小学6年、女の子 平和とは、戦争がないことだけだと思っていました。しかし、この広島子どもツアーで勉強して平和とはどういうことか知らされた3日間でした。それで、平和とは何かそれを1日目のメッセージfromヒロシマでよくわかりました。平和とは、この世界から戦争、核兵器を無くし国と国同士が手をつなぐことだとわかりました。 |
小学6年、女の子 私は広島に行って戦争は絶対にいけないことを学びました。「戦争をすれば多くの人が死んでいくのに何故人は戦争をすることを選んだのだろうか。何の得もなく、損することばかりなのに。」と思って不思議でした。「何の罪もない人たちの命よりも、戦争に勝つことがそんなに嬉しいのか、いったい何を考えているのか。」とも思いました。何の罪もない人たちが原爆などで焼け死んでいくのは、とても悲しいことです。私は、私たちの1人1人が「戦争はいけない」という心になった時に、核も戦争もない世界になると思います。1人1人の強い心で、この世界から核や戦争をなくし平和で全員が手をつないで暮らせる社会を作っていかなければならないと思いました。 |
小学1年、男の子 せんそうは、いかん。せんそうより、へいわのほうがいい。おおくのひとがしんで、かわいそうだ。げんばくのせいで、いえがボロボロにこわされていた。ばくだんは、つかうな。せんそうをやめ、ぶきをなくして、てをつないでへいわになろう。 |
男の子 8月4日 原爆ドーム、原爆資料館を見学しました。原爆ドームを初めて見て戦争はこわいもんだなと思いました。また資料館では人形の皮膚が焼けただれていて、もっと戦争がこわいと思いました。 折り鶴が大学生に焼かれたということで立ち入り禁止になっていました。戦争で亡くなった人のために作った折り鶴を燃やすなんてひどいと思った。 8月5日 今日、子どもの慰霊祭をやりました。子どもの慰霊祭では、原爆で亡くなってしまった人のお墓にお祈りをしました。 碑めぐりでは、公園などを歩きました。今日の暑さで倒れそうでした。でもなんとかがんばってゴールをしました。 メッセージfomヒロシマではダンスを踊りました。最初は忘れかけてたけどだんだんと思い出してきました。 海外代表との交流ではほとんどの人が英語でしゃべってました。英語でしゃべりかけられたらどうしようと思い、最後の最後でしゃべりかけられたと思ったら、日本語でしゃべってくれました。名前と歳を聞かれただけでした。とても楽しい1日でした。 8月6日 今日、広島市主催平和祈念式典に参加をしました。かなり暑かった。小泉総理の声が小さかった。マイクを使っているのにと思いました。子どもの方がりっぱでした。 声も大きかったし、言葉がしっかりしていました。 宮島まで行く途中での景色がきれいでした。宮島についてすぐシカがいました。シカにエサをあげたりしていました。自由時間でおみやげをたくさん買いました。いろんな場所に行き、神社の周りを歩いたり、海のほうでかにを取ったり、いろいろなことをしました。 とうろうを流したとき、とうろうが近くにたまりすぎて前に進みませんでした。でもちゃんと川に流せたから良かったです。また、来年も参加したいです。 |
男の子 8月4日 原爆ドーム、平和公園、平和記念館に行った。原爆ドームはボロボロだった。 だけど国が鉄骨を使って直していたから、原爆ドームは広島の人にとって大事なものなんだなと思った。 次に平和記念館には戦争が始まり終わったあとに残ったものや、そのときの状態が展示してあった。そこに行ったら、戦争のときにどういうことが起こったか少しはわかった。 溶けた瓶や黒こげになった弁当箱、原爆被災者の状況を示す人形などがあって悲しくなってきた。だから戦争なんて世界に必要ない。戦争を起こした人に戦争で亡くなった人をどうにかしてほしい。でもどうにもできない。だから世界の言葉の中に戦争・核という言葉をなくすべきだと思う。 8月5日 平和公園慰霊碑で(子ども慰霊祭に)参加した。そのあと原爆死没者追悼記念館に行ってあくなった人の顔や名前を見た。その中には赤ちゃんから年寄りまでいて、とてもかわいそうでした。 次に体験記閲覧室に行って原爆を落とされて倒れた家などの資料を見た。 あと「メッセージfromヒロシマ2003」に参加しいろいろな所から来た来た代表者がメッセージを発表した。いいやつばっかだった。次に花祭りを踊った。結構楽しかった。なにげに「地球マン」最高だった。広島に来てよかった!あと世界の人々には広島に来て戦争ということを知ってみてほしいと思う。 8月6日 今日は原爆が落とされた日でみんな式に出た。そこにはたくさんの人が来ていた。そこには小泉総理が来ていた。声が小さかった。なんで総理が、子どもより声が小さいんだろうと思った。とうろうを作って川に流した。燃えてるやつとか、沈んでしまったやつがあった。 |
男の子 僕が広島に行って思ったことは、「原爆はやっぱり怖い」ということです。被爆したアオギリの木や、8時15分で時間が止まった懐中時計や原型のない三輪車を見て、原爆はとても怖いという反面、ゆるせないという気持ちもありました。 あたりまえにやってきた8月6日をあたりまえに生きようとしたたくさんの人々を一瞬にして殺し、遺体の判別すらできないほどにしてしまった原爆をゆるせないという気持ちは、怖いという気持ち以上にありました。 1日目に原爆ドームを見たとき、「思っていた以上に大きい」という気持ちと「一瞬で こんなに壊れてしまったのか」という気持ちがありました。次に見た折り鶴の塔で鶴が燃やされてしまったということを聞いて「平和に対する考えが、世界の人みんなにあるとは限らないんだな」というふうに思いました。 2日目のメッセージfromヒロシマでは、いろいろな国の人とふれあい、楽しみました。 最後に核を所持している国へ、メッセージを送ったとき、「世界の核所持国の人々が、これをしっかりと受け止めてくれているのか」という疑問がありました。 メッセージを送っても「はいそうですか」と捨てられては意味がないと思います。しっかりと読み、議会を開き、核を廃止して、平和の火を消すことが今の世界に必要だと思います。 Love & Peace |
女の子 8月4日 今日は1日目だったのでホテルへ荷物を置いたら午後はすぐに平和公園に行った。そこに行くまでに「路面電車」を利用したのだが、降りる1つ前の駅でヒロシマ市民だと思われる老婦に声をかけられた。話を聞いたところ、その人は「原爆が落ちる前の日に警報が解除されたので残念だった。くやしい。」など言っていた。そのあとに、資料館に書いてあったのだが、原爆が落ちる前の日まで本当に避難していたらしい。そして、解除され、月曜日だったため、たくさんの人々が学校へ行ったり、仕事をしていたのだ。そして原爆が投下された。 私はそのおばあさんの話を聞けて、その電車の中でグッと現実を味わったのだ。しかし、反対におばあさんは笑顔で語ってくれた。そして、埼玉子ども代表団に「平和がいいわ。」と最後に言い、私たちは電車を降りた。 そして公園内で気になったのが「セミの声」だ。今まで埼玉があまり熱くなかったせいもあるのだが、とにかくここでは「セミの声」がうるさかった。いつもなら夏らしく思えにぎやかだと感じるのがこのときは、セミたちが熱線に焼かれた人たちの声に聞こえたのだった。強い日差しもなぜか印象的だった。 次に資料館を見学した。最初は被爆までの時代の流れや、被爆の理由について説明してあった。しかし、西館へ行くと胸を引き裂かれるような気持ちになった。急に展示の雰囲気が変わり、初っぱなから死にかけの人形があった。(怖い。)さらに今思い出しても恐ろしい(一人部屋なので)人のツメや皮膚や人がいたと思われるが爆心地から近かったため、黒い影しか残らなかった石などあったのだ。あと、とても嫌だったのが熱によって溶けてしまったカワラだった。普通スベスベなはずのカワラが表面にチーズを焼いたようなブツブツができていた。それは別にさわってもよかったのだが、私にはどうしてもさわることができなかった。 資料館から出ると、tめたくなっていたからだがまたカッとなって汗がにじんだ。けれど、その強い衝撃によって冷えた心はすぐには暖まらなかった。 私たちは、資料館から「原水爆禁止世界大会開会総会」会場まで平和行進を行った。そこで、大人代表団の「かおる」さんという人に声をかけられた。優しくて落ち着いていらっしゃったのですんなり話をすることができた。かおるさんも今回のようなものに参加するのは初めてだそうだ。いろんな話をしたのですごくためになった。ありがとうゴザイマシタ。 5時から、総会が始まった。7時には出るのでちょうど1時間しか見られなかった。 だが、とてもスバラシイ話を聞けた。イギリスの方だったのだが、そこで議員をなさっているそうだ。政府など戦争の言い出しっぺと思うが彼は今の戦争に反対でその集会を開きそれに2万人集まったのだ。政府と国民がつながっていてよいことだと思った。戦争なんて相手を傷つけることで、自分の心や体までも傷つくと思う。それに国内の一番の被害者は国民だと思った。治安が悪くなり、国の中で傷つけあうことがあるなんてもっと嫌だ。 戦争なんて欲のかたまりだと思う。他国より上を目指すのはいいけど相手を下げることはしなくていいと思う。核はどの国だって持つことはできる。けど、使ってはいけないし、持つ必要などないと思う。核の撃ち合いなどしていたら本当に地球という星は滅ぶ。 8月5日 朝は苦手だ。6時に集合のはずが、6時5分に電話が鳴り目が覚めた。昨日、疲れた体で夜中まで起きていたのがいけなかった。しかし、今日の慰霊祭で言うスピーチを考えなければならなかったのだ。まあ、おかげで無事終えたのだが・・・。とにかく暑かった。昨日とは天候も行動内容も違う。 午前中は、陽の照っている中、たくさんの記念碑を見て回った。心に残ったのは「原爆供養塔」だ。ここには誰が誰だかわからない人の骨が埋められているのだ。自分にとって いろんな大切なものをなくして死んでさえ、なお家族に引き取ってもらえないなんて悲しい。家族も納得できないと思う。 |
小学3年生、男の子 そうりのこえが、ぜんぜんきこえなかった。こいずみさんです。 みやじまで、かにをとった。おもしろかった。 げんばくドームをみた。まどがわれてた。レンガがおっこってた。へんだった。 |
小学3年生、男の子 ぼくは広島に行って平和公園でビデオをみました。原子ばくだんのビデオでした。はしと家がぼろぼろになっていました。数えきれないほどの人間が死んでいました。そして生きている人は体全体のかわがめくれて「水水」とうなっていました。せんそうは全ぜんいいことはないし、関けいない人まで死ぬのでせんそうはぜったいにいけないと思います。 |
女の子 8月4日 事前学習会のときは、ぜんぜん話さなかったけれど、今日東京駅に集合したときはきん張して、あまりしゃべらなかったけれど、新幹線に乗って少しいろんな人たちと話しながら、広島に来て、去年も代表団として来ていたので、少しは、わかっていたけれどホテル「やまと」に行ってコンビニへ行って、原爆ドームや資料館を見学したり、いろいろ見学して、大人の代表団の人たちや広島に住んでいる人たちと一緒に平和行進に参加し、原水爆禁止世界大会開会総会に出席したあと、夕食会場に移動して、少し立つと大人の代表団の方々と合流し、子どもは帰ってきましたが、少しあいさつもしました。代表の森下さんがあいさつしました。でもとにかく暑くて、いっぱい歩いたので、つかれました。ホテルにもどってから、2人のお友だちといっぱい遊びました。2人とも6年生なのでとてもやさしかったです。 8月5日 今日は2日目で子ども慰霊祭をして平和公園や爆心地の島外科を見て回りフィールドワークをしました。案内してくれたのは去年と同じ平野さんでした。原爆ドームや佐々木さだ子さんのためにつくられた像や記念ひを見ました。その後、少し歩いて「メッセージfomヒロシマ」の会場へ移動して、いろんな各地から来た小中学生を中心にたくさんの人たちが集まりました。各県の子どもたちが一人づつあいさつしました。埼玉子ども代表団からは李さんがあいさつしました。とても楽しかったです。 8月6日 今日は、広島での最後の日だったので少しさみしかったけど、まず大人の式典に参加して、そのあと宮島に行きました。大人の式典で思ったことは、まず、子ども代表の子たちのスピーチが上手だったことと、小泉首相のスピーチの声が、子どもの1000分の一ぐらいで、ぜんぜん聞く気も持てませんでした。 |
女の子 8月4日、私は東京駅から新幹線に乗って広島へ向かいました。広島へ行く目的は、58年前に広島で起こった出来事に深く学び、世界の平和を守る運動の担い手となろう、ということです。私は埼玉子ども代表団の一員として、昨年に続いて参加しました。2年連続で参加しようと思った理由は、いろいろな学校の人と友達になれて楽しかったということもありましたが、一番は、この会の目的にあります。戦争を二度と起こさないように、もう一度、広島を見ておこうと思ったからです。 広島へは、4時間で着きました。ホテルに荷物を置いて、すぐに平和公園へ行きました。 そこには、今にもこわれそうな原爆ドームがありました。原爆ドームは、日本の人々が、原爆の恐ろしさを知ってもらうために、58年間、保存してきました。原爆ドームを見たら、誰でも原爆の恐ろしさが一目でわかると思います。 資料館では、佐々木偵子さんという原爆によって白血病になって、わずか12歳で亡くなってしまった人の折った鶴も飾られていました。鶴を千羽折れば、病気がなおると信じて折り続けたそうですが、千羽になる前に、亡くなられてしまったそうです。 平和祈念式典にも参加しました。内閣総理大臣のお話は、戦争はいけないことや、二度と繰り返してはいけないことをはっきりと聞くことができなくて、悲しい気持ちになりました。どうして日本が悲しくつらい目にあったのにはっきり言ってくれないのか、すごくすごく、不思議でなりませんでした。 この旅行で、いろいろな物を見たり、いろいろな人のお話を聞くことができました。その中で、一番心に残ったのは、どうして広島に原爆が落とされたかということです。 広島市は、土砂が河口にたまってできた、三角州で、山などの高い物があまりありません。そして、上から見たときに、Tの形をした橋が見えます。だから、アメリカの爆弾を落とす実験に都合が良かったそうです。それを学んだとき、私は、人間を、命を、何だと思っているのかと思いました。そして、その爆弾を、作った国、作った人、落とした人、皆の気持ちを聞きたいと思いました。私は絶対に許せません。 私は、世界中に子どもたちに広島の様子を見てもらい、被爆者の話を聞いてほしいと思います。私も、去年そして今回学んだことを、忘れないで、戦争で亡くなっていった人の分まで、一日一日を大切に一生けんめいがんばって生きていきたいと思います。 |
女の子 8月4日 今日は、平和ボランティアの中の一員として、広島へ来ました。最初はメンバーみんなと協力して4日間すごせるのか不安でいっぱいでした。けれど新幹線に乗ると 、みんな明るくしてくれてよかったです。東京から広島へ行くさい中、おもしろいこと、へんなこともいろいろとありました。広島駅に着いて、一番初めに声をかけてくれたのは李さんでした。それから李さんとそのほかの人たちとホテルに向かいました。 広島駅からホテルについて一息ついてから、原ばくドームにいきました。本ものの原ばくドームを見て、くずれた部分などを見ると「自分が思っていた迫力よりさらに大きな力と熱を持ってたんだな」と思いました。また、つるを持った少女の像も資料館の中の資料やいひんも見ました。 自分が一番心に残ったのは、原ばく投下直後のひばく者たちのすがたです。体の皮ははがれベローンとたれているし、かみはみだれふくはやけているすがたの三人を見ると、ゾッとし、あたり一面がヒヤッとする感じでした。その他、ボロボロに引き裂かれている服や、穴のあいたお弁当箱と、58年前の午前8時15分のままでとまっている時計も見ました。 8月5日 今日は、平和公園の中のいれい碑をめぐって歩き回りました。1ヶ所1ヶ所行くたびにシールを一枚づつもらいました。次に、ひばくで亡くなった方や、原爆で亡くなった方の遺品などが展示されている国立記念博物館へも行きました。これだけのとうとい命をうばうというのは、悲しいことでもあり、苦しいことでもあり、つらいことででもある。ということに気づきました。今、この広島に来る前までは、原ばくで亡くなられた方の気持ちや、つらさと苦しさということを深く考えていなかったようで、今、すごくこうかいしています。 いま、一番心に残るような言葉があります。1日目の原水爆禁止世界大会で、イギリス代表のスティーブンさんの言った「アメリカが、広島に原爆を投下したのは、有罪だ。けれど、日本も他の国、中国や、シンガポール、韓国、北朝鮮を支配したのだから日本も悪い。今、イラクでは戦争をしているけど、その戦争をしているのは、アメリカとイギリスだ。これは、けっして良いことではない。だから、日本もイラクに軍隊を送ってはいけない」という発言が心に残りました。 8月6日 今日は、平和式典に参加しました。初めて式典の会場に来てみると。少しシラーンとしているような気がしました。はじめに広島の小学校の子(2名)があいさつしました。それから、小泉さんがいろいろと話しましたが、ボソボソ言っててわかりませんでした。こんなに大事なときに、はっきり言わないということがちょっと許せませんでした。 次に、宮島に行きました。5時間自由だったので最初の1件目からショッピングしました。記念に広島と宮島の記念絵はがきを買いました。そのほかもみじまんじゅうも買いました。はまべでも遊びました。最後に反省会がありましたが、自分が話している途中で終ってしまって残念でした。夜は、灯ろう流しをしました。とてもきれいでした。広島駅で夜行列車に乗って、注意されたの12時4分で、それからというもの、こわくなってねてしまいました。よく日起きてみるともう、みんなおきてて驚きました。朝食を食べ、みんなと楽しみました。 |
男の子 まず、ぼくたちがむかった所は、原ばくドームでした。最初見たときは、こんなに原しばくだんがおそろしいとは思いませんでした。でも、しりょう館で原ばくのおそろしさをしりました。 いま、ここにいる人たちがいっしゅんにしてきえてしまうのだから、こんなことはぜったいおこしたくないと、ぼくは思いました。戦争がなんでおきたのか、なぜこんなに人間がしんだのだろうか。平和がなぜおとづれないのだろうか。 ぼくは、それがわかりませんでした。ささきさだこさんのぞうがたっている所につるがおいてありました。 それがもやされていると言うことは、とってもかなしいと思いました。 そういう人がいるから、戦争がはじまってしまうんかなと思いました。 なんでささきさだこさんがつるを千ばおれば、病気がなおると思ったのかは、わかりません。でも、それほど早く病気がなおってほしかったのかもしれません。お兄ちゃんは、つるを千ばおれば、病気がなおったのかなと言ってました。 かくへいきがなくなるのは、いつなんでしょう、とぼくは思いました。 かくへいきがなくなるのも、そうとおくはないと思いました。 だってみんながそう思っているからだと思います。そうすれば戦争もケンカもない平和がくる、そう思いました。 |
女の子 私は、戦争のことをあまり知らなかったけど広島に原爆が落ちたことは、少しだけ知っていた。 だけど、戦争や原爆のおそろしさがどれだけこわいかは知りませんでした。 それで子ども代表団の話を聞いて参加することにしました。 参加してみてはじめに原爆ドームや平和公園や資料館などを見学しました。 見学していて疑問がありました。 それは、なぜ戦争がおきるのか、どうしたら戦争が起こらないのか、戦争は、どういう理由で起こるのかということが疑問でした。 つぎに、平和行進をして少し疲れたけれど、これで戦争がなくなるならがんばりたいと思いました。 次の日私は、メッセージfromヒロシマ2003に参加して、みんなが平和のことで一つになったような気がしました。 8月6日は、広島に原爆が落ちた日で、平和祈念式典に参加して1分間のもくとうをしました。 私は、心の中で二度とあやまちはくりかえさないと心の中でとなえていました。 でも、そのとき私はとてもこわかったです。「もし、自分がその場にいたら」と考えていてとてもこわかったです。 だから、このこわさをくりかえさないようにしなければなりません。 「戦争をしても何も生まれない」「戦争をしても人が傷つくだけ。」 私は、この二つをみんなに知ってもらいたいです。 戦争は、絶対にゆるさない。 |
女の子 広島での4日間は、私にとって忘れられない旅となりました。見るもの聞くもの全てが重く受け止められ、、私の心を大きくゆさぶりました。 何より一番心に残ったのは、広島について最初に行った「原爆ドーム」でした。一目見ただけで、原子爆弾の恐ろしさが伝わって来ました。こんな大きな建物が、一瞬にしてこんな風になってしまうなんて……。原子爆弾のすさまじい破壊力を目の前にして私はしばらく声も出ませんでした。外についていたはしごのような物が、ぐんにゃり曲がっていました。58年前、このドームの中で死んでいった人もいたはずです。あの一発の原子爆弾がなかったら、戦争がなかったら…。広島の旅の間中、ずっと思い続けていたことです。 平和公園に行く途中、私たちは、少しの間川沿いを歩き、一本の大きな橋を渡りました。 このときも私は、原爆を落とされた当時のことを想像していました。爆心地からそう遠くないこの川には、被爆で弱ったたくさんの人々が、集まってきたのでした。水を求め川に飛び込み、そのまま死んでしまった人も大勢いました。私の住んでいる東松山には、当時の様子を描いた絵がたくさんある、丸木美術館があります。昨年の8月6日、4回目に訪れたとき、やっぱりこの川に重なったはだかの人々の絵の前で立ち止まってしまいました。 まっ暗やみの中に生きているのか死んでいるのかわからない幽霊のような人が、はてしなく川に浮かんでいる様子は「地獄」のようでした。あの地獄のような場面が、この広島の目の前を流れている川で実際に起きていたなんて、やっぱり信じられない気持ちでした。 私たちが広島を訪ねる何日か前、平和公園では、折り鶴が燃やされるという悲しい事件が起きていました。私たちが最初に見たとき、燃えてしまったいくつかのボックスは、白い大きな布におおわれていました。白い布の意味を知っていた私は、とても悲しい気持ちになりました。燃えてしまった数万羽の折り鶴には、その一つ一つに「平和への願い」が こめられていたはずなのに、どうしてこんな事をする人がいるのでしょう。私たちと同じように広島を訪ね、58年前の広島の悲しみを知った人なら、決してこんなひどい事はできないはずです。 私は、広島で過ごしたこの4日間に、いろいろな事を考えました。一番強く思った事は「二度と戦争をくり返してはいけない。」ということです。私たちが住む日本は、平和のように思えますが、世界中で今現在も核兵器を保有している国があるという事は許せない事です。私たち日本人の一人一人がまず、広島の悲しみを深く受けとめ、私たち自身から世界に向けて平和の大切さを呼びかけていかねばならないと思いました。 |
女の子 8月6日、私は埼玉子ども代表団の一員として広島にいました。 原爆ドームは、写真やテレビで見たときと違って原子爆弾が投下されたときの様子が頭の中にうかびこわかったです。平和記念資料館見学では、被爆者たちの写真や焼けこげた学生服などがありどれも目をそらしたくなるようなひどさでした。また、原爆が投下されたあとの町の様子で原爆ドームや学校など、りっぱな建物だけがのこってそのほかはみんな焼けてなくなっていたので、びっくりしてしまいました。 2日目の碑めぐりではいろんな所に行きました。その中の平和の火はずっと火が燃え続けていて世界中の核兵器が全部なくなったときに消すと聞きました。私は、自分が生きているうちに、この火を消したいなと思っています。原爆の子の像は、一番心に残りました。12年という短い月日しか生きられなかったさだこさんがすごくかわいそうでした。原爆でもっと小さい子たちもたくさん亡くなったことでしょう。また、生きのこった人たちもさだこさんのように放射能によって苦しみながら次々と死んでいくということがひどいなと思いました。 「メッセージfromヒロシマ2003」では他の人たちの思いがいろいろときけてよかったです。 3日目の人文字は人々の平和のねがいがたくさんこめられていてすっごくきれいでした。 3泊4日という短い間だったけれど、戦争や原爆のこわさを学んで私たちの力で核兵器のない平和な未来にしたいと思いました。これからもこの気持ちを忘れずに、私たちにできること、やらなければいけないことを見つけ、実行したいと思います。 |
男の子 僕は、広島に行く電車の中でどういう物が見られるか楽しみでした。 初めに見て、おどろいたのは、道に、電車が走っているということでした。 これは路面電車といって駅があったらまたすぐに駅があって、けっこう時間がかかりました。 最初に行ったのは、原爆ドームでした。 原子爆弾は、原爆ドームの、約600メートル上の所で爆発しました。 原爆ドームの中は見れなかったけど、お母さんがいうには、中には、亡くなった人のかげがあるそうです。 あと、気になったのは、韓国人の人のお墓です。 そのころ日本は、韓国を占領し、韓国の人は、日本人のできない仕事をさせられて、多くの韓国人が日本へ、来ていたそうです。 あと、原爆供養塔です。そこには、原爆投下後、毎日、毎日亡くなった人が運ばれてきたそうです。そして、戦争後、亡くなった人の名前がわかった人の数が少なかったそうです。 僕は世界から、核がなくなって、世界から戦争がなくなって、そして再び、世界に平和が来てほしいと思います。 |