解説 普天間基地と辺野古
1.普天間基地
普天間基地は宜野湾市にあり、海兵隊のヘリコプターや空中給油機など約50機が駐留しています。基地が宜野湾市面積の約25%を占め、また市の中心にあることから、交通は遮断され、公共施設の整備に支障をきたし、これまで市の発展は妨げられてきました。
普天間基地のヘリコプターは、離陸・旋回・着陸を繰り返す「タッチ・アンド・ゴー」の訓練を、1日に150回から300回も行います。ひどい時には民家の上空を、30秒おきにヘリコプターが通過します。また訓練は、早朝や深夜にも頻繁に実施されています。日米両国政府は1996年に騒音防止協定を結び、住宅密集地・学校・病院の上空では飛行しないこと、夜10時から朝6時までは飛行しないことを決めました。しかし米軍は約束を守りません。
2004年8月13日、普天間基地のヘリコプターが、隣接する沖縄国際大学に墜落しました。幸い市民に死傷者は出ませんでしたが、機体は炎上して校舎を焼き、ヘリの破片は400m先まで飛び散りました。
墜落直後から、大学や周辺の道路は海兵隊によって封鎖されてしまいました。宜野湾市の市長や大学の学長が校内に入ろうとしても海兵隊によって阻止され、沖縄県警は現場検証をすることもできませんでした。その上、数日後に海兵隊は、機体だけではなく周辺の土壌をも搬出してしまったのです。米軍が一帯を封鎖し、土壌まで運び去ってしまったのには、大きな理由がありました。機体には回転翼の安全装置としてストロンチウム90という放射性物質が使われていたのです。しかも、うち1つが行方不明になっていたことも判明しました。
実はこの事故が起きるよりも前から、日米両国政府は普天間基地の危険性を認識していました。そのため、1996年に結ばれた「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)の最終報告には、普天間基地の返還が含まれていたのです。
2.少女暴行事件とSACO
1995年9月4日、3人の海兵隊員が12歳の女子小学生を誘拐し、性暴力を加える事件が起きました。米兵たちはレンタカーを使い、用意した粘着テープで少女の目や口をふさぎ、手足を縛って、1.5キロ離れた場所まで少女を連れ去って暴行したのです。
沖縄県警は逮捕状を取り、米軍に対して容疑者米兵3人の引き渡しを求めました。しかし米軍は、「地位協定」を理由に引き渡しを拒否しました。「地位協定」では、容疑者米兵の身柄が米国側にある場合は、日本側が容疑者米兵を起訴するまでは日本の警察に身柄を引き渡さなくてもよいとされていたのです。さらにこの時、米太平洋軍司令官のリチャード・マッキー海軍大将は、「レンタカーを借りる金で女が買えた」と、沖縄県民の心を逆なでする発言をしました。
米軍の対応に沖縄県民の怒りは大きくなり、10月には宜野湾市で85,000人が参加して「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれました。
反基地感情の拡大が、米軍基地の存続を脅かすことを懸念した日米両国政府は、「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)を設置して基地負担軽減のための検討を開始しました。その結果、1996年に発表された最終報告で、@いくつかの基地の返還、Aいくつかの訓練の本土移転、B騒音の軽減、C地位協定の運用改善――などで日米は合意したのです。
この最終報告によって、普天間基地は日本に返還されることになりました。しかしそれは、名護市の辺野古に代わりの基地を作ることが前提になっていたのです。
3.名護市辺野古
辺野古は沖縄本島東海岸の小さな漁村です。沖合にはサンゴをはじめ希少生物が生存し、絶滅危惧種のジュゴンも確認されています。付近には海兵隊のキャンプ・シュワブがあり、演習も行われていますが、開発の進んだ沖縄本島の中では自然が残る貴重な地域です。
政府から突然通告された新基地建設に名護市民は反発し、1997年12月21日に行われた名護市民投票では建設反対が過半数を占めました。ところが当時の比嘉鉄也市長が、基地受け入れを表明し、即日辞任してしまったのです。また沖縄県の大田昌秀知事は1998年2月に基地受け入れ拒否を表明しましたが、同年11月の県知事選挙に敗れてしまいました。
名護市民の強い反対に対して、日本政府は次々と地域振興策を打ち出しました。その結果、1999年には稲嶺恵一沖縄県知事と岸本建男名護市長が基地の受け入れを表明し、名護市議会も賛成に回ってしまいました。そこで政府は普天間基地の辺野古移転を閣議決定したのです。
そうした中でも住民たちは、労働組合や市民団体の支援を受けながら反対運動を続けました。基地建設を行うためには、事前に環境影響評価(アセスメント)を実施しなければなりません。しかし住民の反対にあり、国は長らくアセスメントに着手できませんでした。
2004年4月19日、那覇防衛施設局はアセスメントの準備のために、海域のボーリング調査を試みました。住民や支援者は連日港に座り込み、ボーリング機材の搬入を止めてしまいました。防衛施設局は作業の再開を求めて、辺野古に来ては反対派住民への説得を続けました。しかしこの年の8月に普天間基地のヘリコプターが墜落すると、国は作業の再開を強行しました。陸上からの機材搬入を断念し、海上から大型作業船を投入して調査用の単管やぐらを設置したのです。住民と支援者はボートを繰り出し、やぐらに登って海上阻止行動を繰り広げました。そのために国は調査を行うことができず、2005年10月には台風を理由に単管やぐらを撤去してしまいました。普天間基地の辺野古への移設は、いったん白紙に戻ったのです。これは名護市民投票に続く、住民側の2度目の勝利でした。
4.再び辺野古新基地建設を決定
いったんは白紙に戻った普天間基地の辺野古への移設でしたが、日米両国政府は再び基地建設に向けて動き出しました。
米国政府はブッシュ大統領の下で2002年頃から、海外に展開している米軍の配備態勢の見直しを進めていました。その一環として在日米軍も大きく再編されることになったのです。
日米両国政府は2005年10月29日に「日米同盟:未来のための変革と再編」を発表しました。その中で沖縄に駐留する海兵隊員のうち7,000人をグアムに移転させること、その見返りとして辺野古で新基地建設を進めることを改めて約束したのです。
新たな合意に対して、住民は海上阻止行動を続けました。すると日本政府は2007年5月に、海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」と海上自衛隊員のダイバーを投入して、防衛省の独自調査を強行しました。政府に反対する市民の行動に、戦後初めて自衛隊が投入されたのです。
防衛省はアセスメントの正式調査を2008年3月15日から開始し、2009年3月14日に終了しました。
防衛省は4月1日には調査結果と基地建設の影響を予測した「準備書」を作成して県に提出し、合わせて住民意見を募集しました。6月15日には「準備書」への意見概要と事業者見解を、県・名護市・宜野座村に送付しました。
これに対して名護市長は9月に、沖縄県知事は10月に「意見書」を提出しました。
この「意見書」を受けて、防衛省が「評価書」を作成すれば、アセスメントの全ての手続きは終了することになります。
5.変わる基地の建設計画
日米両国政府が2005年に合意したヘリ基地の建設計画案は、1997年の最初の計画からは大きく異なるものになっていました。
1997年に日本政府が最初に提示したのは、「海上ヘリポート案」でした。建設予定地は辺野古沖のリーフ(サンゴ礁)の内側または外側です。大きさは1,300mの滑走路を含めて長さ1,500m・幅600mとしていました。建設方法は、海底に杭を打った上に滑走路を設置するか、海上に箱型のユニットを浮かべて固定するもので、「海面に浮かぶ基地」を想定していました。こうした工法のために政府は、「必要性が失われたときには撤去可能なもの」と説明しました。
それが2002年に正式に建設が決定した時には、「辺野古沖リーフ上埋め立て案」に変更になっていました。これは辺野古沖のリーフを埋め立てて、その上に長さ2,500m・幅730mの基地を建設するものです。
さらに2005年に日米が新たに合意したのは、キャンプ・シュワブの沿岸をL字型に埋め立てる「沿岸案」でした。キャンプ・シュワブの陸地部分から海面を埋め立てて、そこに滑走路と施設を建設するものです。陸上部分から工事を進めるために、反対派の妨害にあいにくいと考えたのでしょう。
このL字型「沿岸案」は日本政府と名護市が協議する過程で、2本の滑走路をV字型に持つ案へと変更になりました。ヘリコプターが集落の上を飛ぶことを危惧した名護市に配慮して、離陸用と着陸用に別々の滑走路を使用することにしたのです。
日本政府と名護市がV字案で合意した後にも、沖縄県内からは沖合へさらに50m移動することを求める案などが出されました。
新しい基地は海を埋め立てて建設します。そのために埋め立てる海域が深すぎたり、建設方法が複雑すぎたりすると、仕事の大部分は東京のゼネコンやマリコン(海洋土木専門のゼネコン)に取られてしまいます。沖縄の土木・建設業者が仕事を得るためには、より浅い海での建設計画が望ましいのです。建設計画がさまざま変遷した背景には、土木・建設業者間の暗躍もあったのです。
6.沖縄の海兵隊
ここで、普天間基地に駐留する海兵隊とは、どのような部隊なのかを見てみましょう。米国は陸・空・海・海兵隊の4軍を保有しています。陸空海3軍の出撃には連邦議会の承認が必要ですが、海兵隊は大統領命令のみで出撃できます。そのため海兵隊は頻繁に戦地に派遣される部隊で、「殴りこみ部隊」というあだ名を持っており、他の3軍より「荒くれ者」が多いといわれています。
沖縄には第3海兵遠征軍が駐留しています。海兵隊には3つの遠征軍がありますが、海外配備は第3海兵遠征軍のみで、第1海兵遠征軍は米本土の太平洋側に、第2海兵遠征軍は米本土の大西洋側に配備されています。第3海兵遠征軍の下には、第3海兵師団・第1海兵航空団・第3海兵兵站群が所属しています。一部の部隊は山口県の岩国基地とハワイに派遣されていますが、部隊のほとんどは沖縄配備です。このうち普天間基地に配備されているのは、第1海兵航空団の指揮下にあるヘリコプター部隊です。
第3海兵遠征軍の主な任務は訓練の実施です。そのため司令部や後方支援部隊は沖縄に固定的に配備されていますが、戦闘部隊は本土からローテーションで派遣されてきます。沖縄本島の北部訓練場は、米軍が保有する唯一のジャングル戦闘訓練場で、他ではできない訓練が行えるのです。訓練を終えた部隊は本土に戻るか、他の地域に派遣されます。アフガニスタン戦争やイラク戦争にも、沖縄で訓練を終えた海兵隊が派遣されました。またフィリピンにも頻繁に派遣されて、イスラム武装勢力に対する掃討作戦に参加しています。
沖縄に海兵隊がいるのは、訓練に便利で、中東や東南アジアの不安定地帯に近いからです。海兵隊がいなくなると、日本の安全が保てないという人がいます。しかし海兵隊はそもそも、日本や沖縄を守っているわけではありません。
7.普天間の部隊はグアムに移転する
日米両国政府は在日米軍再編の協議を続けてきました。2005年2月19日の協議では、日米が「共通の戦略目標」を持つことで合意しました。
同年10月29日の協議では、「日米同盟:未来のための変革と再編」を発表しました。この文書は米軍と自衛隊の「役割・任務・能力」を明確にするとともに、在日米軍の「兵力態勢の再編」にかかわる基本的な認識を示しました。
2006年5月1日の協議では、「再編実施のための日米のロードマップ」を発表しました。これが米軍基地と米軍部隊の再編計画の最終案となりました。
2007年5月1日の協議では、「同盟の変革:日米の安全保障及び防衛協力の進展」を発表しました。これまでの協議の最終合意です。
普天間基地の辺野古への移設に関する現行の案は、これらの在日米軍再編の協議で日米政府が合意したものです。しかしその内容は、合意文書によって少しずつ異なっているのです。
2005年2月19日の合意文書には、沖縄に関しては以下のように記載しています。
「閣僚は、日本の安全の基盤及び地域の安定の礎石としての日米同盟を強化するために行われる包括的な努力の一環として、在日米軍の兵力構成見直しに関する協議を強化することを決定した。この文脈で、双方は、沖縄を含む地元の負担を軽減しつつ在日米軍の抑止力を維持するとのコミットメントを確認した。閣僚は、事務当局に対して、これらの協議の結果について速やかに報告するよう指示した。」
「閣僚は、環境への適切な配慮を含む日米地位協定の運用改善や沖縄に関する特別行動委員会(SACO)最終報告の着実な実施が、在日米軍の安定的なプレゼンスにとって重要であることを強調した。」
次に2005年10月29日の「日米同盟:未来のための変革と再編」では、以下のように述べています。
「普天間飛行場移設の加速:〜双方は、航空、陸、後方支援及び司令部組織から成るこれらの能力を維持するためには、定期的な訓練、演習及び作戦においてこれらの組織が相互に連携し合うことが必要であり続けるということを認識した。このような理由から、双方は、普天間飛行場代替施設は、普天間飛行場に現在駐留する回転翼機が、日常的に活動をともにする他の組織の近くに位置するよう、沖縄県内に設けられなければならないと結論付けた。」 「双方は、キャンプ・シュワブの海岸線の区域とこれに近接する大浦湾の水域を結ぶL字型に普天間代替施設を設置する。」
「兵力削減:上記の太平洋地域における米海兵隊の能力再編に関連し、第3海兵機動展開部隊(VMEF)司令部はグアム及び他の場所に移転され、また、残りの在沖縄海兵隊部隊は再編されて海兵機動展開旅団(MEB)に縮小される。この沖縄における再編は、約7000名の海兵隊将校及び兵員、並びにその家族の沖縄外への移転を含む。これらの要員は、海兵隊航空団、戦務支援群及び第3海兵師団の一部を含む、海兵隊の能力(航空、陸、後方支援及び司令部)の各組織の部隊から移転される。」
さらに2006年5月1日の「再編実施のための日米のロードマップ」は次のように記載しています。
「日本及び米国は、普天間飛行場代替施設を、辺野古岬とこれに隣接する大浦湾と辺野古湾の水域を結ぶ形で設置し、V字型に配置される2本の滑走路はそれぞれ1600メートルの長さを有し、2つの100メートルのオーバーランを有する。」
「普天間飛行場代替施設の建設は、2014年までの完成が目標とされる。」
「約8000名の第3海兵機動展開部隊の要員と、その家族約9000名は、部隊の一体性を維持するような形で2014年までに沖縄からグアムに移転する。移転する部隊は、第3海兵機動展開部隊の指揮部隊、第3海兵師団司令部、第3海兵後方群(戦務支援群から改称)司令部、第1海兵航空団司令部及び第12海兵連隊司令部を含む。」
「沖縄に残る米海兵隊の兵力は、司令部、陸上、航空、戦闘支援及び基地支援能力といった海兵空地任務部隊の要素から構成される。」
「全体的なパッケージの中で、沖縄に関連する再編案は、相互に結びついている。特に、嘉手納以南の統合及び土地の返還は、第3海兵機動展開部隊要員及びその家族の沖縄からグアムへの移転完了に懸かっている。沖縄からグアムへの第3海兵機動展開部隊の移転は、(1)普天間飛行場代替施設の完成に向けた具体的な進展、(2)グアムにおける所要の施設及びインフラ整備のための日本の資金的貢献に懸かっている。」
3つの文書の違いが分ったでしょうか。整理すると以下のようになります。
●2005年2月19日の合意文書
@普天間基地の辺野古への移転は、SACO最終報告に基づいて実施
される。
A海兵隊の海外移転は想定していない。
※そのため辺野古の新基地は、普天間基地の代替施設として位置付けられています。
●2005年10月29日の「日米同盟:未来のための変革と再編」
@第3海兵機動展開部隊(VMEF)司令部をグアム及び他の場所
に移転する。残る在沖縄海兵隊部隊は海兵機動展開旅団(MEB) に縮小する。海外に移転する海兵隊員は約7,000人。
A沖縄に残留する部隊は、航空・陸・後方支援・司令部組織の能力を維持し、定期的な訓練・演習・作戦で相互の連携が必要である。
Bそのため普天間飛行場の代替施設は、普天間飛行場のヘリコプターが日常的に活動をともにする他の組織の近くに位置するよう、沖縄県内に設けられなければならない。
C普天間代替施設は、キャンプ・シュワブの海岸線の区域と大浦湾の水域を結ぶL字型に設置する。
※この時点では、海兵隊約7,000人が海外に移転するものの、それは司令部が中心であり、戦闘部隊の多くは沖縄に残ることになっています。普天間基地のヘリコプター部隊は戦闘部隊との連携が必要なため、代替施設はキャンプ・シュワブ沿岸に建設するというものです。
●2006年5月1日の「再編実施のための日米のロードマップ」
@第3海兵機動展開部隊の要員約8,000人は、部隊の一体性を維持するような形で2014年までに沖縄からグアムに移転する。沖縄に残る米海兵隊は、司令部・陸上・航空・戦闘支援・基地支援能力などになる。
A普天間飛行場代替施設を、辺野古岬と大浦湾から辺野古湾の水域を結ぶ形で設置し、V字型の2本の滑走路を配置する。
B嘉手納以南の土地返還、海兵隊のグアム移転、辺野古の新基地建設、グアム基地建設のための日本の財政支出はパッケージである。
※この時点で沖縄からグアムに移転する海兵隊は、司令部だけではなく、部隊の一体性を維持する形、つまり戦闘部隊の多くが含まれることになりました。
海兵隊の戦闘部隊にとって、ヘリコプターは切り離すことのできない移動手段です。戦闘訓練ではヘリコプターからの降下や、ヘリコプターへの乗り込みが頻繁に行われます。また戦闘部隊が海外に派遣される際にも、戦闘部隊とヘリコプターが同じ揚陸艦に乗り込みます。そのため、2005年10月29日の「日米同盟:未来のための変革と再編」に書かれてあるとおり、ヘリコプター部隊は、戦闘部隊の近くにいる必要があります。従って戦闘部隊がグアムに移転するのであれば、普天間基地のヘリコプター部隊も当然グアムに移転するのです。
1996年のSACO合意や2005年10月29日の合意は、沖縄に海兵隊の戦闘部隊が存在することを前提にして、普天間基地のヘリコプター部隊の機能を辺野古の新基地に移すという内容でした。
しかし2006年5月1日の合意では、普天間基地のヘリコプター部隊は他の部隊とともにグアムに移転します。それとは関係なしに辺野古に新しい基地を建設することにしたのです。普天間基地の代替施設は日本の資金提供でグアムに作り、さらに新しい基地を日本の予算で辺野古につくるというのが、2006年の日米合意の本質です。
8.グアム移転を明記した米国の発表
沖縄に駐留している海兵隊の戦闘部隊とヘリコプター部隊のグアム移転を、さらに詳しく裏付ける資料が米国側から発表されています。こうした資料は、普天間基地が所在する宜野湾市の調査によって明らかになりました。
2006年7月7日、米軍は「グアム統合軍事開発計画」を公表しました。この計画にはアンダーセン空軍基地内に最大67機のヘリコプター用の格納庫と、離着陸用のヘリパットを建設することなどが記載されています。また戦闘部隊やヘリコプター部隊が出撃する際に乗り込む揚陸艦の接岸施設を、アプラ海軍基地内に建設することにもなっています。
2007年7月に沖縄本島中部の市町村長がグアムを視察した際には、アンダーセン空軍基地の副司令官が、「65機から70機の海兵隊航空機がくることになっているが、機数については動いていて確定していない」と説明しています。グアム知事との懇談に際して提示された資料には、グアムに移転する部隊として、沖縄駐留の第31海兵遠征部隊・2,000人や、佐世保基地配備の揚陸艦が掲載されていました。
2008年9月15日発表の「国防総省グアム軍事計画報告書」には、普天間基地からグアムに移転する部隊として、岩国基地に移転予定の空中給油機部隊を除く、ほとんどの部隊が掲載されています。
2009年6月4日の上院軍事委員会の議事録には、海兵隊総司令官ジェームズ・コンウェル大将の、以下の証言が記載されています。
「この海兵隊移転は4年ごとの国防見直し(QDR)で、他の海外施設と同様に、調整の必要性やコストなど一連の課題が検討されます。普天間代替施設の質(クォリティー)やその他すべてについて、きちんと検討するので、この計画についてもQDRで勧告がでると思います。」
「検討に値する修正案はあります。計画の要のひとつ、普天間代替施設ですが、完全な能力を備えた代替施設であるべきなのですが、沖縄では得られそうも、ありません。グアムやその周辺の島々、その他アジア太平洋地域での訓練地確保は懸案事項です。ですので、海兵隊が納得し合意するまで検討し、必要なら日本政府と交渉しなければならない、いくつかの課題はあります。」
さらに、2009年11月に発表された「沖縄からグアム及び北マリアナ・テニアンへの海兵隊移転の環境影響評価/海外環境影響評価書ドラフト」によって、普天間基地のヘリコプター部隊がグアムに移転することが決定的に明らかになりました。
この文書は移転する海兵隊の人数を、これまでの約8,000人から約8,600人へと増大させるとともに、移転が予定される部隊として以下の4つをあげたのです。
○第3海兵遠征軍(MEF)の司令部要素(予定隊員数3,046人)
○第3海兵師団部隊の地上戦闘要素(GCE)(予定隊員数1,100人)
○第1海兵航空団と付随部隊の航空戦闘要素(ACE)(予定隊員数1,856人)
○第3海兵兵站グループ(MLG)の兵站戦闘要素(LCE)(予定隊員数2,550人)
また大規模な一時配備部隊として次の4つをあげています。
○歩兵大隊(800人)、迫撃砲大隊(150人)、航空部隊(250人)、
その他(800人)
米国側は、沖縄からグアムに移転する部隊の、具体的な部隊名まであげています。しかし日本政府はこうした事実を公表していないのです。
9.沖縄米軍の現状
日本に駐留する米軍兵士の総数は、2009年3月31日現在で51,794人です。そのうち24,017人が沖縄に駐留しています。また日本政府が米軍に提供している施設の数は85か所・面積は309Kuで、そのうち33か所・229Kuが沖縄にあります。沖縄の県土面積は日本全体の0.6%ですが、そこに米軍基地の75%が集中しているのです。
在沖縄米軍の中心は、海兵隊と空軍です。在日米海兵隊の総数は約16,000人ですが、約13,000人が沖縄に駐留しています。また在日米空軍の総数は約13,000人で、約7,000人が沖縄に駐留しています。
キャンプ・ハンセンでは海兵隊が行う射撃訓練や爆破訓練によって、頻繁に山火事が起きています。08年12月には、キャンプ・ハンセンから発射されたと思われる機関銃の銃弾が、基地そばの住宅に停めてあった乗用車のナンバープレートに撃ち込まれる事故が起きました。訓練中の装甲車が道を間違えて公共施設や学校に侵入する事件や、高速道路上での米軍車両の事故も頻発しています。
在沖縄米空軍は嘉手納基地に所属しています。基地にはF−15戦闘機・54機、KC−130空中給油機・15機をはじめ、約100機の航空機が配備されています。また山口県の海兵隊岩国基地、神奈川県の海軍厚木基地、在韓米空軍の烏山(オサン)基地や群山(クンサン)基地、米本土の基地などからも戦闘機が飛来して訓練を行っています。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がミサイル発射や核実験を行う際にも、米本土から電子偵察機・科学情報収集機・ミサイル監視機などの特殊任務機が飛来します。米軍機の訓練による騒音は、嘉手納基地周辺住民の生活を破壊しています。
米軍兵士や兵士家族による事件・事故も後を絶ちません。毎年のように殺人・強盗・性暴力・ひき逃げが起きています。08年2月には未成年の少女に対する性暴力事件が起きました。オバマ大統領来日直前の11月7日にも、米兵によるひき逃げ死亡事件が起きています。沖縄県民は、昼夜を問わぬ米軍機の騒音、訓練に伴う事故、性暴力や殺人という米軍被害の中で生活しているのです。
ではなぜ沖縄には、これほど多くの米軍基地があり、米軍兵士が駐留しているのでしょうか。
10. 沖縄戦と米軍支配
沖縄はアジア太平洋戦争に際して、日本国内で唯一の地上戦を強いられた地域です。戦争末期の1945年、米軍は3月26日に慶良間諸島へ、4月1日には沖縄本島への上陸作戦を開始しました。激戦の末に6月23日には日本軍の組織的な抵抗は終わり、沖縄は米軍の占領下に置かれることになりまた。
日本本土も空襲を受け、広島市や長崎市には原子爆弾が投下されて多くの民間人が亡くなりました。しかし米軍兵士が上陸して日本軍と戦い、住民が戦闘に巻き込まれて犠牲になったのは沖縄だけです。また沖縄の住民は日本軍からも守られることがありませんでした。日本軍は住民を軍に招集し、軍協力に徴用する一方で、多くの住民をスパイ容疑で処刑し、また集団死を強要しました。
沖縄戦での死者数は、米軍兵士約12,000人、日本軍兵士約65,000人に対して、沖縄県民は約120,000人です。その内訳は、現地召集された軍人・防衛隊・鉄血勤皇隊など約28,000人、住民の戦闘参加者約55,000人、一般住民約38,000人となっています。
1951年、日本は連合国との間でサンフランシスコ講和条約を締結し、独立を回復しました。しかしこの時に沖縄は日本から分断され、米国の信託統治下に置かれてしまったのです。その後、沖縄の米軍基地は強化されて、朝鮮戦争やベトナム戦争に際しては米軍の出撃拠点として、また後方支援基地として使用されました。沖縄は米軍のアジア支配に、必要不可欠な存在になっていったのです。
そうした中でも沖縄の人々は、日本本土と平和憲法への復帰を求めて、粘り強い運動を続けました。1961年には佐藤栄作首相とニクソン大統領が会談して、沖縄返還に関しての「佐藤・ニクソン共同声明」を発表しました。その内容は「核抜き・本土並み・72年返還」というものでした。71年には日米が返還協定に調印し、72年5月15日に沖縄の日本への復帰が実現しました。しかし「佐藤・ニクソン共同声明」には秘密合意議事録が存在し、実態は「核つき・基地自由使用返還」だったのです。そのために復帰後も多くの米軍基地が残り、沖縄の人々にとっては復帰前と変わらぬ日々が続くことになりました。
11.沖縄の米軍基地
本土の米軍基地の多くは、かつては旧日本軍の基地でした。そうした土地の現在の所有者は日本政府です。ところが沖縄の米軍基地は、米軍が占領期間中に、民間人の土地を力ずくで奪ったものです。そのため、現在でも土地の所有者は民間人なのです。沖縄に上陸した米軍は住民を収容所に追い込み、本土攻撃のための滑走路や基地を次々に作りました。普天間基地もこの時期に作られたものです。
1950年に朝鮮戦争が始まると、沖縄全土で新たな土地収用が始まりました。米軍は1952年に「布告第91号・契約権」を公布し、既に収用していた軍用地を強制使用できるようにしました。また1953年には「布告第109号・土地収用令」を公布して、地主が契約を拒否しても、米軍が収用宣言すれば土地を強制収用できるようにしました。米軍の土地収用は1955年のサンフランシスコ講和条約以降も続いたために、1956年には保守革新を問わずに住民が反対する「島ぐるみ闘争」が始まりました。沖縄の人々にとって米軍基地は、先祖伝来の土地を米軍の「銃剣とブルドーザー」で奪われたものなのです。
1972年5月15日には沖縄の本土復帰が実現しました。本土復帰によって、米軍が住民の土地を強制使用する法的根拠がなくなってしまいました。そこで日本政府は地主と賃貸契約を結んで、土地を米軍に提供しようとしたのです。しかし地主の中で米軍への土地提供に反対する人々は、「反戦地主会」を結成して契約を拒否しました。
そのために日本政府は「公用地暫定使用法」を制定し、復帰前に米軍用地として使用されていた土地は、地主の同意がなくても復帰後5年間は継続使用できることにしてしまいました。「公用地暫定使用法」の期限切れとなる1977年に、日本政府は新たに「地籍明確化法」を制定しました。この法律は、地籍・土地の境界が不明な土地で、位置・境界が確定するまでの間は、米軍・自衛隊に提供する必要のある土地は、国は使用を継続できるという内容でした。また補則で「公用地暫定使用法」の強制使用期間を5年から10年に改めることになりました。その後の1982年と1987年の2回に渡って「米軍用地特別措置法」を適用して、強制使用期限を延長してきました。
1996年、読谷村にある米軍楚辺通信所の一角が、「米軍用地特別措置法」による収用期限切れになりました。地主の知花昌一さんは契約延長を拒否、そのため日本政府と米軍は、知花さんの土地を不法占拠することになりました。1997年には、強制使用していた土地が一斉に使用期限切れを迎えることになっていました。しかし前年の少女暴行事件以来、県民の基地に対する反発は高まり、多くの地主の契約更新拒否が想定されました。そこで政府は「米軍用地特別措置法」を改定して、地主の同意なしに土地の強制使用を可能にしたのです。
「普天間代替施設なしでは、グアムへの移転はない。グアムへの移転なしでは、沖縄において基地の統合と土地の返還もない」。2009年10月20日に来日したゲーツ国防長官は、記者会見で発言しました。沖縄の米軍基地は、米軍が力ずくで奪ったものであり、本来は無条件で返還されるべきものです。しかし米国は、そうした沖縄の歴史をまったく考慮していないのです。
12.鳩山内閣と沖縄
鳩山政権の発足に際して民主党・社民党・国民新党は、「三党連立政権合意書」を締結しました。この中には在日米軍問題について、「日米協力の推進によって未来志向の関係を築くことで、より強固な相互の信頼を醸成しつつ、沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」と書いてあります。また鳩山首相は所信表明演説の中で、「沖縄の方々が背負ってこられた負担、苦しみや悲しみに十分に思いをいたし、地元の皆さまの思いをしっかりと受け止めながら、真剣に取り組んでまいります」と述べました。
日本政府が「辺野古移設見直し」を打ち出した事に、米国政府は強く反発しました。ゲーツ国防長官は2009年10月21日の記者会見で、「普天間代替施設は、ロードマップの要。普天間代替施設なしでは、グアムへの移転はない。グアムへの移転なしでは、沖縄において、基地の統合と土地の返還もない」と発言、11月13日に来日したオバマ大統領も、辺野古移設を前提にした早期の決着を求めました。米国政府の圧力を受け、日本政府内の見解は混乱しました。鳩山首相は計画見直しを表明したものの、北澤防衛大臣は辺野古移設を容認し、岡田外務大臣は嘉手納基地への機能統合を含めた県内移設を提起したのです。そうした中で日米政府はワーキング・グループを設置し、第1回会合では年内に結論を出すことで一致、議論の焦点は辺野古移設を前提にした新たな補償措置に移っていきました。
ところが12月2日、年内結論という流れが大きく変わりました。平野博文官房長官は記者会見で「三党連立で議論せずに、年内うんぬんとはならない」と発言、北澤防衛大臣も「三党連立内閣を壊して政局が混乱することが日本にとっていいのか。この解決が年を越して、日米間が極めて不穏な空気になることはないと思う」と語り、鳩山首相も記者団に対して「社民党さんと本当の意味で私から十分に打ち合わせをしている段階ではない。連立政権であることは大事にしていきたい」と述べました。12月15日には与党3党が正式に、移設先の見直し協議を開始することで合意しました。
13.普天間基地を撤去するために
これまで見てきたとおり、沖縄はアジア太平洋戦争で、唯一の地上戦を強いられた地域です。サンフランシスコ講和条約締結に際しては日本本土から切り捨てられて、米国の支配下に置かれました。本土復帰後も、米軍基地の75%が集中しています。その沖縄が、米国から新しい基地の建設を強要されるいわれはありません。
現在に至るまで沖縄が米軍の重圧に苦しんでいる原因は、日本政府が締結した日米安保条約に基づいて米軍が駐留しているからです。日本政府には、沖縄の米軍問題を早急に解決する義務があります。
普天間基地の辺野古移設に合意したのは、ブッシュ米大統領と小泉純一郎首相でした。ブッシュ大統領は世界各地で「テロとの戦い」を進め、小泉首相はブッシュ大統領に追従して「戦争する国づくり」を進めました。しかしブッシュ大統領も小泉総理も、両国の市民から「NO!!」の審判を受けました。米国ではオバマ大統領が誕生し、戦争政策から多国間協調へと転換を行っています。日本でも初めて選挙による政権交代が実現しました。両国の市民が否定した古い時代の約束事に、新しい政府が囚われる理由はありません。
鳩山内閣が米国に対して、辺野古新基地建設の中止を求めるには、さまざまな困難が待ち受けています。日米安保締結から50年以上が経過する中で、国内には米国の影響下にある官民の組織が多数存在しています。外務省や防衛省によるサボタージュや、マスメディアを使っての米軍基地必要論などのキャンペーンも行われています。
近現代を通して、米国は海外基地を拡大してきました。しかし基地を押し付けられた国の人々は、自国政府や米軍の弾圧を受けながらも、基地撤去を訴え続けてきました。そうした闘いによって、スペイン、ギリシャ、フィリピン、エクアドルをはじめとした世界各地で、米軍基地は閉鎖や縮小を余儀なくされました。
沖縄の米軍基地をなくすために、私たちに何ができるのかが問われています。
(おわり)
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