2009年、ニュースペーパー

2009年07月01日

ニュースペーパー2009年7月号

【インタビュー・シリーズ その36】
自分の思っていることを講談にして語りたい
社会派講談師 神田 香織さんに聞く

【プロフィール】
磐城女子高卒業後、東京演劇アンサンブル、渡辺プロダクションドラマ部を経て、1980年神田山陽門下生。二つ目以降、ジャズ講談や一人芝居の要素を取り入れた独自の講談を次々と発表。講談の新境地を切り開いている。1986年、講談「はだしのゲン」公演で日本雑学大賞受賞。オリジナル作品は、「新版はだしのゲン」「チェルノブイリの祈り」「ビリー・ホリデー物語」「フラガール物語」など多数。

──神田さんが講談師になられた経緯を教えてください。
 生まれは福島県のいわき市。小名浜漁港の近くです。東北なのですが、黒潮と親潮のぶつかる暖かいところなので、雪はめったに降らない、自然環境としてはすごく恵まれているところで育ちました。
 私は舞台がすごく好きで、高校では演劇クラブに入っていました。とくに「新劇」が好きでした。それで高校を卒業してから上京して、劇団「東京演劇アンサンブル」に入ったのです。ところが言葉の訛りもあって、うまくいかなくて悩んでいました。そんなときに、友人の神田紅さんに誘われて、訛りを直すために講談を習って、1年くらいやっていくうちに講談の方が私にあってるんじゃないかな、という気がしたものですから、講談師になろうと決意しこの道に入りました。
 講談の修行は、伝統芸能ですから、相当厳しいもので、また、しきたりもいろいろあり、もう無理かなとも思ったこともありますが、紅さんをはじめ周りに一緒にがんばれる友人たちがいたからここまでやってこられたのだと思います。それから、師匠の二代目神田山陽が素晴らしい方でした。新しい物好きで古いものにとらわれず、変わったことをやると言うと、とっても応援してくれる人だったのです。そういう人に巡り会えたのがよかったですね。

──社会派講談に取り組まれるようになったきっかけは。
 私の社会派講談の原点は「はだしのゲン」です。前座修行を終えてサイパンに遊びに行ったとき、戦跡を見て歩きました。バンザイクリフは景色のきれいなところでしたが、ガイドさんが「米軍に追い詰められた日本人が、回れ右して近づいて崖から万歳と言って落ちていった」と話してくれました。酷いなと思いました。崖が見えないように後ろ向きで行く気持ちは、自分だったらたまらないですよね。
 自分は語り部という仕事を選んだからには、こういうことを話そうと思ったのです。でも勉強するうちに、あまりにも暗く残酷で、自分に語ることができるのだろうか、と悩みました。そんなときに漫画「はだしのゲン」(中沢啓治作・画 広島の原爆を描く)と出会いました。「はだしのゲン」があったから、それを講談として語ることで、あまり悲しくならずに、でも絶対に戦争を許さないぞという怒りで、最後に元気が出てくるような作品に仕上がったのです。

──新作「フラガール物語―常磐炭坑余聞」は、伝統的な講談で「フラガール」というのがびっくりしました。
 私は、子どもの頃に「ハワイアンセンターができた」って興奮したのを覚えているのですが、「きれいで踊りも上手ですごいな」という程度の感想でした。ところが、地元の女性たちの力でハワイアンセンターを成功させていくところにスポットライトを当てた映画「フラガール」ができて、そういう切り口があるのか、とあらためて感動しました。これは地元の話ですから、私もぜひ語っていきたいと思いました。
 もとは悩んだいわき訛でしたが、今回は遠慮なく思いっきり発散できます。映画のせりふだけではなく、自分の子ども時代の回想を入れたりしてつないでいくので、映画とはまた違う面白味があると皆さんおっしゃってくださいます。

──最近作にはどんなものがありますか。


「核兵器廃絶・平和中央集会」で「はだしのゲン」を演ずる
(5月23日)

 「哀しみの母子像」という講談は横浜米軍機墜落事件(1977年横浜市緑区に米軍機が落ち、子どもが二人亡くなり、お母さんが闘病の末に亡くなった)を取り上げたものです。被害者女性のお父さんと会う機会があって、私が講談をやっていることを言ったら、ぜひ講談にして欲しいと言ってくださったのです。私は、「かわいそうだったね」では終わらせたくない。お母さんがどんな気持ちだったのか、つらいけれど、迫っていきたい、そういう思いで作りました。沖縄でも米軍機の墜落事故(04年、沖縄国際大)がありましたが、同じですよね。これは今も続く問題なのです。
 「国鉄労働者(ぽっぽや)義士伝」は国鉄労働者のお話です。現在のフリーター、派遣切りなど、若い人が働きたくとも働けず格差がついてしまう貧困問題を考えたとき、分割民営化で国労がつぶされていく時代から労働者の立場が厳しくなってきたのかな、と思います。そこを取り上げてみました。闘争団の夫婦の娘が東京に出てきて働くのですが、解雇されてユニオンに入って、みんなで手をつないで声を上げることの大切さを知って、闘争団の親のもとに生まれてよかった、という、いわば激励講談です。
 講談を作るとき、必ず自ら取材します。たとえば、レイバーフェスタに顔を出して、話を聞いたりします。芸人だから一度も会社や組合に入ったことがないので、勉強して生の声を聞いて、本を読んで、勉強しなきゃいけないことがたくさんあるのです。

──神田さんの最近の活動について教えてください。
 日本の現状を見ると、どこから手をつければいいのかわからないくらいですが、私にまずできることは語り部を増やすことだと考えて、一昨年から講談教室を東京ではじめました。自分の思っていることを講談にして語れる、社会人の講談師をいま育てています。本当は誰でも自由にいろんなことを語るべきです。派遣村も然り、分断されがちですけど、関心ある人はいますから、そこにつながっていけるようにしたいですね。
 また、「花も嵐も、講釈師が語ります―バツイチ子連れ、泣き笑い半生記―」(七つ森書館刊)が再版しました。私の体験したことを、講談調というか気楽な語り口で書かせていただきました。夫からのDV(家庭内暴力)や、出戻りして子どもと三人でやり直したりと、大変な思いはしましたが、後から考えてみると、すべて芸の肥やしになっていると感じています。この本には「『想像力』。これが身を守る一番の武器…」と書きましたが、子どもたちには、自分がそうだったらどうだろうと、ぱっと立場を入れ替えて考えられる感性を持って欲しいなって思います。それがあれば戦争は絶対にやっちゃいけないとわかるはず。子どもたちには、そういう風に育ってもらいたいと願っています。
 最近、最高裁判決の出た和歌山のカレー殺人事件の林真須美さんに面会もしています。私は、彼女はやっていないと思います。林さんのお子さんたちは「ママを守る」と一所懸命で、子どももがんばっているのだから私も負けられない、と彼女は言っています。私も彼女に集中できるものとして講談を教えてあげて、私なりに励ましていきたいと思っています。

──平和フォーラム・原水禁に一言お願いします。
 平和、戦争、差別、みんな命の問題です。戦争では、非戦闘員がたくさん殺される。原爆も、沖縄も、東京大空襲もそうです。最大の人権侵害だと思います。数年前に長崎の原水禁大会で「チェルノブイリの祈り」をやらせてもらいました。これは、原発事故を取り上げたものです。「はだしのゲン」の初演は86年の事故の起きる直前でした。当時は、もう原爆なんて古いよと言われました。そんなときに事故が起こったのです。原爆も原発も核です。福島にも原発がありますが、実は身近な問題ですよね。どう考えても核と人類は共存できない。皆さんの運動は今もパワフルですがもっともっとパワフルに、多くの人を巻き込むようにして、運動を広げていってくれたらと思います。

〈インタビューを終えて〉
 ぽんぽんと出てくるよどみない言葉、さすが講談師、自分を語るのも堂に入っています。そして、ぶれない言葉が人の心を打つのでしょう。「平和・戦争・差別、みんな命の問題、戦争は最大の人権侵害」。根っこが深い。さすが高校時代に女優・秋吉久美子と張り合ったという経歴が示しています。全てがすてきでした。
(藤本泰成)

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原子力空母ジョージ・ワシントンのメンテナンス修理行われる
横須賀の原子力基地化が進められている!
三浦半島地区労働組合協議会 事務局長 小原 慎一

 昨年、7月19日、9月25日の両日、「横須賀原子力空母配備反対・母港化阻止全国集会」には、全国から合わせて約2万人の参加があり、現地の闘いは盛り上がりました。その後の原子力空母ジョージ・ワシントンをめぐる状況を報告します。

危険な原子炉のメンテナンス作業が4ヵ月間も
 昨年9月25日に強行入港したジョージ・ワシントンは、一旦出航した後、11月21日に再入港し12月6日には一般公開が行われました。早期の公開は予想外で、私たちがきびしく追及してきた安全性の問題を強く意識しての結果と言うこともできます。一般公開についての横須賀市への問い合わせは7,000件を超え、「見学者は10万人に近づくのでは」との観測さえありました。
 実際には2万8千人が見学したと言われ、意外に少数であり、米海軍や横須賀市の予想(期待)を下回ったことは間違いありません。この一般公開時にはすでに、その後のメンテナンス作業に使用された多数のプレハブ小屋や異様な鋼鉄製工場のような外見をした修理台船などが目撃されていました。
 米ワシントン州の米海軍原子力艦船修理基地があるブレマートンの地方紙「Kitsap Sun」は、1月16日付で、「550名のピュージェットサウンド海軍造船所の労働者が、外国での原子力空母の初めてのメンテナンス作業のため、現在日本にいる。多くの集団が毎年、4ヵ月間横須賀に派遣される」と報道しました。
 1月~5月に行われた原子炉のメンテナンス作業は、放射能で汚染された冷却水とフィルターの交換、原子炉の部品や配管の交換等の作業を含むものと推測され、必然的に作業員の被曝や放射性廃棄物の保管問題、周辺環境への放射能漏れの恐れを生じさせる、極めて危険な作業と言えます。実際にピュージェットサウンド海軍造船所等での放射能漏れ事故が報告されています。

在日米海軍司令官は追及を無視、日本政府も追認


1万5千人が参加した「原子力空母反対集会」
(08年7月19日・横須賀)

 この報道の約1ヵ月前、原子力空母の安全性問題を問い続けてきた「原子力空母母港化の是非を問う住民投票を成功させる会」は、当時の在日米海軍ケリー司令官宛に「メンテナンス作業の内容と安全対策の詳細を明らかにするよう」質問書を出していますが、「ファクトシート(米海軍の原子力空母用説明文)を見よ」との紋切り型の回答があっただけです。
 日本における米海軍の放射性物質の扱いは、日米両政府の1964年の交換文(エード・メモワール)で「放射能にさらされた物質は通常、外国の港にある間は潜水艦から搬出されることはない」と約束されています。原子力空母配備にむけた『ファクトシート』でも、『燃料交換及び修理に関する米国の保証は引き続き完全に堅持される』とエード・メモワール遵守が謳われています。
 しかし、3月31日付の朝日新聞は「米海軍原子力推進機関プログラム」への独自の質問取材の回答として、「メンテナンス作業の具体的内容は原子炉に付随する機関(1次系、2次系の両プラント関連)の補修作業である」と報じ、私たちの危惧を裏付けました。同時に、このメンテナンス作業で発生した低レベル放射性廃棄物・約1トンが基地内で米海軍の輸送船に移され、3月末に米国に向けて出港したことも判明しました。「放射性物質は艦外には搬出されない」とのエード・メモワールの約束が反故にされたことは明白です。横須賀基地に「放射能管理作業施設」がすでに建設されているとの情報(米下院公聴会)とも併せ、横須賀基地の原子力基地化が急ピッチで進んでいると言えます。
 4月14日、私たちは外務省に対し、この一連の作業の詳細と情報の確認を求めましたが、「米軍がファクトシートの範囲内と説明しており、問題はない」とし、『ファクトシート』の欺瞞性を追認するような姿勢に終始しています。この問題を徹底的に追及し、横須賀母港化の撤回に向けて運動を進める必要があります。

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「つくる会」教科書を考える(2)
歴史のグローバル・スタンダードを無視するな!

 「つくる会」教科書批判の2回目は、日本の侵略戦争をどのような視点で書いているかに焦点をあてます。

アジア解放の聖戦とうたう
 「つくる会」の機関誌「史(ふみ)」の今年3月号で、上杉千年理事は「教科書の採択率は僅少だが、他社の教科書に大きな影響を与え、『従軍慰安婦』ということばは中学校歴史教科書からは一掃した」と主張しました。この教科書を出版する意義が端的に表れています。
 戦後、連合軍によって行われた「東京裁判」は、日本の侵略戦争を弾劾し「平和に対する罪」で日本の戦争指導者を裁きました。「つくる会」教科書は、「この罪は法の不遡及の原則に反し、裁判官・検察官は連合国側、証拠の採用などは不平等」「日本は悪い国、連合国は正義との宣伝が行われ、戦後の日本人に大きな影響を与えた」と、裁判そのものを否定しています。
 同教科書は、旧日本軍の行った蛮行を極力隠蔽し、15年戦争そのものが、欧米列強の圧力の中での「防衛的戦争」であり、アジアを欧米列強の植民地支配から解放する聖戦であったと美化・肯定する立場に貫かれています。「1943年11月、大東亜会議で大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別の撤廃をうたいあげた」としています。この会議以降、「日本は大東亜共栄圏の建設を、戦争の目的としてより明確に掲げた」と教科書は記述しますが、これは開戦当初の主張ではなく、戦争の末期に打ち出された全く実質を伴わない主張なのは明らかです。

自分の主張に都合のよい記述


出撃前の若き特攻隊員(太平洋戦争末期)。
この悲劇を繰り返すな!

 この教科書が、日中戦争に至る過程で強調するのは、「ソ連の暴力革命の影響で日本人を襲撃する排日運動も過激になった」「幣原首相は協調外交を進め中国に配慮したが、排日運動はおさまらなかった」「満州での日本人が受けていた不法行為の被害」など、歴史事実の一面のみを捉え、あたかも日本が正当防衛であるかのように書かれています。
 1941年の対米開戦も同様に、ABCD包囲網などの経済封鎖を理由としています。「日本は米英に宣戦布告し、この戦争は『自存自衛』のための戦争であると宣言した」というように、侵略戦争は列強の圧力によるものとして肯定しています。日本軍の東南アジア進出も、「日本軍の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育てた。東南アジアにおける日本軍の破竹の進撃も、現地の人々の協力あってこそ可能だった」「現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力した」などと書いています。侵略した日本軍が、あたかも好意的に受け入れられたかのような記述は、現在の東南アジア諸国から支持される余地はありません。

無視する戦時下の日本国民の被害
 戦争下の日本人の辛苦も「日本の将兵は、この戦いに国の将来がかかっていると信じてよく戦った」「あらゆる物資が不足し、生活用品は窮乏をきわめた。しかし、このような困難な中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」として、戦争の実相を無視しています。食糧不足と勤労動員、度重なる空襲、そして「非国民」という言葉が象徴する言論統制という状況下で、戦い、働かざるを得なかったという発想はありません。
 1998年に結ばれた日韓共同宣言では、「両首脳は、両国国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要であることについて見解を共有し、そのために多くの関心と努力が払われる必要がある旨を強調した」としています。ここに言う「歴史」は、「つくる会」教科書が書いている歴史ではあり得ません。
 国際化社会の中にあって、日本の将来を担う若者が、歴史のグローバル・スタンダードを理解せず、国際社会の一員として活躍できるのでしょうか。政府見解をも無視する教科書を、検定合格とする教科書審議会・文部科学省の姿勢も問題です。

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食品への放射線照射に反対する署名運動に協力を
危険で不必要な照射食品はいらない!

食品衛生法で禁止 原子力委員会が強力に推進
 平和フォーラムも参加し、主婦連合会や東京地婦連、日本消費者連盟、生協など、多くの消費者・市民団体等で構成する「照射食品反対連絡会」(06年6月結成。52団体参加)は、現在、厚生労働大臣宛の「食品に放射線を照射することに反対する署名」運動を行っています。
 放射線照射食品とは、殺菌・殺虫・発芽阻止を目的として、電離放射線(コバルト60から出るガンマ線など)を当てた、いわば被曝した食品です。日本では唯一、一部のジャガイモの芽止めだけに認められていますが、あとは全て食品衛生法で禁止されています。
 しかし、2006年に、内閣府原子力委員会が放射線照射食品の推進を検討するよう厚生労働省などに通知し、特に、野菜を含む94品目の香辛料への許可が図られようとしています。
 「照射食品反対連絡会」はこれまで、厚労省、食品安全委員会への申入れのほか、1万人以上のアンケート調査や関連業者へのアピール、国会での質問などの反対活動を続けて、認可を阻んできました。しかし、原子力委員会の報告からすでに3年近く経過をし、現在、照射食品が許可されるかどうかの瀬戸際に立つ状況となっています。そのため、署名活動を行い、改めて反対の声をあげていくことになりました。

照射すると新しく危険物質ができ、検知法がない


米の保管倉庫
北海道産のジャガイモの一部で放射線照射が認められている。
しかし、こうした表示はほとんどみられない(厚生労働省HPより)。

 放射線を食品に照射すると、被曝した食品は成分が変わり、ビタミン類など栄養素は破壊され、新しい物質も生じます。なかでも被曝によりできる「シクロブタノン類」は、ネズミの実験で大腸に多数のガンをつくるとの報告があります(仏パスツール大学、2002年)。
 さらに慢性毒性実験をすれば、他の臓器にもガンをつくる可能性があります。また、子孫への影響も危惧されますが、厚生労働省はそのような試験をしようとしていません。こうした実験やデータをすべて整理し、検討すべきです。
 そのうえ、その食品が照射されているかどうか、その照射線量・回数を調べる方法(検知法)もありません。それでは、有効な管理も監視もできず、乱用・悪用も防げないことになります。

原子力の商業利用は、消費者には不必要で危険
 消費者へのメリットとして強調されることに、食品の腐敗や食中毒を防ぐことがあげられています。しかし、照射が認められているジャガイモでは、逆に照射によって抵抗力が無くなって腐りやすくなると報告されています。食中毒も、その原因の多くは原料段階よりも加工・流通段階での二次汚染にあります。照射ではそうした汚染を防ぐには限界があります。
 こうしてみると、照射食品にメリットがあるのは、原子力産業界とごく一部の流通業者、輸出入に関わる企業だけです。消費者に責任ある食料品を供給する生産者、製造者、多くの流通業者にはまったく必要ありません。危険で不必要であるにもかかわらず、原子力の商業利用として食品への放射線照射が進められようとしていることに歯止めをかけるために、署名運動を広範に進める必要があります。
 署名は、前述の理由から、「消費者が照射食品の認可へ向けた動きに強い懸念を持ち、食品に放射線を照射することに反対し、国民の最も基本的な権利である食の安全を求める」として、厚生労働省に提出することにしています。
 今年の8月末を集約として進められ、次のホームページから署名用紙をダウンロードもできます。このホームページには照射食品の問題点を解説したリーフレット資料もあります。
http://sites.google.com/site/noshousha/home/sign

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被爆64周年原水爆禁止世界大会の概要決まる
核廃絶、ヒバクシャ援護、脱原発を柱に

ヒロシマ・ナガサキが一瞬にして惨状と化した原爆投下から64年目の今年、原水爆禁止世界大会は、8月4日から9日にかけて、広島・長崎の2つの被爆地で開催されます。今年も核兵器廃絶、ヒバクシャの援護・連帯、脱原発の3つの柱を中心に、学習・報告・討論・フィールドワークなどが展開されます。

東北アジアの安全保障と非核化で国際会議
 今年の国際会議は、「東北アジアの安全保障と非核化」をテーマに開催します。今年5月の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「人工衛星」発射問題や、それに対する日本政府による北朝鮮への経済制裁の実施、六ヵ国協議の停滞など、ますます東北アジアが不安定化しようとしています。一方で、米オバマ政権の誕生により核軍縮の動きが今後どのように東北アジアに影響を与えるのかも注目すべきところです。
 核不拡散条約(NPT)再検討会議を来年に控え、日米韓中の市民団体代表により東北アジアの安全保障問題の動きと、非核地帯構想にどのような展望を持つのかを議論します。今年の国際会議は、全国からの参加者が国際会議の議論に加われるように、広島大会の中(8月5日)に組み込みました。多くの参加を期待しています。

3つの課題で広島・長崎大会


昨年の大会での分科会の様子(08年8月5日・広島)

 広島と長崎大会では、現在直面している運動課題に重点をおいて分科会やフィールドワークが行われます。
(1)核軍縮・平和の課題
 核兵器廃絶をめぐって国際的には大きな流れが起こりつつあります。かつて核兵器保有国の核政策を担っていた人たちや、核大国のアメリカのオバマ大統領も「核兵器なき世界を」と訴えはじめています。核廃絶・軍縮へ向けた絶好の機会でもあります。
 しかし、一方で、東北アジアをめぐる情勢は、北朝鮮の核実験やそれに対する偏狭なナショナリズムの噴出が懸念されています。さらに米軍再編成、原子力空母の横須賀母港化、MD防衛の推進、そして自衛隊の海外派兵など、「戦争する国・日本」へとキナ臭い動きが続いています。その流れを断ち切り、どのように東北アジアの平和と安定を創出するのかを提起し、議論します。

(2)ヒバクシャの課題
 広島・長崎の原爆被害によってもたらされた被爆の実相を伝えるとともに、原爆症認定訴訟、在外被爆者、被爆二世・三世などの残された課題の解決に向けた動きをどうつくり出すのかを中心に報告や討論を行います。高齢化した被爆者に残された時間は限られています。直接、被爆者から訴えられる被爆の実相と核廃絶への訴えなどに耳を傾けてください。
 さらに世界に広がる核被害の実態を知るため、この間、原水禁世界大会でも連携を深めてきたフランスの核実験被害の研究者(ポリネシア滞在)をゲストに迎え、その実態報告とともに、フランス本国で進められている被害者への補償の動きと原水禁世界大会の果たした役割について報告があります。

(3)脱原発の課題
 今年10月3日に東京・明治公園でエネルギー政策の転換を求めて「10.3 NO NUKES FESTA 2009」が取り組まれます。脱原発やエネルギー・環境問題に取り組む市民やNGOなどの総結集をはかります。それへ向けて原子力政策の転換の必要性や各地の運動の状況報告を行います。
 特に原子力政策の転換では、プルトニウム利用政策の転換に焦点をあて、秋期以降に動きがはじまろうとしている玄海・伊方・浜岡の各原発などでのプルサーマル計画の実施や、六ヶ所再処理工場の本格操業、福井のもんじゅ再稼働の動きなどの問題点を訴えます。さらに、地球温暖化防止の切り札としての原発推進の虚構を明らかにし、自然エネルギーの推進などの対抗的なエネルギー政策の必要性を訴えます。

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プルサーマルの破綻と六ヶ所再処理工場の現状
事故・トラブルの連続 本格操業は大幅延期
原子力資料情報室 澤井 正子

8月の操業予定も不可能に
 アクティブ試験が続く六ヶ所再処理工場では、07年11月から開始されたガラス固化体製造試験で事故・トラブルが続発し、日本原燃の場当たり的対応でさらに新たな事故を生み出すという悪循環が続いています。
 そのために、工場の本格操業開始時期の延期を8回も繰り返しています。現在の操業予定である09年8月も事実上不可能であり、さらに大幅な延期が確実となっています。

ガラス溶融炉に構造的欠陥

 試験失敗の最大の原因は、ガラス溶融炉の構造的欠陥です。下図のように六ヶ所再処理工場のガラス溶融炉は、縦3m×横3m×高さ3mの大きな漏斗のような形状です。漏斗の中で高レベル放射性廃液とガラスビーズを高温(1,100℃以上)で溶かし、炉の下部に設置したステンレスキャニスターに流下させ、冷却して高レベルガラス固化体が製造されます。
 六ヶ所再処理工場のシステムのほとんどはフランスのラ・アーグ再処理工場から輸入しましたが、このガラス固化技術だけは東海再処理工場から導入しました。東海工場のガラス溶融炉では、高レベル廃液中の白金族元素(ルテニウムなど)がガラスとうまく混ざらずに炉の下部に堆積し、溶融ガラスの流下を妨げる事態が頻発していました。ところがこの未熟な技術を、経済性の要求から六ヶ所用に単純にスケールアップし、ガラスも形状の違うものを使用するなどして、さらに問題を大きく複雑にしています。

高レベル廃液も漏えいしていた
 この間に様々な事故・トラブルが発生しました。最初に白金族元素が堆積しました。これに対し日本原燃が考案した対策は、棒で「かき混ぜる」という方法で、「撹拌(かくはん)棒」なるものが溶融炉上部に設置されました。しかし、かき混ぜを行ったら、今度はこの棒が曲がって抜き出せないという事故が発生しました。低粘性流体と呼ばれるモリブデンなどを含む物質が流下ノズルを塞ぎ、試験がわずか32分で中断したこともあります。さらに溶融炉内の天井部分の耐火レンガ(約6キロ)が脱落していたことが確認されました。
 09年1月には高レベル廃液を溶融炉に送る配管の閉止フランジから、約150リットルもの高レベル廃液が漏えいしていることが確認されました。そのうち回収されたのは約16リットルだけでした。残りの高レベル廃液について、日本原燃はセル内で蒸発したとしています。実はどこへ行ったのかわからないのです。しかし放射能はセル外に漏れていないので、安全上問題はないというのが国や日本原燃の考え方です。再処理工場の危険性は限りない、ということがこれらの事故・トラブルでよくわかります。

電力会社もプルサーマルは「必要なし」
 六ヶ所再処理工場の混迷が続く6月2日、近藤駿介原子力委員会委員長は、「公表されている数字が現実に照らして納得感がないと透明性があるとは言えない」として、プルトニウム利用計画の修正を要請しました。
 この政府のお墨付きを得て、各電力会社はわずか10日間で、今まで2010年までに16~18基で実施としてきたプルサーマル計画を、5年延期し「2015年までに実施」と公表しました。今年の3月、電気事業連合会は、「不退転の決意で実施」と青森県で説明していたにもかかわらず、です。
 短期間で計画を5年も簡単に延期できるということは、プルサーマルやプルトニウム利用が、エネルギー政策的にも社会的にも何の寄与もしていないことを証明したも同然ではないでしょうか。プルサーマルも再処理工場も、「必要なし」と国や電力会社自らが言っているようなものです。

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失われる北朝鮮との対話の手がかり
高まる軍事的対決論とPSI

ブッシュ前米大統領が呼びかけたPSI構想
 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による、4月5日の「人工衛星」発射、5月25日の2度目の核実験を機に、日米韓3ヵ国と北朝鮮の間で軍事的強硬論が強まっています。北朝鮮政策が定まっていない米国に対して、日本と韓国は共同して米国を巻き込んでいったようにも思えます。
 日本では早くから北朝鮮に対する基地攻撃論が出ていましたが、自民党国防部会・防衛政策検討委員会では、今年末に予定されている新「防衛計画の大綱」(2010~14年度)の閣議決定に向け、敵基地攻撃能力の保有や早期警戒衛星の研究・開発を求めることなどを盛り込んだ提言案をまとめました(5月24日共同電)。
 韓国も北朝鮮のミサイル発射以降、「大量破壊兵器等の拡散に対する安全保障構想」(PSI)への参加を表明していましたが、核実験が行われた翌日の5月26日には正式にPSIへの参加を決定しました。
 PSIはブッシュ前米大統領が、03年5月31日にポーランド・クラコフで「大量破壊兵器の拡散を阻止するため、航空機、船舶の臨検を可能にする『拡散防止構想』(PSI)を作ろう」と演説し、日本、英国、オーストラリアなど10ヵ国に呼びかけてスタートしました。現在はロシアなども参加していて、参加国は20ヵ国を数えました。08年までに30回を超える訓練が行われ、日本が主催国となった訓練も04年10月、07年10月に行われています(外務省では、「95ヵ国がPSI活動の基本原則や目的に対する支持を表明し、実質的にPSIの活動に参加・協力している」としています)。
 しかし、PSIは当初から北朝鮮やイランを対象としたものであるため、中国や韓国は参加せず、また公海上の臨検は国際法に違反する上、国連で認められたものでもないため、実際には一度も実施されてきませんでした。その意味で米国大統領の交代を機に、PSIは見直されるべきでした。
 そのPSIに韓国が参加したのですから、北朝鮮は強く反発し、朝鮮人民軍板門店代表部と祖国平和統一委員会は、韓国のPSI参加は「宣戦布告と見なす」、船舶臨検などには「軍事的に対応、報復する」と、それぞれ声明を発表しました。さらに軍の声明では、PSIが「朝鮮戦争休戦協定の否定」で、北朝鮮は同協定に「もはや拘束されない」とまで述べています(5月27日共同電)。

国連決議にPSIへのお墨付きを求めた日米韓
 米国がPSI継続の意志を示し、韓国が新たに参加を表明した時点で、6ヵ国協議の再開はほぼ不可能になったと言えます。
 日米韓は国際法に違反するPSIに対して、「国連決議」というお墨付きを求めたのです。6月12日の国連決議では、「全加盟国に対し、決議1718や本決議で移転が禁止されている品目を含む貨物を積んだ船舶とみなす合理的な理由を示す情報があれば、船舶の旗国(船籍国)の同意の下、公海上での船舶検査を要請する」ことが上げられました。
 これは、当初の「義務化」から「要請する」との表現に変わりましたが、この国連決議によって、北朝鮮に出入りする船舶が臨検を受け、紛争に発展する危険は大きいと言えます。日本の自民党などで出ている敵基地攻撃論なども含めて、紛争から戦争へと発展する危険への認識のなさに、強い危惧を抱きます。
 平和フォーラム・原水禁は北朝鮮の核武装を絶対に容認することはできません。核実験にも強く抗議しています。改めて、東北アジアの非核化と、各国の平和的な共生を求めていく必要があります。

「核の傘」の明確化がもたらすもの
 6月に訪米した李明博・韓国大統領は16日にオバマ米大統領と会談します(現時点ではその内容は不明)。それに先立ち、グレグソン米国防次官補(アジア・太平洋安全問題担当)は6月9日、共同通信記者などと会見した席上、北朝鮮の核・ミサイルの脅威に対応するため「日米韓で密接な協議を続けながら新たなアプローチを模索している」と述べ、米の「核の傘」のより明確化が協議されていると語りました。このような米韓共同声明が出されるとしたら、それは05年9月19日の「朝鮮半島の非核化をめざすとした」共同声明を否定するものです。
 なぜオバマ政権は、北朝鮮政策を早く出さなかったのか? なぜ北朝鮮はいま少し辛抱強く米国の対応を待てなかったのか? 後追いの理由付けをしても仕方ないことですが、今後は中国の粘り強い働きかけで、米朝会談が実現し、朝鮮半島の非核化が実現することを待つ以外に方法はないかもしれません。
 そこに日本が介在する余地はないでしょう。これまで対話と圧力と言ってきた日本は、実質的に対話の手がかりをまったく持っていません。今後、日本で政権が交代し、新しいアプローチが可能かはまだ不明です。
(6月15日記)

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【本の紹介】
海の向こうの被爆者たち
平野 伸人 編著


八月書館刊

 被爆者・原告の18連勝という原爆症認定訴訟の経緯の中でいま全面解決が迫られていますが、ヒロシマ・ナガサキの被爆者をめぐる課題は、他にも被爆体験者、被爆二世・三世の課題などが残されています。被爆後63年を経ても、いまだ被爆者の課題は残され、援護と補償を求める声は続いています。
 その中でも、日本の戦争責任・戦後責任ともからんで在外被爆者の課題は、これまで放置されてきました。被爆による後障害、貧困、被爆への無理解など、日本の国外にいる被爆者を取り巻く状況は、国内の被爆者と全く違った位相に戦後の長い間おかれ続けてきました。その被爆者たちが声を上げたのは、1970年代に入って韓国の被爆者の孫振斗さんの事件がきっかけでした。その後、在外被爆者たちは、日本で裁判を起こし、勝利した分だけ権利が前進するというもので、抜本的な対策も取られず、長く苦しい闘いを積み重ねてきました。こうした人たちの闘いの軌跡を綴った「海の向こうの被爆者たち」が、永年、在外被爆者に寄り添い、活発な支援を続けてきた長崎の平野伸人さんらによって上梓されました。
 この本は、「在外被爆者問題の理解のために」と副題にもあるように、在外被爆者問題全般を網羅的に解説し、歴史や裁判の経緯などともに、裁判を起こした人々の声を取り上げ、格好の入門書です。まだまだ国内と国外で援護に差別があります。しかし、「被爆者はどこにいても被爆者」であり、その存在は国によって変わるわけではありません。高齢化する被爆者に残された時間は少なくなっています。在外被爆者の課題を考え、解決にむけた動きが私たち日本に求められています。そのことをあらためて考えさせられる一冊です。
 なお、昨年12月から実施された在外公館での被爆者健康手帳申請の第1号となった韓国の鄭南壽(チョン・ナムスン)さんが5月25日に亡くなられました(88歳、本誌2月号で詳報)。ご冥福をお祈りします。
(井上 年弘)

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【映画評】
ミルク
(08年/アメリカ/ガス・ヴァン・サント監督)

 米国で初めて、同性愛者であることを公表して公職に就いた、ハーヴィー・ミルク。1986年のドキュメンタリー「ハーヴェイ・ミルク」も映画史上の記念碑とも言えるものだったが、今回の作品は主演ショーン・ペンに二度目のアカデミー賞をとらせ、ガス・ヴァン・サント監督も復活をみせた作品だ。
 40歳になるまで、何も意味あることをしてこなかったと嘆くハーヴィーは、パートナーや友人に恵まれ、自分の心の声に従って生きることを選ぶ。ゲイに対する警察の理不尽な扱いへの抗議、家族からも理解されない若いゲイへの助言、ベトナム反戦運動への関わり、またサンフランシスコに移って開いた店をゲイや他のマイノリティのたまり場にする事などを通して、社会に積極的に関わっていく。
 選挙に何度も挑戦するが、毎回落選。しかし希望を失わない彼の生き方の鍵は「カミングアウト」。自分の持っている根本をねじまげることではなく、家族や社会に表明し、認めさせること。差別を受けている同性愛者、とくに若い人には難しいことを勧める裏には、社会への基本的な信頼と希望がある。
 ようやく市政執行委員(日本の市議会議員に近い役割)に当選するが、そこで対立した同僚ダン・ホワイトの描かれ方は対照的だ。社会的に認められる伝統的価値観を体現する立場ながら、内側に抑圧したもので表情を殺している。差別意識の裏側にある自分の優位が否定されたときにそれが爆発するのだが……。
 市政執行委員となったミルクは、元準ミスアメリカのアニタ・ブライアントらが先導するキリスト教右派を中心にした、同性愛者の教員を解雇する「法案6号」を通す動きに対抗。カリフォルニア州の住民投票で劇的な逆転を勝ち取った。
 住民投票の勝利で全米的に有名となったミルクは、マスコーニ市長と共に、ダン・ホワイトに撃たれて死亡する(1978年11月、48歳)。ミルクの死後30年、カリフォルニア州で同姓婚を禁止する「法案8号」が可決された。
 運動の起こった現地で撮影しただけあり、差別されたものたちが、生きるための権利を主張するデモの熱気がリアルに伝わってくる。
 (金生 英道)

◎現在、全国で上映中。
映画の公式サイト http://milk-movie.jp/main.html

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投稿コーナー
5.18光州民主化闘争29周年記念式典に参加して
長崎県平和運動センター青年女性協議会 事務局長
本田 新太郎

 民主化を求める活動家とそれを支持する市民や学生、労働者に戒厳軍(韓国軍)が発砲し、多数が虐殺された韓国の「光州事件」(1980年5月18日~27日)から29周年を迎え、光州市の国立墓地で開催された「5.18光州民主化闘争29周年記念式典」に参加しました。

韓国の民主化闘争の原点
 韓国の民主化闘争の原点と言われる光州事件について事前学習をして、今回の式典に参加しましたが、現地に赴き資料館や生存者の証言を聴取していくうちに、29年前にこんな残酷なことが行われたのかと素直に受け入れることはできませんでした。想像を絶する凄惨な歴史がそこにはあり、二度とこのような過ちは繰り返してはならないと胸に刻みました。
 当時、光州市は無政府状態であったものの市民の自治が機能し、治安と秩序は維持されていましたが、戒厳軍の不法に政権獲得をはかった暴走により罪もない多くの市民が犠牲になりました。犠牲者数は、現在判明しているだけで約200人、未だに真相が究明されておらず、1,000人以上が犠牲になったとも言われています。
 その後、全斗煥など当時の軍指導者が追及され、犠牲者や負傷者に対する補償金が支給されるなど、一定の名誉は回復されました。しかし、事件の後遺症により、PTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、アルコールや睡眠薬を飲まないと眠ることができない人や自殺に追い込まれる人も少なくありません。
 また、戒厳軍に抵抗する市民が最後までろう城し、たたかい続けた全南道庁の庁舎の一部が、国立施設を建設する再開発計画により撤去される予定となっており、遺族や市民団体、関係者による取り組みが進められています。

韓国の民主化闘争の原点
 韓国の民主化闘争の原点と言われる光州事件について事前学習をして、今回の式典に参加しましたが、現地に赴き資料館や生存者の証言を聴取していくうちに、29年前にこんな残酷なことが行われたのかと素直に受け入れることはできませんでした。想像を絶する凄惨な歴史がそこにはあり、二度とこのような過ちは繰り返してはならないと胸に刻みました。
 当時、光州市は無政府状態であったものの市民の自治が機能し、治安と秩序は維持されていましたが、戒厳軍の不法に政権獲得をはかった暴走により罪もない多くの市民が犠牲になりました。犠牲者数は、現在判明しているだけで約200人、未だに真相が究明されておらず、1,000人以上が犠牲になったとも言われています。
 その後、全斗煥など当時の軍指導者が追及され、犠牲者や負傷者に対する補償金が支給されるなど、一定の名誉は回復されました。しかし、事件の後遺症により、PTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、アルコールや睡眠薬を飲まないと眠ることができない人や自殺に追い込まれる人も少なくありません。
 また、戒厳軍に抵抗する市民が最後までろう城し、たたかい続けた全南道庁の庁舎の一部が、国立施設を建設する再開発計画により撤去される予定となっており、遺族や市民団体、関係者による取り組みが進められています。

市民、労働者が歴史の主体になる


光州闘争の犠牲者の写真が並ぶ記念館を見学する
川野浩一原水禁議長(09年5月18日・光州)

 記念式典には李明博大統領は欠席しましたが、韓昇洙首相が「光州民主化闘争は、市民の力で韓国の民主化を成し遂げた輝かしい歴史である」と演説されたように、市民が民主主義社会を構築するための原動力だったことを再確認する機会となりました。
 さらに、記念式典で確認された「5.18精神の意義」である1)民主主義を守るために暴圧と不義に抵抗して起こった市民抗争、2)抑圧からの自由と人間の天賦的権利擁護及び民主主義、人権を尊重しようとする精神も現地で学ぶことができました。
 29年前の5.18光州民主化闘争は、民主化を求めて立ち上がった市民、労働者自らが歴史の主体であり、自分たちの権利を守ろうとする強い意志が噴出したものであることや、自覚ある市民、労働者が民主主義社会の発展の原動力であることを確認する契機となり、さらには不義の独裁を拒む民主化闘争が合法性と正当性を備えていることを確認することができました。

平和や民主主義は自ら勝ち取るもの
 現在と過去はしっかりとつながっていることを歴史の事実や闘争から学び、平和や自由、民主主義は、政府・権力者側から与えられるものでなく、自分たちで勝ち取るものだということを痛感させられました。
 言葉や文化は違っても、みんなが平和な社会をつくろうという気持ちが集まれば大きな力になると確信しました。常に問題意識を持ち続け、過去の歴史としっかりと向き合い、一人でも多くの仲間に語り継いでいくことが、二度と悲劇を繰り返さないことになり、そのことが平和運動・労働運動の第一歩だと思います。
 平和な未来を勝ち取るために、光州民主化闘争や被爆体験の継承など、起こった事実を正しく学び、記憶し、次世代へきちんと伝えていかなければいけないのが、戦争を知らない私たちの世代であると痛感します。
 私たち労働者の力がひとつになれば、政治を変え、社会を変えることにつながり、そして、平和な社会を構築することができるという自信が湧いてきた旅となりました。

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《被爆64周年原水爆禁止世界大会の主な日程》

◆国際会議
【8月5日】13:30~17:00 広島・アークホテル
ゲスト:アメリカ、韓国、中国、日本の代表

◆広島大会
【8月4日】
◎折鶴平和行進 14;45~16:15(平和公園~県立体育館)
◎開会総会 16:45~18:30 グリーンアリーナ

【8月5日】
◎分科会 「平和と核軍縮」「ヒバクシャを生まない世界に」「脱原子力社会をめざして」など
◎ひろば・フィールドワーク/平和シンポジウムin広島
◎子どものひろばとメッセージfromヒロシマ2009
【8月6日】広島まとめ集会

◆長崎大会
【8月7日】
◎開会総会15:45~18:00 長崎県立体育館

【8月8日】
◎分科会「平和と核軍縮」「ヒバクシャ」「脱原子力」など
◎ひろば・フィールドワーク/若者、子ども関連行事/平和のシンポジウムin長崎

【8月9日】
長崎まとめ集会/平和行進

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