ニュースペーパー
2020年05月01日
ニュースペーパーNews Paper 2020. 5
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古い言葉だとお思いでしょうが…、
「団結」・「連帯」こそが大事じゃございませんか
今月号は沖縄関連の特集といえますが、通底しているのは「団結」・「連帯」の重要性についてです。新型コロナウイルス感染症の拡大にともない、緊急事態が宣言されました。現実の実態は強制力がないようにみえますが、行政権による「独裁」の状態が作られたことにかわりはありません。この「独裁」のなかで、私たちは、はたしてまっとうな議論ができるでしょうか。むしろ、「独裁」権力に従おう、もっとちゃんとやってくれと自ら権力に自由を預ける方向に人々が向かいつつあることが空恐ろしい。まさに『自由からの逃走』です。
そして、権力に従わないものに対する弾圧、それに対する傍観と異端視。かつてあった社会状況を生み出す要素がいま、生まれつつあるのではないかと危惧します。
このコロナ騒動、そして今後展開されるかもしれない社会変動に対抗していくために、言い尽くされ、古くさいかもしれませんが「団結」・「連帯」ということを改めて強調したいと思います。もちろん上から求められるものではありません。権力を笠に着ることなく、正義を振りかざすこともなく、従順への強制に対する批判を媒介にして、具体的な生活圏、身近な社会の中から労働者、市民、生活者が自ら紡ぎ出すものとしてです。(写真は第2回県民大会 1979年5月15日 那覇市与儀公園)
5月号もくじ
- どんな状況でも声を上げ続けていくことが大切
青木 初子さんに聞く - 軍事化が進む南西諸島
- 辺野古新基地建設反対運動の現状と課題
- 沖縄平和行進とは? その歴史と意味を振り返る
- 新型コロナウイルス感染症拡大の、その先を考えて
どんな状況でも声を上げ続けていくことが大切
インタビュー・シリーズ:156 青木 初子さんに聞く
あおきはつこさんプロフィール
沖縄出身
沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック
部落解放同盟東京都連合会品川支部
─最初に沖縄での子どもの頃のことをお聞かせください。
父は強制労働で大阪に行き、そこで好きな女性ができました。敗戦後、単身で沖縄に帰ってきた父は、しばらくしてその女性を大阪から呼びました。その時、母は私を妊娠していて、もうすぐ生まれるという時期でしたが、父は家から追い出したのです。友達の産婆さんが、私を取り上げてくれましたが、母は豚小屋で産んだと言っていました。ですから、私は父親と暮らしたこともなくて、父親に対しては何の思い出もなく育ちました。私の上に3人の兄姉がいますが、いちばん上の姉は沖縄戦で亡くなり、平和の礎に名前が刻まれています。母は父の家から逃げてきた兄と姉も引き取り、野菜の行商をして私たちを育ててくれました。近所でも最も貧しい家庭でした。母にご飯を作ってもらったという記憶はなく、料理は子どもの仕事でした。私は、高校を卒業すると沖縄で実施されていた本土の大学への留学で、1966年、パスポートをもって新潟大学歯学部に入学しました。お金を儲けて母に楽をさせたいという気持ちでした。しかし、中途退学してしまい、しばらくは敷居が高くて家に帰れませんでした。
大学中退後、東京に出てきました。1970年頃です。そこで労働運動と部落解放運動をやっている夫と知り合いました。はじめの頃は、部落差別と言っても、「何が部落だ。部落だって日本じゃないか」という反発心がありました。部落解放運動のなかで、1980年に品川区の学校用務員として採用されました。現業の定年制が敷かれ、多くの年配者が切られ、新たに新規採用が行なわれたころでした。私が部落解放同盟ということで、ほかの職場から「部落解放同盟の人ってどんな顔をしているのか」と私を見に来た人もいました。「沖縄って、英語を話しているの」と質問されたこともありました。
そのころ学校警備に対する合理化案が提示されていて、それに対する組合の案に私は納得がいかず、いま反対の声を上げないと後悔すると思って、「現場の声」という機関誌をつくり発行、全学校職場に配布し、執行部の提案に反対しました。闘わずに、自ら合理化することに納得いかなかったのです。職場の用務の仲間は私を応援してくれました。組合運動をやるために入ったわけではありませんが、執行部に反対してやらざるを得ませんでした。その後、上部団体の自治労か自治労連かの路線選択のたたかいもあり、学校用務協議会の事務局長として多くの仲間に支えてもらいました。
─青木さんの中にどうしてそういう闘志が湧いてくるのですか。
部落問題や労働問題もそうですが、差別に対する怒りです。「ふざけるんじゃない!」「ばかにしているのか!」という怒りです。学校に入るまでも、全国一般南部のパートの組合を作って、身分保障せよとたたかったりしていました。学校現場は、校長が頂点のピラミッド型になっていて封建的なところがありましたね。あらゆるところで用務員の声がなかなか上に届かない、無視されてしまう。そういう理不尽なことに対する怒りです。生意気でしたね。花壇で草取りをしていたときに、校舎の上の階から子どもに唾を吐きかけられたときは、三階まで駆け上がっていき、怒鳴りつけたこともあります。でも、子どもたちは真剣に向き合えば、ちゃんと応えてくれました。
─沖縄復帰のときのことを教えてください。どのようにお考えでしたか。
初めは平和憲法のもとに戻るんだと思っていましたね、本当に。日本に帰ったら基地がなくなるんだと。今は「日の丸・君が代・元号」に反対しているが、その時は単純に「日の丸」は祖国復帰の象徴だったんですよ。「君が代」も歌ったことがなく、知りませんでした。それが「即時無条件全面返還」ではなく、基地はそのままだということがわかり、ベトナム戦争もあり、反戦復帰、復帰反対に変わっていきましたね。屋良朝苗主席が沖縄県の意見をまとめて建議書として国会に持って行ったときも、政府は抜き打ちに強行採決し、まったく無視して議論すらしなかった。2013年1月の「建白書」と同じです。今も続く「沖縄の民意無視」の抑圧です。憲法の上に、日米安保条約があって、地位協定があって、その中での復帰という仕組みの矛盾。あのときの学生たちは問題意識としてみんなが持っていたと思います。私もその中のひとりです。
─その世代がこの日米安保60年の年に、あまりものを言わないと機関紙のコラムに書きましたが、そうは思いませんか。
そのとおりです。システムの中に埋没しちゃって、いいおじいちゃん、おばあちゃんになってしまっています。私たちのときから今に至るまで、本当の教育というのがなされていないのではないでしょうか。とうとう道徳教育までやられるようになって。ものを言わないような、物事を知らせないような教育、そのほうが権力には都合がいいんですね。難しい問題を避けて、生活が豊かになることがよいとされてきているので、自民党の教育が功を奏しているのかもしれませんね。
2月11日の「建国記念の日」に反対する集会に参加したときに、いちばん印象に残ったのが日韓の高校生のディスカッションでした。平和大使にもなった日本の高校生が、疎外されるのが心配で友だちの中で政治の話とか集会の話ができないということに大変驚きました。韓国では普通に話せることが日本の高校生は友だちにもその話ができない。そういえば、地域でも政治の話がタブー視されていますよね。「愛知トリエンナーレ」どころではなく、私たちは日常的に表現の自由が保障されていないのではないか。自民党支持ならOK、天皇制万歳ならいいけれど、ほかの権力に反する話は一切ご法度ということが暗黙のルールになっているのではないか。今年は天皇代替わりがありましたが、ましてや天皇制批判などご法度ですよね。憲法の思想信条の自由、表現の自由が保障されていないことに危機感を覚えます。
もうひとつ左翼といわれている、いまの政権に反対する人たちにも問題があると思います。先日も法案に反対して自分だけ起立しなかった立憲民主党の議員が、離党届を出したという報道がありました。このことにも私はとても腹が立ちました。いろいろな考えがあって、ぶつかりながらでも団結しなければ闘えないんです。自民党を割るくらいにしないといけないのに、こっちが割れてどうするのだという思いです。巨大な自民党があって、反対勢力はほんとうに小さいのに、その中で喧嘩して更に小さくなって。なにをやっているんだと怒りがわきます。地をはうようにたたかっている人たちがいるのに。
こういうことでは安倍政権を崩せない、いつまでたっても自民党がなくならない原因のひとつではないでしょうか。民主党の鳩山さんが総理になったときにもみんなが痛烈に批判したでしょう。はじめて政権をとって、うまくいくわけはない。それを支援していかなければならないのに、足をひっぱってどうするんだと。いろんな問題がありながらも、反自民の政権を作っていかなきゃならないのに。
─私もそう思います。次に沖縄の運動についてお聞かせください。
辺野古の工事が始まった時に、銀座や有楽町でバナーを持ってスタンディングを始めました。解放同盟の仲間が後押しをしてくれ、私は沖縄問題で発言するようになりました。そして、仲間と共に南部の会という個人加盟の小さな組織を作りました。翁長さんや山城さんが国連でスピーチをしたとき、反差別国際運動の国連ジュネーブの事務局が大きな役割を果たしました。それは1988年に部落解放同盟が立ち上げた日本で初めての人権NGOです。その反差別国際運動がすごい力になっているということを知ったとき、部落解放運動ってなんてすばらしいんだろうと感動しました。そして自分が解放運動をやっていることに改めて誇りを持ちました。
─安倍政権の沖縄政策、安倍政権になってから辺野古も含めてものすごく強行にやり始めたという印象があります。安倍政権の沖縄政策というのはどのように思っていますか。
税金を湯水のように使って武器を爆買いして、辺野古にしても、軟弱地盤があることがわかっていて、崩壊するかもしれないと指摘されているのに、とにかく基地建設を強行する。三権一体となって沖縄の民意を踏みにじっています。それは安倍政権になってあからさまに見えただけで、今までもそうだった。復帰のときも、屋良朝苗主席の建議書を全く無視して、国会で強行採決した。2013年の「建白書」のときも同じように日本政府は無視しました。日本本土を守るために沖縄を捨て石にして、戦後は日本が独立するために沖縄をアメリカに差し出した。沖縄の民意というのは一度も顧みられたことがないと私は思っています。軍事基地は他の県ではいらないから沖縄に置いている。基地があることによって騒音、性被害、土地や海の汚染・・・・・。沖縄だって他府県と同じように基地はいらないんですよ。しかし沖縄には民意を踏みにじって強行する。そういう支配の構造に沖縄の歴史は置かれ続けてきた。昨年、アメリカのNGOが辺野古・大浦湾を日本で初めて「希望の海」に指定しました。「希望」を見つめながら闘っていく、どんな状況になっても声を上げ続けていくことが大切だと思います。特に、安倍政権は、違法・強権・弾圧で沖縄に襲い掛かっています。「沖縄に寄り添って、基地の削減に取り組む」という言葉を聞くと、寒気がします。絶対に許せません。
軍事化が進む南西諸島
これは離島<尖閣>防衛ではない!真のねらいはどこにあるのか?
前田 哲男(ジャーナリスト)
よみがえる過去
4月の沖縄は悲しい思い出をよみがえらせる。75年まえ、そこに吹いていたのは「うりずん=若夏」到来を告げるやさしい風でなく、住民が「鉄の暴風」とよんだ砲爆撃の嵐だった。6月末までつづく島、海、空をめぐるたたかいで15万人の県民がいのちを落とし、また、数おおくの特攻機が空に散り、「戦艦大和」も、ここ南西諸島の海に沈んだ。その「沖縄戦」の末に、日中全面戦争にはじまる「アジア太平洋戦争」は終幕したのである。鹿児島~奄美~沖縄にかけてのびる海と島が、無謀な戦争の最終目撃者、そして軍国日本最後の墓碑となった。
その南西諸島に、ふたたび軍靴の音がきこえる。防衛省により「南西地域の防衛力強化」として推進される、島々をつなぐ〈洋上防壁〉設置構想がそれだ。
2020年4月5日、南西諸島南部に位置する沖縄県宮古島でミサイル部隊の編制完結式がおこなわれた。6日付『琉球新報』の記事をみてみよう。
「陸上自衛隊第15旅団は5日、宮古島市上野野原で宮古島駐屯地の編制完結行事を開いた。新型コロナウイルスが全国で感染拡大する現状を受け、市や宮古島医師会が式典延期を要請する中で強行した。駐屯地正門前では市民が配備中止などを求め、抗議した。市民は『宮古島に戦争の危機を引き寄せる軍事要塞化に断固反対する』などとした抗議文書を隊員に手渡した」。
新型コロナの猛威も、自衛隊の基地新設計画にはなんら影響をもたらさなかったらしい。
新部隊について、自衛隊準機関紙『朝雲』(4月2日付)は、以下のようにつたえている。
「南西諸島の防衛強化のため昨年3月に新設された沖縄・宮古島駐屯地には、26日付で中距離地対空ミサイル(中SAM)部隊の7高射特科群の本部と346高射中隊などの隊員約180人が長崎県の竹松駐屯地から移駐した。また、地対艦ミサイル(SSM)を装備する5地対艦ミサイル連隊(健軍)の隷下部隊として302地対艦ミサイル中隊(約60人)が新編され、宮古島駐屯地に配置された」。
だが、宮古島基地は、南西諸島防衛構想のごく一部にすぎない。
ミサイル基地化される島々
「南西諸島」とはどこか? それは薩南諸島と琉球諸島を総称した名称だ。薩南諸島は、鹿児島県の種子島、屋久島、奄美諸島などからなり、琉球諸島には、沖縄諸島(沖縄本島など)、先島諸島(宮古島、下地島など)、八重山諸島(石垣島、与那国島など)がぞくする。鹿児島と那覇間は直線距離で682キロ、那覇と宮古島間300キロ、石垣島間は469キロ。さらに西側にある与那国島までいれると「南西諸島」全長は1200キロ以上、本州の長さに匹敵する。
その海を、対艦・対空ミサイルの連鎖によって閉ざそうとするのが「南西諸島防衛構想」なのである。掲載図を参照しつつ防衛省の意図を把握しておく。
2019年3月、奄美大島と宮古島に新部隊が発足した。『朝雲』3月28日付の記事。
「陸上自衛隊は南西諸島への新たな駐・分屯地の開設など、3月26日付で大規模な部隊新・改変を行った。『創隊以来の大改革』と位置付ける組織改革の一環で、島嶼防衛態勢を強化するため、鹿児島・奄美大島に奄美駐屯地と瀬戸内分屯地を、沖縄・宮古島に宮古島駐屯地をそれぞれ開庁、警備隊などを配置した」
記事はつづけて、「奄美警備隊」(奄美駐屯地と瀬戸内分屯地)が、地対艦ミサイル部隊と中距離地対空ミサイル部隊により編制、また「宮古島警備隊」は将来800人規模に増員、新型対艦ミサイルを装備するとつたえ、岩屋防衛大臣(当時)の「これで南西諸島の守りの空白地帯が埋まる」との談話を紹介している。「創隊以来の大改革」という形容に注目しよう。
くわえて、種子島そばの馬毛島には米軍艦載機の陸上発着訓練場設置に向けた交渉が進行中で、実現すると空自F-35も滑走路を使うことになる。また、石垣島にも地対艦・地対空ミサイル部隊の設置が予定される。さらに、台湾と指呼の間にある最西端の与那国島には2016年以降、「沿岸監視隊」が活動中だ。おなじ年、沖縄本島の空自F-15戦闘機部隊も「第9航空団」に増勢され、40機1500人体制になった。これが「南西諸島防衛構想」の全容だ。
南西諸島防衛構想の配置図
狙いは中国艦隊封じこめ
こうみていくと、南西諸島ぞいに、奄美大島から沖縄本島~石垣島~宮古島~与那国島をむすぶ長大な自衛隊基地ネットワークが形成中、とわかる。ミサイル重点にしめされているように、目的が(中国海軍を想定した)「通峡阻止」――平時・監視、有事・阻止――にあることは明白だ。同時に、たんなる離島守備隊にとどまらず、縦深性をもつ攻勢的意図もうかがえる。背後にある米軍グアム基地防衛を目的とした〈前衛基地〉が任務のひとつに秘められているのだろう。
その象徴といえるのが長崎県佐世保市に2018年開隊した「水陸機動団」である。〈日本版海兵隊〉を自称するこの部隊は、沖縄米海兵隊と同一装備(水陸両用戦闘車、エアクッション型揚陸艇)をもち、輸送機オスプレイを〈足〉とする〈殴りこみ部隊〉だ。陸自オスプレイは、将来、佐賀空港(新設・佐賀駐屯地)に配備される計画なので、水陸機動団は、佐賀空港を足場に南西諸島まで一気に進出可能な〈長い足〉をもつこととなる。
したがって、南西諸島に新設された部隊は、たんなる「離島防衛」任務にとどまらず、西、南九州の自衛隊基地と連動、沖縄米軍とも策応する〈攻撃部隊〉としての役割をになえる。そこから判断しても、南西諸島への新部隊設置は、「中国の脅威」に正面から対峙する自衛隊の新配置といえ、かつて、「北―ソ連の脅威」に置かれていた戦略重心が「南―中国」へと転換したことを実態としてしめした布陣、とみなせる。「辺野古新基地」の運用構想もまた、こうした大きな流れと軌を一にした、自衛隊・米軍の共同作戦基盤として想定されているにちがいない。
これらの新部隊配置と攻撃的装備を、もはや「専守防衛」の枠内で理解することはできない。〈尖閣諸島防衛〉にしては大がかりに過ぎる。また、中国に対抗する軍事力展開であるのはたしかだとしても、真のねらいが〈離島=尖閣防衛〉を超えたところにあると判断せざるをえない。真の意図をとく鍵は、安倍政権がおこなった「集団的自衛権の行使容認」と、それを自衛隊の任務と行動に反映させた「戦争法=安保法制」にもとめるべきだろう。
「戦争法」の廃案こそ
「冷戦」の時期(それはソ連が日米共通の想定敵国であったころだが)、安保協力の方向は、日本列島が「三海峡」(対馬・津軽・宗谷)によってソ連極東部を扼する位置にあった地理的条件に立ち、ソ連太平洋艦隊の外洋進出を阻止、日本海に封じこめる「三海峡封鎖」作戦にあった。その1980年代〈海洋封鎖の試み〉の焼き直しが、いま、南西諸島において、こんどは中国海軍に向けて拡大再生産されようとしているのである。戦争法で「米艦防護」や「領域横断」作戦が容認されたことにより、自衛隊の攻勢的作戦に道がひらかれた。
南西諸島の西側には、東シナ海と南シナ海をへだてて、中国の港湾都市(同時に海軍拠点でもある)上海、青島、大連、寧波などが所在する。中国の海運と海軍(および航空機)は、南西諸島の公海水道を抜けずに太平洋に出ることはできない。それを〈ミサイルのバリケード〉によって管制しようとするのが「南西諸島防衛構想」のねらいなのである。
島々のあいだにひろがる海は、本来、国連海洋法条約により「国際海峡・水道」として開放されすべての船に通過・通航権がみとめられる自由な海だ。古くは「遣唐使・南路」でもあった。
であれば、復活しつつある〈海を鎖す〉――「インド太平洋戦略」に向かって突きだされる〈槍〉のくわだて――に対抗する東アジア平和構築の構想が、護憲の側からこそ提起されなければならない。
(まえだ てつお)
辺野古新基地建設反対運動の現状と課題
沖縄平和運動センター議長 山城 博治
不要不急の辺野古工事は即時中止を
新型コロナウイルスの猛威が世界を覆っている。沖縄も例外ではない。3月いっぱい比較的抑えられているかに見えた感染者は4月に入ると急激に増えだし、ついに三桁に迫る勢いになった。このままいくと4月中には沖縄全県下に拡散していく情勢だ。政府は4月7日、緊急事態宣言を発し大都市圏では不要不急の外出自粛が徹底されるようになった。本来この感染拡大を受けて、「不要不急」の外出自粛を言うのなら、当然辺野古の埋め立て工事を中止し、工事用ゲートに流れ込む人々の動きを抑えなければならない。しかし安倍首相や閣僚からは「辺野古新基地建設は米国との公約。粛々と進めさせてもらう」のみ。1日千台を超える土砂搬送のダンプトラックが行き交い、それに抗識する市民が連日各ゲートに押しかけ、その行動を規制しようとする県警機動隊や防衛局雇用の警備員またそれを指揮する防衛局職員など毎日数百人が工事用ゲートに集まる。即座に工事の中止を決定し、まさに、「不要不急」の集まりを解消すべきである。しかし政府は動かない。あからさまな二重基準に怒りが沸き立つ。
大浦湾をのぞむ瀬嵩海岸で行われた平和行進出発式 2015年5月15日
設計概要の変更申請間近に 新基地建設新たな局面へ
2018年12月、辺野古海域側の埋め立てが開始され、上述したように何が何でもの工事強行が続けられている。これまであらゆる機会で示された“新基地NO”の県民意思は一切顧みられなかった。その政府がさらに強行策に打って出る動きを強めている。沖縄県政に対する新基地建設設計概要の変更申請が今月中にも行われると地元紙は報じている。
辺野古新基地建設工事が開始された2014年に政府が発注した6件の護岸・岸壁工事を3月末で打ち切る、大きな問題が明るみに出た。政府はこの間市民団体から明らかにされ、2018年8月の沖縄県の埋め立て承認撤回の有力な根拠ともなった90mに及ぶ深海の存在とそこに60mの層で堆積する「マヨネーズ」状の軟弱地盤の存在を無視してきた。「海底の地盤改良で対応できる」と開き直り、また70m以上の深い海での改良工事の経験がこれまで皆無でかつ現在の土木技術では対応が不可能だという識者の指摘に「改良に用いる砂杭が70m以上に及ばなくても問題はない」と強弁するだけでなく、「70m地点から下の地盤は近隣の調査済みポイントから類推するに硬質な地盤である」、よって問題はないと驚くべき詭弁を弄してきた。しかし表向きの言い訳とは裏腹に、2014年に発注された護岸工事が着手されることなく契約更新で先送りされ続けたものの、ついにここにきて工事中止を表明せざるを得なくなった。
県民のたたかい、そして全国の支援がついに政府を大浦湾工事の中止に追い込んだと喜びたい。普通ならここで勝負ありのはずだ。工事は中止され計画は白紙撤回されるべきである。しかし政府はここに至ってもなお工事をあきらめるのではなく、むしろ工事中止を正式表明したのは、沖縄県に埋め立てに関する設計概要の変更申請を行うために踏まなければならない手統きであったにすぎないこと、さらにこの県政に対する変更申請が4月中にも行われるだろうということが報道で明らかになった。
沖縄県政そして県民のたたかい
辺野古新基地建設に関する政府の杜撰な計画は、単に大浦湾側の深海と軟弱地盤問題だけでなく、その他に5000年の際月が織りなしたといわれる巨大なサンゴ群落の移植問題、さらに埋め立て土砂2000万立米の8割近くを全国から調達搬入するはずの計画を、全て県内調達にするとんでもないそれ自体の自然破壊・環境破壊の問題、あるいは埋め立て予定地のど真ん中に注ぐ美謝川(びじゃがわ)の水路変更問題等、工事を継続するために立ちはだかる諸課題は山の如し。どう越えるのか。沖縄県玉城デニー県政は簡単には政府の要請に応じない。また県民が許さない。しかしここはあからさまな沖縄差別を意に介さない安倍内閣。その奇策はすでに示されている。政府の変更申請に応じない県政の判断を違法として訴訟に持ち込むだろう。先に「国の関与」訴訟で最高裁は県に敗訴を言い渡した。まさに国家権力、三権が一体となって襲い掛かる構図だ。全国の皆さん注視してください。追い込まれているのは政府です。県民は政府の圧政を許さず闘ってまいります。全国連帯で辺野古新基地建設を断念させましょう!(やましろ ひろじ)
沖縄平和行進とは? その歴史と意味を振り返る
沖縄平和運動センター事務局長 岸本 喬
1978年5月、5・15平和行進が歩き出しました。復帰-日本への返還から5年を経ても変わらぬ「基地の島、沖縄」の内実を問うために。
1972年5月15日、沖縄は日本になりました。では沖縄人が日本人になったのか?については、今回与えられたテーマではないので機会があれば一石を投じてみたいと思います。
さて、若い方々は本文中の用語等「?」については紙面の都合上ご自分でググってくださいね。
戦後27年間の米軍占領と復帰闘争
1945年6月23日の慰霊の日が沖縄戦終結と一般には認識されていますが、実際の降伏調印式は同年9月7日に現米軍嘉手納基地内で行われました。以来、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約第3条による「沖縄切り捨て」を経て復帰まで、米国の軍事植民地と形容されてもおかしくない占領政策、軍人(中将クラス)が就任する高等弁務官がおかれ、行政・立法・司法の3権をすべて掌握された期間が27年間続きました。特に象徴的なのは、第3代高等弁務官キャラウェイは「沖縄住民による自治は神話にすぎない」と住民自治をすべて否定した政策をとりました。
本土で60年安保闘争が燃え上がるときを同じくして、1960年4月28日、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、自治権と人権のたたかいとして、また沖縄における組織的なたたかいが形成されていきます。それでも人権蹂躙の銃剣を向けた米軍に対し、戦争放棄と基本的人権、国民主権の平和憲法への復帰を求めて、沖縄大衆のたたかいが沸き起こっていきました。復帰運動とは、憲法のない時代に憲法前文が謳う「平和的生存権」を自らたたかいとる運動と言われています。
一方、60年代、ベトナム戦争が激化する中、沖縄基地を「自由使用」する米軍は、嘉手納基地を拠点にB52による北爆などを行い、殺人的爆音をまき散らし、またある意味では戦争犠牲となっている米兵によるレイプ、殺人など凶悪犯罪をはじめ事件、事故が横行していきます。それらに屈せず、権利を守るたたかいは続けられます。
復帰運動は、本土との連帯した全国的な運動に拡がり、国際的な運動へと発展していきます。「27年間の心血を注いだ復帰闘争は、県民の要求をすり替えた欺瞞的返還であり、結果的には新たな琉球処分であるが、歴史の発展法則から一定の評価をしなければならない。(仲宗根悟復帰協事務局長・故人)」として、「欺瞞的返還であるが、県民の主体的闘いによって国民運動、国際連帯運動にまで発展させ勝ち取った初歩的勝利である。」「沖縄闘争とは、究極において人間解放の闘いに結びつく極めて高次元の政治課題であり、全国的な闘いに、更に継承・発展させなければならない。」などと復帰協は総括しています。
第2回平和行進 西コース出発式 名護市役所旧庁舎(現・市博物館)1979年5月
復帰の内実を問う平和行進
「(前略)…1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された しかるが故に この碑は…(中略)闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり…(後略)」。辺戸の岬に建つ復帰闘争碑文にはこう謳われています。
戦後50年平和大行動として実施 北部東コース1995年5月
今年復帰48年を迎えます。基本的人権は保障されているでしょうか。主権は私たちにあるでしょうか。軍隊は、戦力は、戦争はなくなっているでしょうか。殺人的爆音、レイプ、殺人、事件事故の数々、米軍占領下から変わったでしょうか。復帰に際し日本政府は「核抜き本土並み」と宣言したがそれは果たされているでしょうか(注.沖縄側は「即時・無条件・全面返還」)。そう問い続けながら42回、基地の島、核の島沖縄において平和行進を歩いてきました。沖縄の内実の問いかけは、全国の問いかけでもあります。「沖縄から安保がよく見える」とよく使われます。2020年の今、全国で安保がよく見えています。今年は残念ながら中止となりましたが、来年5月ぜひ沖縄に足を運んでください。
連帯し、憲法を、民主主義を私たちにとり戻しましょう。(きしもと たかし)
新型コロナウイルス感染症拡大の、その先を考えて
WE INSIST!
新型コロナウイルス感染症拡大(コロナ禍)が止まらない。これを書いている4月11日現在で、クルーズ船を含んで全国の感染者は7635人、亡くなった方は144人となった。11日だけで全国の新規感染者は743人と、これまでの最多を更新している。4月7日には、新型インフルエンザ対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が、1都1府5県に出されたが、東京都の感染者は、4月4日に116人と初めて3桁になると11日には197人と増加の一途をたどり、今のところ緊急事態宣言の効果は感じられない。ライブハウス・カラオケやクラブなどに通うことを市民に自粛するように要請し、施設には営業自粛を求める、がしかし、安倍首相は、国会質疑や記者会見で「営業補償は行わない」ことを表明している。安倍政権は市民の自覚を求めるだけで、営業補償による休業要請を出すことはない。これで、コロナ禍に立ち向かうことができるのか。「緊急事態宣言」が医療関係者などからの強い要請によって発令されたが、緊密に議論していたであろう国と東京都の間で、営業自粛要請施設の範囲で意見が対立した。また、家族が発症しウイルスの陽性反応が出ていても、家族は症状がなければ自宅での待機が要請されるだけで、ウイルス検査を実施しない。したがって、その家族と接触している人、例えば同じ事務所で仕事をしていた人は、全く埒外に置かれている。検査を奨励し、陽性であればその人の行動をネットにあげ、接触などが心配な人には検査を実施するという韓国の対策とは全く異なっている。コロナ禍がこのまま終息してくれれば幸いだが、1918年にパンデミックを起こし、世界で4000万人が亡くなったとされるスペイン風邪は、第一波、第二波、第三波と翌年まで続いた。第二波が一番犠牲者を出したと言われている。コロナ禍もそうならないとは限らない。
安倍首相は、衆議院運営委員会で答弁に立ち、「新型コロナウイルス感染症への対応も踏まえつつ、国会の憲法審査会の場で、与野党の枠を超えた活発な議論を期待したい」と述べた。伊吹文明元衆議院議長は「緊急事態の一つの例。憲法改正の大きな実験台だと考えた方がいい」との見解を明らかにしている。政治学者で、安倍首相も教えた成蹊大学の加藤節名誉教授は、「緊急事態を口実に、国家権力が国民の権力を恣意的に奪い、乱用した例は数え切れない。負の歴史、とりわけ近代史に学ばなければ『ナチの時代』の再来と懸念される」と毎日新聞紙上で述べている。コロナ禍を利用した憲法改正論議は許されない。
市民運動の一部は、新型インフルエンザ対策特別措置法や緊急事態宣言に反対して、議員会館前などの集会を呼びかけている。5月3日の憲法集会も、中止か開催かをめぐって様々な議論があった。特措法にも賛成できないし、安倍政権に対峙して毎年開催してきた憲法集会を中止することには、忸怩たる思いが私にもある。しかし、緊急事態宣言に制約される以前に、私たち自身が主体的にコロナ禍に対応していくことが重要ではないのか。「強制力をともなわない緊急事態宣言では、コロナに勝つことができなかった。多くの人々が、コロナ禍のリスクを断つ行動を取らなかった。だからコロナ対策には強制力が必要だ」私たちは、そのような理屈をつくらせてはならない。冷静に、私たちがコロナ禍に対応することが求められる。そのことが、安倍政権につけいる隙を与えない。私たちがしっかりと主張できる状況をつくらなくてはならない。しかし、そのような意見を聞いたことはない。もしも、集会参加者から感染者を出した場合のことを、そのことの先を考えた意見を聞いたことがない。そして、コロナ禍の先を考えた議論を聞いたことがない。
「サピエンス全史」の著者、ユヴァル・ノア・ハラリは、3月20日の英経済誌「FINANCIAL TIMES」に寄稿して、コロナウイルス後の世界に言及している。ハラリは、私たちは重要なふたつの選択を迫られているという。ひとつは、全体主義的監視か市民の権利の拡大かということ、もうひとつはナショナリズムに基づく孤立かグローバルな団結かということ。答えは明らかではないか。市民の権利の拡大とグローバルな団結。このことなくして人類の未来はないと、良心に訴えれば誰しもがそう思うに違いない。ハラリもその選択を望んでいる。
成熟した賢明な市民社会のありようが、まさしく緊急事態への対応をつくりあげるに違いない。そして、医療の充実や経済保障の体制をつくりあげるに違いない。そして、成熟した賢明な市民社会は、全体主義的監視とナショナリズム、国家の孤立化を排除する。強制力のともなわない対応の中で、コロナ禍に打ち勝つことの重要性を、私たちはもっと考えなくてはならない。(藤本 泰成)