
 日米両国政府は2012年2月8日に「共同報道発表」を公開しました。その中で日米は、普天間基地の辺野古移設は継続するとしながらも、これまで交換条件になっていた、海兵隊員8000人のグアム移転と嘉手納以南の基地返還を、普天間移設から切り離すとしたのです。
 この発表の背景には、軍縮を迫られているアメリカ政府の国防政策の変化があります。またアメリカ自身が、辺野古基地建設が困難であることを理解したものと思われます。
 こうした条件が新基地建設に反対する私たちに、有利に働くのか、不利になるのか、現在ではわかりません。しかし状況の変化を捉えて、反対運動を積極的に進めていく必要があります。


6.日本の繁栄は沖縄の切り捨ての上に
(1)6月23日  沖縄の終戦
 日本で終戦記念日と言えば、たいていの人は8月15日を思い浮かべます。しかし沖縄で戦争が終わった日は6月23日です。戦争末期の1945年、アメリカ軍は3月26日に慶良間諸島へ、4月1日には沖縄本島への上陸作戦を開始しました。激戦の末、6月23日には日本軍の組織的な抵抗が終わり、沖縄はアメリカ軍の占領下に置かれることになったのです。
 戦争では日本本土も空襲を受け、広島市や長崎市には原爆が投下されて、民間人が犠牲になりました。また当時は日本領であったサイパンやグアムでも激しい戦闘が行われて、多くの犠牲者を出しました。しかし日本国内で地上戦が行われ、民間人が戦火に巻き込まれたのは沖縄だけです。
 沖縄県の資料によれば沖縄戦での死者数は、アメリカ軍兵士約1万2000人、日本軍兵士約6万5000人に対して、沖縄県民は約12万人です。その内訳は現地召集された軍人・防衛隊・鉄血勤皇隊など約2万8000人、住民の戦闘参加者約5万5000人、一般住民約3万8000人――となっています。
 沖縄戦が始まった時点で、日本に勝ち目はありませんでした。しかし当時の軍部が、本土の防衛準備を進めるための時間稼ぎとして、また敗戦交渉を有利に進めるための手段として沖縄での戦闘を行ったことが、戦後明らかになっています。沖縄は本土のために「捨て石」にされたのです。

(2)4月28日  サンフランシスコ講和条約の発効
 1951年9月8日、日本と連合国はサンフランシスコ講和条約に調印しました。条約は1952年4月28日に発効し、これによって日本は独立を回復して国際社会に復帰しました。しかしこの条約の第3条は沖縄・奄美・小笠原などをアメリカの信託統治下に置くと定めていたのです。
 その後、沖縄のアメリカ軍基地は強化され、ベトナム戦争では、アメリカ軍の出撃拠点として、また後方支援基地として使用されました。
 本土のアメリカ軍基地の多くは、かつては日本軍の基地でした。そのため現在の土地の所有者は日本政府です。しかし沖縄のアメリカ軍基地は、占領中と信託統治期間中に、アメリカ軍が民間人の土地を力ずくで奪ったものです。そのため、現在でも土地所有者の多くは民間人です。
 沖縄のアメリカ軍基地問題は、日本の独立と引き換えに沖縄を切り捨てた、サンフランシスコ講和条約が原点にあるのです。

*奄美群島は、1953年12月25日に日本に返還されました。また小笠原諸島では、戦争末期に日本政府が住民を本土へ強制疎開させていました。1946年にはアメリカが、欧米系の住民のみの帰島を許可しました。1968年に日本に復帰すると、欧米系の住民はアメリカに移住し、代わって日本人の旧島民が移り住むことになりました。

(3)5月15日  沖縄の本土復帰
 サンフランシスコ講和条約で日本から切り捨てられた後、沖縄ではアメリカ軍が次々と、民間人の土地を強制収用していきました。沖縄の人々はこの時のことを、「銃剣とブルドーザー」で土地を奪われたと表現しています。しかし沖縄の人々も黙って見ていたわけではありませんでした。1956年には、保守革新を問わずに住民が参加する「島ぐるみ闘争」が始まったのです。
 1960年代中盤にベトナム戦争が始まると、沖縄は戦場から休暇で来た兵士であふれ、強盗や殺人などの凶悪犯罪が多発するようになりました。しかし沖縄の警察には、アメリカ軍兵士への捜査・逮捕権がありませんでした。野放しのアメリカ兵犯罪と、アメリカ政府からの差別に対して、沖縄の人々は本土復帰を求める運動を開始しました。また1970年12月20日未明にはコザ市(現在の沖縄市)で、アメリカ兵の起こした交通事故を発端に、コザ暴動が起こりました。
 こうした中で1969年11月12日、ニクソン大統領と佐藤栄作首相は沖縄返還で合意しました。この合意に基づき、1972年5月15日には沖縄の本土復帰が実現しました。しかし復帰後も、アメリカ軍基地は返還されず、兵士による事件や事故が減ることもありませんでした。
 またアメリカ軍基地の所有者の中には、土地の返還を求める人もいました。そうした人々から土地を取り上げるために、日本政府は沖縄だけに適用される様々な法律を作って、土地の収用を続けてきました。日米関係を最重要視する日本政府は、本土復帰後も事実上、沖縄をアメリカに提供し続けているのです。


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