半田滋さん(東京新聞・編集委員)の講演
テーマ:普天間基地の移設問題について
●日時 2009年12月15日
●場所 国会・参議院議員会館第1会議室講師
(はじめに)
平和フォーラムは2009年12月15日に国会内で、普天間基地の辺野古への移設問題に関して、中央団体・都道府県運動組織の責任者による会議を行いました。会議では、東京新聞編集委員の半田滋さんを講師にお迎えして、この問題に関する現在の状況をうかがいました。以下は半田さんの講演をテープから起こしたものです。半田さんの校正は受けていません。文責は平和フォーラムにあります。
今日の東京新聞の夕刊には、「普天間問題について3党検討で決着は越年」と書いています。旧政権下で決めた普天間基地のキャンプ・シュワブ沖合への移転は、もう一回考え直すという内容です。その一方で、普天間移設やグアム移設などの米軍再編関連経費は、来年度予算に計上することになりました。また辺野古沖に移設する前提での環境アセスメントも継続します。そうした内容が今日の夕刊の1面です。また社会面には沖縄の地元の声が出ています。これは後で紹介します。
最初に「沖縄の基地問題とは何か」というところから話を始めます。沖縄にある基地の中で、米国にとって最も重要なものは空軍の嘉手納基地です。嘉手納基地は3500メートルの滑走路を保有しています。これは、大型爆撃機が爆弾を満載しても、十分に離陸できる長さです。嘉手納基地は、戦争中に旧日本陸軍が作った北飛行場が元になっています。民間機が使用している那覇空港は、同じく旧日本軍の中飛行場です。両方ともに旧日本軍が自分たちの運用上の理由から、西側の海岸に、住宅地から離して作ったものです。
他方普天間基地は、沖縄戦中に、上陸した米軍が日本軍を南部に追い詰めていく過程で、いまの宜野湾市の集落の中央に、住民を追い立てて作ったものです。普天間基地は宜野湾市のど真ん中にありますが、もともと住民が住んでいるところを追い出して作ったのですから、あたりまえですね。ですから戦争が終わったら住民が戻ってきました。その結果として普天間基地の周辺には、9万人の宜野湾市民が住んでいます。また小中学校や病院などの公共施設が120か所もあります。こうした危険極まりない飛行場があるのは、米軍が戦争のために作ってその後も返還しないからです。
米国にとって重要なのは嘉手納基地です。そのことがよくわかる文書があります。沖縄返還の前年の1971年に当時の防衛庁の官僚の久保さんという人と、駐留米軍指揮官のカーティスという人が、「久保―カーティス協定」を結んでいます。そこでは、返還後に沖縄に駐留する自衛隊の姿を定めています。内容は、陸上自衛隊3300人が沖縄に入るものです。また、嘉手納基地を守るために地対空ミサイルホークの部隊を4つ、ナイキミサイルの部隊を4つ配備することになりました。これは米軍から、陸上自衛隊の高射隊と、航空自衛隊の高射群に引き渡されて配備されたのもです。米軍からの「居抜き」で、自衛隊が嘉手納基地を守っているのです。「久保―カーティス協定」では、沖縄返返還後の73年7月1日までに米軍部隊を自衛隊にバトンタッチすることになっています。それが現在に至っています。航空自衛隊のナイキ部隊は、その後はパトリオット部隊に変更になりました。将来的には那覇にもミサイル防衛用のFPS-5というレーダーが配備されます。嘉手納は虎の子なのです。
次に海兵隊とは何かについて説明します。米軍には、陸軍・空軍・海軍・海兵隊の4軍があります。総兵力は150万人です。このうち海兵隊はわずかに17万5000人です。さらに米本土西海岸側にある第1海兵遠征軍と、米本土東海岸の第2海兵遠征軍を合わせて約15万人です。一方、沖縄にいる第3海兵遠征軍の定数は1万8000人です。沖縄県基地対策課のホームページを見ると、昨年9月の段階で沖縄に駐留している海兵隊員は1万2000人です。第1・第2が7万人以上いるのに対して、第3海兵遠征軍は1万2000人です。1万2000人では、戦争をすることはできません。骨組みだけです。沖縄にはキャンプ・ハンセンに第12砲兵連隊が、キャンプ・シュワブに第4連隊が配備されています。米国軍の編成では連隊には数千人ですが、沖縄に配備されている連隊は実体としては1個大隊規模です。基地に配備されている人数は、キャンプ・ハンセンには3000人、キャンプ・ハンセンには5000人いますが、これには他の地上部隊が含まれています。この中には第31海兵遠征隊(31MEU)など2000人がいます。31MEUは、湾岸戦争やイラク戦争に際して、佐世保基地に停泊する強襲揚陸艦に乗り込んで出撃しています。沖縄にある海兵隊の実働部隊は、31MEUだけです。わずかに2000人です。普天間基地には中型ヘリコプターCH−46の部隊が配備されています。この部隊は、31MEUや歩兵部隊を運ぶことが任務です。ヘリコプターは約50機駐留しています。
嘉手納基地は非常に立派な滑走路を持っています。F−15戦闘機約50機をはじめ、AWACS、空中給油機、輸送機など、本格的に闘うための空軍のパッケージができています。一方、沖縄の海兵隊は、普天間基地のヘリコプター部隊を含めて、非常に小さな勢力です。この部隊は本当に日本を守っているのでしょうか。よく言われるように台湾有事や朝鮮半島有事に際して、沖縄から部隊がでていくのでしょうか。そうではありません。沖縄に海兵隊がいるのには、別の意味があるのです。それが沖縄の海兵隊の特徴です。
海兵隊にとって重要なものは、沖縄本島北部にある北部訓練場です。海兵隊にとって世界で唯一のジャングル戦闘訓練場なのです。キャンプ・シュワブとキャンプ・ハンセンにいる海兵隊の部隊は、半年のローテーションで米本土の部隊から派遣されてきます。ローテーションで来て、北部のジャングル戦闘訓練場で訓練を受けて、また帰って行くのです。海兵隊は、沖縄から出撃するわけではなく、貴重な演習場である北部訓練場で訓練をするために来ているのではないでしょうか。
普天間基地の返還の経緯について説明します。普天間基地の返還の目的は、沖縄の負担軽減にあるのではありません。日米のあるいは本土と沖縄の利権争いの結果なのです。
1995年に沖縄では少女暴行事件が起きました。海兵隊を含む3人の米兵が小学6年生の少女を暴行したのです。これによって世論に火がつき、基地が集中する沖縄の問題を何とかしようということになり、日米政府は日米特別行動委員会(SACO)を設置しました。このSACOで米軍施設11の返還が決まりました。その目玉が普天間基地の移設条件付きの返還だったのです。移設先としては、沖縄本島東海岸沖の海上基地建設でした。この時に決まっていたのは、「撤去可能な施設」でした。
最初の案は「ポンツーン式」の施設です。これは海上に鉄の箱を浮かべて基地にするものです。この当時、通産省の中では「超大型浮体総合システム研究会」ができていました。造船メーカーや鉄鋼メーカー17社が一緒になって、海上飛行場建設を研究していたのです。実際に横須賀沖に1000メートルの滑走路を造って、小型飛行機の離発着を行っていました。「超大型浮体総合システム研究会」には米国防省で日本部長に就任していたジム・ジェームズアワーや、ロビン・サコタが入っていました。米国政府の元高官たちが「ポンツーン式」が有力として、沖縄での利権を狙っていたのです。
これに対して「くい打ち式」を主張するグループが出てきました。「沖縄海洋空間利用技術研究会」です。こちらは商社の日商岩井を幹事に19社を取りまとめていました。鉄の箱か鉄の杭ですから、技術は変わりません。造船と鉄鋼メーカーです。実際、「くい打ち式」の19社のうち、17社は「ポンツーン式」とダブっているのです。「くい打ち式」には日商岩井と、PAC3を製造しているレイセオン社が入って19社なのです。またこちらにも国防総省日本部長のトーケル・パターソンが入っていました。
本土の大手企業が基地移設で儲けようという流れに対して、沖縄側の業者が巻き返しを図りました。沖縄のゼネコンは、自分たちが受注できる方式を考えていました。その代表は沖縄最大のゼネコン・國場組です。國場組が世界最大のゼネコンである米国のベクテル社と手を組んで、埋め立て方式で滑走路を造る計画を提案します。その後に知事になる稲嶺氏もこれに乗ります。埋め立て方式で2400メートルの滑走路を持つ本格的な飛行場を建設し、普天間基地を移設するというものです。稲嶺さんは公約として、基地の使用期限を15年に限定しました。
「撤去可能な施設」と「埋め立て式」が対抗して、最終的には2002年7月の日本政府と沖縄の協議で、「埋め立て式」が決まりました。誰が仕事を取るのかで、基地の建設方式が決まったのです。
2004年4月から、「埋め立て式」での工事が始まりました。しかし反対派の住民の抵抗で、頓挫しました。この年の8月には、イラクに派遣するために、岩国基地から普天間基地に来ていたCH−53大型ヘリコプターが墜落します。そこで普天間基地の危険性が再び認識されました。
当時は小泉政権です。小泉首相は経世会を潰すのが夢です。橋本内閣で決めたことなど、ひっくり返しても構わないということで、米軍再編議論の中に普天間基地問題の解決を入れました。当時の防衛事務次官の守屋武昌が出てきて、最終的にはキャンプ・シュワブ沿岸のV字滑走路案になります。
防衛省は海に作ると物理的な抵抗にあって作れないことを学習していました。ですからキャンプ・シュワブの演習場に作ることにしたのです。キャンプ・シュワブの山側には射撃場があります。そこに作れば反対派の住民は入って来ることができません。他方、米軍側は「埋め立て式」よりもさらに沖合での建設を主張しました。なぜ沖合を主張したかというと、ベトナム戦争当時に、キャンプ・シュワブを充実した基地にする米軍独自の計画があったのです。それは沖合に滑走路を造ることでキャンプ・シュワブの部隊が自由に動くことができる。また港を作ることで、佐世保の強襲揚陸艦が入ってきやすくする。そうした計画があったのです。しかしベトナム戦争当時は戦費がかさみ、基地建設の充実はできませんでした。結局、日本側の陸案と米軍側の沖合案が議論の中で歩み寄って、沿岸案になったのです。
現在の案はV字滑走路です。これは、最初はL字の埋め立てでした。V字の理由は、周辺にある宜野座村や東村の上空を航空機が飛ばないようにするためです。着陸経路と離陸経路を変える必要があったのです。しかしパイロットの話では、15度くらいの開きでは、風などを受けると両方とも同じだそうです。V字に開く意味はない。むしろV字にして面積を広げて、建設費を増やす。お金を落とすための仕組みなのでしょう。
本日(12月15日)の段階では、仲井真県知事も島袋名護市長も、日米合意よりも沖合への移動を主張しています。基地の県内移設は反対だが、やむを得ないのであれば騒音防止のために沖合に出してくれということです。しかしこの希望を真に受ける人はいません。ヘリコプターを辺野古の沖合に飛ばして、現在の予定地上空の騒音と、50メートル沖合での騒音を比べると、騒音は同じなのです。現在のV字案で施設を造ると、大浦湾を埋め立てることになります。その埋め立てる部分が非常に深いのです。そのために工事が難しい。埋め立てにはケーソンという鉄の箱を沈めることになります。これは沖縄のゼネコンにはできないのです。東京のゼネコンやマリコンでなければ無理です。しかし50メートル沖合に出せば、そこは遠浅に海です。ここであれば沖縄のゼネコンでも受注できるのです。
宜野湾市の伊波洋一市長がたびたび上京して、米国の計画を基に普天間基地のグアムへの移転を主張しています。2006年5月に日米はロードマップで合意しました。この年の7月にハワイにある米太平洋軍司令部が、ここは在日米軍全体の指揮もとりますが、そのホームページの中に「グアム軍事統合開発計画」というプランを発表したのです。
もともと米国は、グアム島に空軍と海軍の大規模な基地を建設する計画がありました。現在でもグアム島の北部にはアンダーセン空軍基地があります。ベトナム戦争中には、B−52爆撃機が出撃した基地です。3000メートル以上の滑走路を持つ本格的な基地です。この基地に、ステルス性の高いB−2戦略爆撃機や、F−22戦闘機、無人偵察機のプレデタ―を配備して、一大空軍基地にする計画があるのです。
島の南西部にはアプラ海軍基地があります。常時3隻の原子力潜水艦が配備されています。ここを拡充して、より多くの原子力潜水艦を置く、また空母が寄港できる海軍基地にする計画もあります。
アンダーセン空軍基地とアプラ海軍基地を充実させることを含めたものが、「グアム軍事統合開発計画」です。その計画の中に、海兵隊の移転が含まれているのです。海兵隊9700人、家族8550人が移転すると書かれています。ロードマップに出てきた海兵隊8000人、家族9000人の移転に近い数字です。さらに移転する部隊として、「ACE・航空戦闘要素」と書き込まれています。これは普天間の部隊を指しています。米国は海兵隊をグアムに移転する計画を持っている。そこには普天間基地の部隊も含まれている。それでは新基地建設はせずに、全部グアムに持って行ってもらおうというのが、伊波さんの主張です。
ロードマップには、第1航海兵空団司令部、これは普天間の部隊の司令部で、キャンプ・バトラーの中にありますが、この司令部は移転すると書かれています。また陸上部隊の司令部も移転と書かれています。しかし伊波さんは加えて、キャンプ・ハンセンとキャンプ・シュワブにいる実働部隊も移転すると言っています。一方、防衛省の説明は、ロードマップに書かれているのは、司令部の移転だというのです。
先週、沖縄等米軍基地問題議員懇談会が開かれました。伊波さんその場で、「グアム軍事統合開発計画」からさらに踏み込んで移転する具体的な部隊名も記載した米国の資料に、「中型ヘリコプター部隊が移転すると書いてある」と主張しました。中型ヘリコプター部隊は、普天間基地に配備されている部隊です。この部隊が移転すると書かれているのです。これをもとに、米国には普天間基地をグアムに移転する計画があったと主張しました。
これに対して防衛省側は、米軍に確認したがこれは岩国基地のヘリコプター部隊の移転だと主張しました。伊波さんは「岩国基地には中型ヘリコプター部隊はいない」といって、水掛け論になりました。見ていておもしろかったです。結論はわかりません。米国側が書き間違えたのかもしれません。
民主党、鳩山政権の中では、どのような動きがあるのでしょうか。私は毎日、防衛省で北澤大臣の話を聞いています。彼は普天間問題については、ぶれていません。9月16日に組閣があって、その時の会見から、「普天間については現実的な対応をする」、言葉を変えれば旧政権が合意した辺野古案でやってきたいということをずっと言っています。
一方で岡田外務大臣は、一度は嘉手納統合案を出しました。これは米国側からルース駐日大使、ライス在日米軍司令官とあって、米国側から「ダメ」と言われました。正確なことはわかりませんが、日本有事の際に嘉手納基地には、米本土から約80機が増派される、普天間基地には300機のヘリコプターが増派される――という計画があるようです。今現在、嘉手納基地に配備されている航空機は80機から100機、普天間基地は50機です。有事には嘉手納は2倍、普天間は7倍にあるのです。有事の混み合いを考えれば、2つの基地が必要だというのが米国の考えです。岡田さんはそれを聞いて、嘉手納行動案を言わなくなりました。
11月27日に、仲井真知事が上京して、鳩山首相と密室で話し合いました。翌週には正式に会いました。この時の中身は仲井真知事への取材によると、12月15日までに態度表明する、その中身は辺野古沖――ということでした。15日は今日ですね。実際にはそうなりませんでした。社民党の福島さんが重大な決意を表明し、その結果として本日、3党は越年を決めたのです。
それでは他の選択肢はあるのでしょうか。他の選択肢は、SACOの時にも検討されました。米軍再編の議論が始まった最初にも検討されました。防衛省と米軍とが、さまざまな場所を検討した実績があるのです。ひとつは北海道の苫東です。これは航空自衛隊の千歳基地の滑走路を使用して、ヘリコプターを運用する計画でした。燃料や物資の輸送には苫小牧港を使います。しかし米国側から、「遠すぎる」ということで実現しませんでした。
次に九州でさまざまな提案が行われました。一つは福岡の築城基地です。ここにも航空自衛隊がいます。ところが港がありません。普天間基地は滑走路だけではなく、戦後半世紀にかけて営々と作り上げてきた基地ですから、ホワイトビーチからのパイプラインが引いてあって、燃料を陸揚げするとパイプラインを通して基地へ送られます。補給機能が充実しているのです。また兵士の家族が生活しやすいように、家・学校・教会など、生活のインフラ整備ができているのです。
米軍再編の中で、普天間基地のKC−130空中給油機を、鹿児島県の鹿屋基地に置く検討が行われました。しかし米軍は「鹿屋は田舎だ」ということで断ったのです。そこで岩国基地に移転することになりました。
普天間の移設先の条件は、滑走路があること、十分な補給施設があること、兵士や家族が満足できるインフラが整備されていること――です。北海道の矢臼別演習場も候補に上がったことがありますが、「こんな原野に行けというのか」ということで消えています。県外移設は色々検討されましたが、米国の不満があってうまくいかなかったのです。
結論先送りの結果、沖縄の人たちはどのような反応をしめしているのでしょうか。先ほど紹介した東京新聞の夕刊から紹介します。
「移設問題で市は二分されてきた。振り出しに戻る気がする」。
「どれだけ声をあげても米国は動かない。政府が結論を出せないのは仕方ない」。
また防衛省の幹部は「辺野古沖の移設案は消えたに等しい。過去に県外も検討したが頓挫した。国外は論外だ。普天間返還は困難になった」といっています。
政治的にみれば、辺野古案はもう一度出てきても、もうだめなのではないでしょうか。1月には名護市長選挙があります。いま島袋市長は、沖合に出してくれるなら移転もやむなしと考えています。一方で対抗馬の稲嶺さんは県外移設です。来年には島袋市長さんも、県外移転になるかもしれません。仲井真知事も条件付きで辺野古を飲み込みそうですが、来年には11月に知事選挙です。選挙情勢を読んで、辺野古反対と言うかもしれません。わずかに残っている沖縄県内での辺野古受け入れの声が、ゼロになるかもしれないのです。社民党も、よほどのことがない限り方針をかえないでしょう。ですから辺野古沖が決まる可能性はかなり低いのです。
また万一辺野古が決まっても、うまくいく保証はありません。今月の中央公論に、守屋前次官のインタビューが掲載されています。埋め立て工事が挫折した時のことを語っています。彼は海上保安庁に出動要請して、やぐらにしがみついている反対派住民を撤去しようとしたようです。しかし海上保安庁から、「あの海は深いので危険」といわれて、やめたのです。今度の案は、以前の場所よりさらに深い海です。事故が起きれば水死者がでます。強引に押し通して、一人でも事故が起きれば、工事は終わってしまうでしょう。いま防衛省の人たちは「辺野古はだめ」と語っています。政策的に死んでいる案を、生き返らせることはできないのではないでしょうか。
ではどうしたらいいのでしょうか。僕の考えは、伊波さんとは少し異なります。米国の計画でグアム島に、1個海兵師団が移転できるだけの施設が作られることは間違いありません。沖縄の部隊が移転できる規模の施設ができることは間違いないのです。
ですから、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、普天間基地の部隊を、まとめてグアムに移転するように新たに協議を行うのです。沖縄から海兵隊の司令部が移転することは決まっています。残るのは部隊だけ。これでは運営もやりづらいでしょう。
神奈川のキャンプ座間では、米陸軍第1軍団司令部が移転することになっていましたが、来なくなりました。第1軍団は2万人以上の兵力を持っていますが、部隊と司令部が離れていては運用しにくいからです。それを考えても、部隊と司令部が離れているのは軍隊に取って致命的です。
グアムに移転する場合でも、北部訓練場を使いたいのであれば使わせる。05年の中間報告には、高速輸送艦の建造を日本側が行うと書かれています。いま海兵隊は輸送に、佐世保の揚陸艦を使用しています。しかしこれでは足が遅い。そこでいま米国は高速艇をオーストラリアからレンタルして、那覇軍港に置いてあります。何隻もレンタルしていますが足りないのです。海兵隊はあと3隻は必要だと言っています。これを海上自衛隊が作って、グアムの海兵隊を乗せて北部訓練場に輸送する。キャンプ・シュワブとキャンプ・ハンセンは、空き家にしておく。そうした時期が長く続けば、やがて返還されるでしょう。海兵隊が実働部隊を含めてグアムに移転し、海上自衛隊が足を提供すれば、海兵隊の基地はやがては閉鎖されます。そうした新たなプランもあるのです。
ただこの場合は、普天間はそのままになってしまいます。その上で部隊の訓練を他の地域に移転するなど、早く考えていく。最終的にはグアムのアンダーセン基地に移転してもらうのです。
私の話は以上です。
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