イラク情勢Watch vol.73 09年5月06日

         発行:フォーラム平和・人権・環境  編集:志葉 玲


  現地写真リポート「高遠菜穂子さん、5年ぶりのイラク」

  

 09年4月21日、イラク支援ボランティアで日本人人質事件での元人質・高遠菜穂子さんが5年ぶりにイラクを再訪。彼女が支援してきたイラク西部の都市ラマディを中心に、病院や学校、避難民の居住区などを視察。米軍の攻撃による被害についても現場を訪れ、被害者達から話を聞いた。本コーナー編集人も共に現地入りし、高遠さんのイラク訪問を密着取材した。

 04年4月の人質事件では、政府関係者や保守系メディアから激しいバッシングを受け、一時は憔悴しきっていた高遠さんだが、イラクの友人からの励ましを受け、2004年7月にはイラク支援の活動を再開。全国での講演で集めた募金を資金に、イラク西部アンバル州ラマディ、ファルージャ周辺を中心に、病院や学校へ物資を送ったり、診療所を改修したりなどの支援を行ってきた。

 しかし、現地情勢の悪化もあり「またイラクに来たい」という高遠さんの願いはなかなか果たされず、支援活動もイラク人の現地スタッフとインターネットや電話を使って連絡、ヨルダンなどイラク近隣諸国でスタッフと合流、会議を行ってきた。

 高遠さんが、イラク再訪を考え始めたのは07年秋くらいから。同年初めからイラク西部ラマディで、地元部族による治安維持機構「覚醒評議会」と米軍との停戦により、現地の治安は劇的に改善。米軍が基地外での行動を控えるようになったことで、ラマディでの戦闘が激減した。また、アルカイダ系の過激派も覚醒評議会により、取り締まられるようになり、ラマディでのテロも大幅に減った。この様な情勢の変化や、高遠さんの活動を高く評価した覚醒評議会からの招きもあり、高遠さんもイラク行きを検討。周到な準備を重ね、この4月についにイラク再訪を果たした。


         
         イラク国境でパスポートに押されたスタンプを見せる高遠さん。

 在イラク日本大使館は、2004年の夏以降、各国のイラク大使館に「日本人にビザを発給しないように」と要請。人道支援活動家やフリーランスのジャーナリストがイラクで取材することを妨害してきたが、今回、高遠さんは現地部族長の招きということで、ビザを獲得できた。



   米軍が街から消え、平和になった

   
   ラマディ市内マーケットで。

 ラマディ市内には、米軍の姿はほとんどなく、夜11時くらいでも女性や子どもが通りを行き交うなど、ここがイラクとは思えない程、平穏な雰囲気である。高遠さんや本コーナー編集人も市内のマーケットを訪れ、人々と交流することが出来た。



   現地族長と民間外交
   
   
   高遠さんとアハマド・アブリーシャ氏

  高遠さんは、ラマディをはじめとするイラク西部アンバル州で大きな影響力を持つ現地部族長アハマド・アブリーシャ氏と面会。ラマディの情勢や復興などについて意見交換を行った。アブリーシャ氏は「日本の企業にも是非、ラマディに来てもらいたい」とも。



   病院や学校、避難民居住地・・・支援先を訪問

   
   ラマディの母子病院を視察
   
   
   女子小・中学校

   
   ファルージャ郊外サグラウィーヤの診療所。高遠さんが集めた募金で改修された。

   
   ラマディ北東部タミーム地区には、今も国内避難民が劣悪な環境で暮らす。

 今回の高遠さんのイラク再訪の最大の目的は、自衛隊によらない日本の民間支援の現場を直接視察すること。直接その場にいる人々と話し、状況やニーズを確認することだ。ラマディ母子病院は、2005〜2006年の最悪の時期に比べれば状況は改善したものの、「バグダッドやバスラなど他の地域の病院に比べると、冷遇されているようだ」(高遠さん談)。
現在イラク政府は、シーア派が多数を占めているため、同派の多いイラク南部に政府の予算が偏りがちという問題がある。同様に、戦乱で家を追われたIDP(国内避難民)もラマディでは劣悪な環境のまま放置されており、特にバグダッドから逃げてきたIDPは食料配給のための登録が出来ず、より困窮するという状況だ。



   「知られざる虐殺」の爪あと

  

  
  米軍にミサイルを撃ちこまれた高層住宅

  


        
        元ジャーナリストのカリームさんは米軍の狙撃で両目を失った。
        右の目はあるように見えるが、義眼。

  
  かつては公園だった集団墓地

 支援現場の視察と共に重要な目的が、ラマディの戦禍の傷あとを見ていくこと。2005年から2006年にかけ、イラクでも最激戦地の一つだったラマディは、それがゆえにメディアが入ることがなく、報道されることのないまま、無数の人々が犠牲になった。米軍の苛烈な攻撃の中、あまりに多くの人々が殺されたため、以前は子ども達が遊んでいた公園も、集団墓地と化した。なんとか命を取りとめたものの、心と体に深い傷を負った人々も大勢いる。ジャーナリストだったカリーム・ムシャラフさんは、自宅から市場に行くところを米軍のスナイパーに狙い撃ちにされ、両目を失った。しかも、米軍はカリームさんの家に押し入り、彼が撮っていた米軍のラマディ攻撃の写真を全て没収していったという。

 高遠さんは、「ラマディでの戦争被害は知られざる虐殺だった」と涙し、以前は公園だった墓地で手を合わせた。



  日本から送った支援物資が届く

           
           日本から送ったコンテナが届く

   
   記者会見にはイラクの各メディアが集まった

 高遠さんの滞在中に、ちょうど日本から送った病院のベッドや車イス、太陽光発電パネルなど、支援物資が到着。また同日、今回のイラク再訪の総括の記者会見が行われた。
 
 当コーナー編集人は、高遠さんのイラク再訪の日程全てに同行し、すぐ傍で再訪の様子を見ることが出来た。高遠さんのイラク再訪は単に彼女にとって意味があるだけでなく、「国際協力」の名の下に海外に自衛隊隊が派遣される中で、自衛隊によらない普通の市民による真の国際協力がどうあるべきかについて、大きな意義ある事例となったと見なすべきだろう。



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