イラク情勢Watch vol.20 05年11月30日 発行:フォーラム平和・人権・環境 編集:志葉 玲 毎週更新(予定) Topics 1)お知らせ 2)イベントリポート「そうだ、イラクの友に聞いてみよう」 1)お知らせ 本コーナー担当の志葉がインドネシア・アチェ取材に出る関係で、更新を2週間程お休みいたします。 2)イベントリポート「そうだ、イラクの友に聞いてみよう」 11月27日、NPO法人PEACE ONの招きで来日した同法人現地スタッフのサラマッド・ハキ・ムハンマドさん、パートナーのアマラさん、そしてイラク人画家ハニ・デラ・アリさんによる 講演が東京都・本駒込で行われた。3人は、それぞれアーティスト、NGOスタッフとしての視点から、イラクの現状や戦争と占領の問題について語った。 ハニさん発言要旨: ・経済制裁時代の苦しみ イラクのアートの現状はけして短くない話です、湾岸戦争後からのつらく長い話なのです。戦争により世界からイラクが閉ざされたことによって、外国でのアートの発展をフォローできない、イラクのアーティスト達も自分の作品を見てもらえない、という問題がありました。また、経済制裁*で生活が苦しくなり、多くのアーティストが職を変えることを余儀なくされたのです。 *注:フセイン政権下のイラクがクウェートに侵攻した後、国連 安保理はイラクに対して経済制裁を発動、「化学兵器の製造 阻止」を名目に、フセイン政権崩壊まで継続された。しかし 食料不足による栄養失調や、医薬品の不足、感染症の蔓延等 によって、150万人のイラク人が亡くなったとされる。 「化学兵器の材料になる」と必要な画材も入ってこなかったことも辛かったことです。私が思うには、アメリカはイラクにモノが入ってこなくて、化学兵器をもっていないのも知っていたのに、プロパガンダをしてきたのでしょう。ただ、アラビア語のことわざに「悪いことにはいいこともある」というように、モノが入らなくなってきたたことで、国内のものを活かして作品を作るようになっていきました。外国のアート影響を受けるアートではなく、イラクの歴史や文化を見つめなおして作品に取り入れることができ、私達は自分達の文化・文明・歴史に興味をもち、愛するようになりました。愛とは責任感です。イラクの文化を守っていかなくてはいけないという責任に対しての。 ・略奪に対する怒り だからこそ、フセイン政権崩壊後、イラクの博物館が略奪を受けたことは悲しかった。私達が創作活動においてインスピレーションを受けてきた文化財が盗まれたことは大きな大きなショックだったのです。今、ファルージャ、ラマディのイラク各地で起きていることは、イラクの人々や文化や歴史を侮辱している。そうした不当な占領に対しては我々は最後まで抵抗します。 ・私達の武器は知識、芸術、人間性 侵略者は、歴史や文化を消したりしようとします。ただし我々の武器は知識であり芸術であり人間性です。ヒロシマ・ナガサキの経験を持つ日本の人々もそうした感性を持っていると思います。ですから、人間性を消しさろうとする者達に対して、一緒に抗っていければ、と思います。 サラマッドさん発言要旨: ずっと日本で皆さんと会うことを楽しみにしていました。会場の中で「人間の盾」としてイラクで見た顔がたくさんあるので、嬉しい。地理的には、本当に遠いのに日本の人々がイラクに興味をもって、助けてくれる嬉しいことです。多分、日本人とイラク人はそのルーツが同じ時期に同じところで始まってるのかも。このような人間性は素晴らしいものですが、だからこそ人間性をアメリカは攻撃しようとしているのではないでしょうか。 日本もかつての戦争で多くの人々を殺されたと聞いています。イラクのことにも興味をもってくれているのではないかと思う。イラクはずっと大変な状況にありました。8年間のイラン・イラク戦争、12年の経済制裁、 アメリカの空爆、占領。これが、イラク人と世界を切り離しています。そして残念なことにイラク人を侮辱したり、受け入れなくなっている人々も出始めているのです。 ・助け合いながら生き延びてきたイラク人 経済制裁の時代は本当に大変でした。150万人という人々、特に子どもがミルクや薬も無い中で亡くなっていきました。電気もなく、病院ではロウソクの光の中で手術することもありました。でも、我々は家族や兄弟の気持ちで生きてきた。こうやって世界から切り離せれている中がからこそ、イラク人同士で仲良くしなくてはいけないと考えたのです。苦しい中でも、互いを訪ねもてなして来ました。それは「人間の盾」の方々が証人になってくれるかと思います。私達イラク人は外国から来た人々に家に招待したり泊まってもらった。小さな事故や問題はあったにしても、私達イラク人は互いに支えあって生きてきたのです。当時の口癖は「みなイラク人なのだから頭をあげろ」ということでした。 ・占領下での社会の荒廃 このように経済封鎖は本当に被害が大きかったのですが、「民主主義」や「解放」という名で来た占領はもっと被害が大きかったです。たとえば、麻薬。大量に売られています。フセイン時代なら麻薬を扱うヒトは全て死刑でした。ところが今は軍や警察の中にも麻薬を扱う人間がいます。子ども達でさえ、麻薬をやっています。エイズの問題も深刻です。輸血用血液など医療物資が汚染されているからです。子ども達の心の病気も深刻です。あちこちで爆発だの戦闘だのあるから、外で遊ぶことはできないし、親も子ども達を外に出させないのです。精神を病んだ子ども達に対して、医者達は「薬がない。リラックスさせたり、外で遊ばせたりするのが薬だ」と言いますが、それは不可能なことなのです。 若い世代は戦争に疲れきり、占領でつかれた。今の子ども達は学校を辞めて、肉体労働で働いている。街には戦争で親を亡くすなどした子ども達がストリートチルドレンとなってあふれています。爆発や戦闘や拘束で親をなくした子ども達は、働くしかない。女の子なら体を売っている。以前はこうした子ども達のための施設があったのですが、今は誰もストリートチルドレンを省みないのです。 このような困難な状況の中で教育のレベルが下がり、それは後の世代にも良くない影響を与えます。だから、多くのイラク人が家族をつれて外国へ逃げざるを得ないのです。彼らは、イラクをとても愛しているのに。 ・アメリカのイラク政府の責任 これは、アメリカやイラクの政府の責任です。自分達の身の安全はィーは気にしているが、一般市民の生活や安全は気にしてません。今、バグダッドでは90%の道が封鎖されていて、人々はロクに移動できません。お偉いさんは大勢の護衛を引きつれ、イラクの国庫を食い荒らしています。サダム時代は国家予算の多くが軍事に使われていましたが、今も治安目的ということで、武器が買われている。そのことで犠牲になっているのは普通の人々です。復興支援の名目で大量に使われているお金は、治安目的。その治安部隊に一般市民は襲われているのです。 ・子どもたちの笑顔のために 私がピースオンを作った理由はイラクの子ども達も日本や米国とフツーの子ども達と同じチャンスを持てるべきだといううことです。黒い肌白い肌だろうが、ブッシュの子どもであろうが。子ども達はいくら苦しい思いをしていても、ピュアな気持ちにさせてくれる。(代表の)相澤さんと一緒に病院に行ったりすると、日本人、日本人と大喜び。子ども達も劣化ウラン弾の影響で、100歳のような姿をしています。でも、玩具を与えたりするとすごく喜んでくれる。 ファルージャの孤児達も施設に入れられたりしているが、戻りたがっている。当たり前のものでとても喜んでいるところを観て悲しくなることもあります。これは本来なら当たり前に与えられていることだから。子ども達が少しでも幸せな顔をしてくれるために頑張っています。 アマラさん発言要旨: 皆さんから頂いた募金でがん患者、ストリートチルドレン、ハンディキャッパーの子ども達を助けることができました。この戦争はどんどん大きくなって大変になっていてやらないといけないことも増えているのですが。 ・民主主義が必要なのはアメリカ。 占領について言うと、米国は新しいイラクを作るために来たはずなのに津波がきたようだ。3年も経つが、新しい建物や学校が壊されています。以前はバグダッドはとても美しい街でした。今は瓦礫の山。米軍にはイラクを立て直すか出ていくかしてもらいたい。サダムが捕まっていなかった頃はサダムを拘束すること米軍の駐留する理由。今はあちこちに爆弾をしかけたり、暗殺をしたりして、治安を理由にしています。 ブッシュは「民主主義与えるため」と言いますが。アメリカにこそ民主主義が必要でしょう。人間の盾の女性が逮捕され、3万ドルのお金を払わされた。戦争に反対している人々が逮捕されている。どこが民主主義なのでしょう。イラクはそのような民主主義は必要ありません。ただ必要なのは正直な熱心な指導者です。普通に家族と過ごせ、学校に行けるこことが必要。16歳の子ども達がアメリカと戦うために銃をもっている。彼らはテロリストとされているけど、親が襲われ家を破壊している米軍から家を守るために戦っています。彼らにただただ米軍による残虐手段を容認しろ、と言うのはあまりに酷なのではないでしょうか? 質疑応答 Q:ピースオンが行っている盲学校への通学バス寄贈プロジェクトについて教えて下さい。 サラマッド: 残念ながら、イラクの親達もハンディキャッパーをお荷物とする親も多い。施設とかバスとかのことは政府は考えていなかったので、必要。バスが必要。子どもが来れることが必要。メリットは子どもたちが学校にいけて、家族が子ども達の移動にお金を使わずにすんだこと。ドライバーの収入にもなる。バスが10日間故障すると、10日間子ども達は学校にこれない。今でも、必要なものはまだバス。提供したバスは、15人乗れるもの。150人とかの学校では全然たりない。リニューアルのためにバスをストップさせようとしたら、校長から電話が来て「子ども達が学校を辞めてしまう」と。他のバスを借り、しのいだ。 Q:どういう形でのテロが起きているのか。爆弾テロをしているのは米軍が関与したという状況証拠はありますか。 アマラ:バグダッド南部のドーラの学校のトイレの爆発物が仕掛けられているから、休みになったり。市場が閉まっていたり。車にしかけられているとか。米軍狙いの爆弾だが、通りがかったイラク人も犠牲になる。パニクった米兵が銃を乱射。ヤルムーク病院にも爆発物がしかけられたこともある。危険はどこにもある。夜も同じように寝られるわけではない。爆発が聞こえたりする。イギリス兵の使っている方針。バスラでチェックポイントで止まらない車が米兵を止めようとしなくて、米兵やイラク警察が止めたところ、中にはイラク人の服を着たイギリス人が。トランクの中には爆発物が。つれてかれた後、ブレアが「イギリス兵にイラクの法律は適用されない」米英軍が刑務所を襲う。メディアが二人を証拠として聞こうかと思ったのだが、解放され てしまった。 ショールジャマーケットでは米兵が放火した?兵隊がポンと何かを投げ火事になった。ショッピングをしてきた人たちが火にまかれる。しかも助けようとすると、米兵が行く手を阻む。こういうことは何度もおきているけど、皆米軍を恐れて黙っている。 Q:サダム時の芸術への規制は? ハニ:規制は特に無かった。著名なアーティストは町の中にアートをつくることはあった。サダムから弾圧はなかったが、一番影響を受けたのはイラクの状況。経済制裁の問題がおおきかった。アートとは重要性の少ないものになってしまった。 政権崩壊後の問題は、略奪が一番大きかった。6000〜7000年前のものが何処に行ってしまったかわからない。博物館の現代美術のコーナーから、中東で一番大きなものだったのだが、それも失われた。扉を開けたのは米兵。石油省しか守らなかった。精神病院すら、アメリカの被害を受けた。イラクの財産を全て盗むために来たのでは。 Q:日の丸を踏みつけているイラクの子どもをニュースで見たが、自衛隊派遣については同思いますか? サラマッド: 日本に対する愛情は変わっていない。日本の援助は1980年代、90年代の間につくられた。ハイウェイとか。勿論、日本の国民も平和な国民であることは知っている。日本の政府と国民が違うことは知っている。ホントに自衛隊が送られるということは残念。日本のイメージが悪くなる。人数的には違うけど、アメリカがやっていることに正当性を当たえる支援のように思える。軍服を着て、銃をもっているというのはイラク人を傷つけることだ。子どもが踏んでいた、その子は子どもだからわかっていない。自衛隊とすれ違ったらにこりともしないだろう。なぜなら、彼らは占領者の一人。精神的にも経済的にも支援したことには変わり ない。そしたら日本のイメージのポジティブのイメージが崩れる前に。 アマラ:私達、小泉圧勝の結果がショックだった。イラクの中に自衛隊が反対しているというメッセージが届いていた。自衛隊が残る政権が勝ってしまった。 Q:今年12月15日のイラクの選挙の後、状況は変わるでしょうか? サラマッド:みんなが参加したら、選挙で変わるだろう。米軍が撤退したら、今のイラクに起こっている問題は、全てアメリカが関わっていると思う。手を汚している。占領と同時に平和はない。国際的に占領に対して、抵抗する権利がある。 一言メッセージ ハニ:皆と一緒に平和を考えていきたい。いろいろ違うバックグラウンドが違う人々が尊重しあうこと。人と人の間には同じものがあるはず。私達は武器や空爆よりも強い。愛の力で勝ちたい。 アマラ:日本のことを知るというとテクノロジーくらい。皆さんに出会えて嬉しい。日本は平和を愛する民族だ。いかに自分と異なる人々とも心を通わせられる人々で、辛抱強い人々だ。フランスに帰ったら日本人という人々はどういう人か、ということは言えるようなりたい。日本に来れて休めた。いろいろな人々とゆっくり会えてよかった。変わらないで。 サラマッド:私はイラク人が辛抱強い人々だと思っていたが、空爆の中でわざわざ日本から来てくれる日本人がいたことには、本当に日本の中でも大変だったりしても少しでもカンパしてくれるという人がいたことに、大変感謝しているしこころが一杯になった。このような気持ちを得たことで、頑張らなきゃ、と思う。イメージが大きいので、ぜひぜひイメージを崩さないように、自衛隊を引き返してください。日本食は大変なのだけど、皆さんに会えて嬉しい。 ●バックナンバー 第19号 2005年11月24日 第18号 2005年11月15日 第17号 2005年11月07日 第16号 2005年10月31日 第15号 2005年10月24日 第14号 2005年10月15日 第13号 2005年10月09日 第12号 2005年09月30日 第11号 2005年09月21日 第10号 2005年09月12日 第09号 2005年08月30日 第08号 2005年08月22日 第07号 2005年08月14日 第06号 2005年08月05日 第05号 2005年07月30日 第04号 2005年07月22日 第03号 2005年07月12日 第02号 2005年07月05日 第01号 2005年06月29日 |