横田基地公害訴訟と環境安全保障
林公則 (日本学術振興会特別研究員PD)
1.はじめに
冷戦終結後、世界の軍事費は1996年までに3割以上削減されたが、それ以降再び増加している。とくに「9・11」以降の米国の軍拡はすさまじく、冷戦終結後も軍縮は実現しなかった。第二次世界大戦後、核戦争が起こっていないことからだけみれば、抑止政策による「平和」の実現が評価されうる。このような観点に立つならば、「平和」を実現しうる軍拡を真正面から批判するのは難しい。しかし、地球環境の保全という側面から軍事活動を検討すると、「平和」であっても軍縮が必要な理由が浮かび上がってくる。
軍事活動は、さまざまな地域で深刻な汚染、自然破壊、アメニティ破壊を引き起こしている。また、資源の浪費を通じて地球に考えられないほどの負荷をかけている。地球全体を破壊しかねない原子爆弾をはじめとする兵器がつくり出された現代において、軍事環境問題を放置しつづけることは、地球環境保全のためにも許されない。
軍事環境問題がもっとも激しく現れるのは戦場においてであり、軍事環境問題による深刻な被害が一般にも注目されるにいたる。だが、軍用機騒音をはじめとする軍事環境問題は軍事基地周辺で平時にも生じており、深刻な被害を引き起こしている。平時の軍事環境問題は、1)深刻な被害が日常的に生じる点で、2)基地周辺住民が主な被害者となる点で、戦時の軍事環境問題と性格を異にする。平時の軍事環境問題に固有の性格を考慮すると、軍事活動による国家安全保障政策の問題点が浮き彫りになる。平時の軍事環境問題の被害者は、軍事活動による国家安全保障政策によって守られるとされている基地周辺住民である。このことは、多額の費用を割き、無制限に巨大化・高度化していく軍事活動による国家安全保障政策への強力な批判になりうる。
以上を考慮すると、軍縮を通じての軍事環境問題の改善を目指すには、平時の軍事環境問題にどう取り組んでいくかがきわめて重要となることがわかる。具体的な取り組みとして、本報告では、横田基地公害訴訟を取り上げた。厚木、小松、嘉手納、普天間に先駆けて訴訟が提訴された横田基地に焦点をあて、横田基地公害訴訟が平時の軍事環境問題の改善に果たしてきた役割を見ることを通じて、環境保全の観点から軍事活動を平時に問い直すことの意味を明らかにする。
2.横田基地公害訴訟
2−1.概要と特殊性
横田基地は、新宿副都心から西へ約30キロメートルの場所にある米軍基地で、福生市、昭島市、羽村市、立川市、武蔵村山市、瑞穂町の5市1町にまたがっている。横田基地が朝鮮戦争、ベトナム戦争で戦闘機の出撃基地となるなどしたため、1950年以降、周辺住民は深刻な騒音被害を受け続けてきた。1971年から2005年までの昭島市役所付近の騒音データをまとめたものが表1である。ベトナム戦争時の激烈な騒音に目が向くが、訴訟判決で受忍限度をこえるとされている騒音が2005年も続いている。東京防衛施設局の情報を基に推計すると、騒音被害軽減後の2005年10月20日に告示された新コンター(等音線)においてさえ、75W以上の地域に居住する者は約5万人にものぼる。
表1.横田基地における軍用機騒音回数の変化(1971年〜2005年)
年 |
総回数 |
22〜6時の回数 |
土日回数 |
90dB以上の回数 |
W値 |
出来事 |
1971 |
32019 |
n.a. |
n.a. |
22841 |
n.a. |
ベトナム戦争中。 |
1976 |
13690 |
871 |
1810 |
3925 |
n.a. |
旧訴訟提訴。 |
1980 |
13586 |
515 |
2111 |
4882 |
n.a. |
|
1985 |
11843 |
110 |
1989 |
3537 |
n.a. |
|
1990 |
12085 |
204 |
1696 |
3245 |
85 |
|
1995 |
11100 |
69 |
1208 |
2036 |
80 |
94年、旧訴訟確定。96年、新訴訟提訴。 |
2000 |
8470 |
13 |
828 |
850 |
80 |
02年、対米訴訟最高裁判決。 |
2005 |
6864 |
51 |
671 |
453 |
76 |
新訴訟高裁判決。07年最高裁判決。 |
出所)昭島市『横田基地航空機騒音調査結果』各年版より作成。
注)表中のWとは、WECPNL(Weighted Equivalent Continuous Perceived Noise Level:加重等価継続感覚騒音レベル)の略である。WECPNLとは、日本の環境基準に採用された航空機騒音の指数であり、航空機の騒音レベルに加え、観測された一日当りの騒音回数に発生時間帯別による重みづけを加味したものである。「うるささ指数」とも呼ばれる。横田基地公害訴訟では、75W以上の地域で受忍限度をこえる被害が認定されている。
滑走路の延長線上に位置する瑞穂町や昭島市では、1950年当時から騒音軽減に対する議会決議や国への要請を行ってきた。しかし、横田基地周辺において軍用機騒音に本格的に反対する運動が起こったのは、1973年8月に騒音被害によって集団移転した跡地に自動着陸誘導装置が設置され、基地拡張が行われようとしたときである。しかし、当時は米軍基地あるいは関連会社で働いている住民が多く、運動の強化は困難をきわめた。また、米軍には何を言っても無駄だという雰囲気が強かった。
このような中、大きな影響を与えたのが、1972年9月に美濃部都知事が提訴した横田基地内都有地返還訴訟であり、1975年11月の大阪空港高裁判決であった。前者は、基地の騒音が都民を苦しめていることを理由に、横田基地滑走路下を東西に横切る都水道用地を都が返還要求したものであり、米軍を被告にした訴訟を周辺住民が提訴するアレルギーを緩和する役割をもった。後者は、対民間空港であったものの騒音による被害をなくすための訴訟で、損害賠償と差止めとが認められたことにより、被害救済という視点から訴訟が必要であるという意識を高める役割をもった。
横田基地公害訴訟がそれまでの基地反対裁判闘争(砂川事件、恵庭事件、長沼ナイキ事件)と決定的に異なっていたのは、イデオロギーではなく、実際の被害を基礎にした訴訟を提訴したことである。換言すれば、憲法九条から安保条約や行政協定、自衛隊法を判断するのではなく、実際の被害からそれらの正当性を問うたのである。実際の被害から現在の法制度のあり方を問い直すという方法は、大阪空港訴訟や水俣病訴訟をはじめとする公害訴訟の典型的な方法であった。その意味で、横田基地公害訴訟は、軍事という高度に政治的な面をもつとはいえ、典型的な公害訴訟であったといえる。それと同時に、高度の公共性をもつとされていたがゆえに高度の受忍限度が無条件に認められていた軍事活動に対して、環境の観点から初めて異議を唱えた点で、横田基地公害訴訟は画期的な意味をもっており、多くの重要な成果をあげてきている。
2−2.成果
横田基地公害訴訟の成果としては、1)軍事環境問題による被害の実態を多くの人々に明らかにしたこと、2)日米両政府の責任を明らかにしたこと、3)軍事活動に一定の規制をかけるとともに、被害救済を実現したこと、の大きく分けて三つがあげられる。
1976年4月に提訴された旧横田基地公害訴訟(旧訴訟)では、訴訟の弁論を通じて、被害の実態が明らかにされていった。判決で認められた騒音被害は、睡眠妨害、心理的、情緒的被害(気分がいらいらする、不愉快である)、軟調、耳鳴り、頭痛、肩こり、めまい、胃腸障害、高血圧、動悸、ホルモン系への影響、日常生活の妨害(会話妨害、電話の聴取妨害、思考の中断や読書妨害等)であり、多岐にわたる人権侵害が明らかにされた。1996年4月に提訴された新横田基地公害訴訟(新訴訟)では、約6000名の原告が被害を訴え、日米両政府を動かす大きな要因となった。
横田基地公害訴訟の第二の成果は、日米両政府の責任を明らかにしたことである。横田基地公害訴訟では、受忍限度を超えた騒音被害が生じているとして、新旧をあわせてこれまで8回もその違法性が認められている。
横田基地公害訴訟の第三の成果として、軍事活動に一定の規制をかけるとともに、被害救済を実現したことがあげられる。いずれの判決でも住民の悲願である夜間早朝飛行差止めは認められなかったものの、訴訟の影響を受けて日米両政府は軍用機の飛行回数を減少させざるをえなかった。被害救済に関しても、いずれの判決でも過去分の被害賠償が認められたこと、旧訴訟地裁判決以降、賠償額が徐々に増額されていったことなどから、一定の成果があった。ただしこの点に関して言えば、将来分の被害賠償が認められず、また恒久的な被害救済制度が確立されていないなど、重大な問題も残っている。
3.環境安全保障
多発する自然災害、生態系の崩壊、自然資源の枯渇は人間の安全を脅かす。しかし、軍事活動による国家安全保障はそれらの問題に対処できない。それどころか軍用機騒音をはじめとする軍事環境問題によって、軍事活動は環境を徹底的に破壊する。このような現状を見る限り、冷戦時代に生じた軍事活動による国家安全保障という伝統的な安全保障概念は現代において環境保全の観点から組みかえられていかなければならない。1)安全保障の内容を、軍事的な脅威から非軍事的な脅威(資源の枯渇、気候変動などの環境問題)も含むものへと拡張していること、2)敵国が存在しなくても脅威が存在するとしていること、3)安全保障の範囲を、国家から人間(集団および個人)も含むものへと拡張していることという特徴をもつ環境安全保障が従来までの安全保障にとってかわる必要がある。
環境保全の観点から軍縮を実現し、非軍事的な手段によって新たな安全保障を実現していくことは、環境保全の面から見ても平和実現の面から見ても今世紀の最大の課題である。
*本報告は、日本学術振興会特別研究員奨励費(21・4066)の助成を受けたものである。