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2020年01月01日

戦争遺跡を見ながら

 先日、韓国からのゲストを地元横須賀に案内した。東京湾に浮かび、難破した日蓮聖人が一匹の猿に助けられたという伝説が残る猿島に渡った。戦時中、猿島は帝都防衛の要塞だった。1884年に竣工した27cm加農砲2門、24cm加農砲4門を据えた砲台跡が残る。私の住まいのすぐ近くには、幕末、無二念打払令発布の当時来航した米国商船モリソン号に大砲を撃ったとされる、千代ヶ崎という丘がある。そこにも、1895年に竣工した千代ヶ崎砲台跡が残る。榴弾砲砲台(28cm榴弾砲6門)と、近接防御砲台(15cm臼砲4門)を備えた大規模なものだが、いつもは立ち入り禁止となっている。そのどれもがお世辞にも整備されているとは言い難い。そういえば、逗子市の披露山公園の砲台跡は、猿舎に利用されている。観音崎公園の砲台跡は草が生い茂り、石積みは崩れるのにまかせている。三浦半島の畑の中では、円錐状の砲台跡が野菜くずの捨て場所になっているのを見た。

 今日は、12月8日、太平洋戦争の開戦の日だが、毎日新聞が、戦争遺跡の記事を載せている。全国に広がる戦争遺跡の全調査を実施したのは6県に過ぎず、老朽化や開発による取り壊しなどがあって、遺跡の把握は全く手つかずの状況と報告している。三浦半島でも、海岸の崖っぷちのちょっとした洞窟が、実は人間魚雷などの基地だったということもある。毎日新聞の調査では、戦争遺跡の保存には「戦争経験者への配慮必要」と答えた自治体が10府県あったという。多くの戦争遺跡は、「悲惨な戦争を語り継ぐ国民的財産」なのだが、一方で「見たくないもの、思い出したくないもの」なのかもしれない。

 しかし、負の遺産ではあっても、いや、であればこそ、しっかりと向き合わなくてはならないと思う。深い悲しみと向き合うには、勇気がいる。がしかし、感情を排除し、そのものの歴史的価値、意義と向き合わなくてはならない。そこには、必ず歴史がある。海縁の今にも崩れ落ちそうな洞窟に、特攻隊として亡くなった人間の歴史がある。地下壕の壁の鶴嘴の跡にも、強制連行されてきた名もなき朝鮮人の歴史がある。戦争遺跡は、何かを私たちに伝えようとしている。敗戦後75年を経て、戦争をどう記憶し、どう伝えていくか、そして戦争の本質をどう表現していくか、考えなくてはならない。
(藤本泰成)
 

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