2011年、集会等の報告

2011年12月17日

第43回食とみどり、水を守る全国集会・分科会報告

平和フォーラムは、農民団体、消費者団体などとともに、12月16日・17日、愛知県・名古屋市において「第43回食とみどり、水を守る全国集会」を開催しました(→既報)。
全国集会2日目の分科会では、それぞれ活発な議論・交流が行われました。

第1分科会 「課題別入門講座」

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課題別入門講座として、今年3月に発生した福島原発事故の問題と、昨年10月に名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の2つを取り上げた。

原発問題については、NPO法人アジア太平洋資料センターが、原発事故後に制作したビデオ「原発、ほんまかいな?」を上映した(上映時間75分)。内容は、原発の構造から被曝問題まで、幅広くわかりやすく解説したものである。

「食と農から生物多様性を考える市民ネットワーク」の原野好正副代表から「生物多様性国際会議(COP10)の経緯と成果、今後の課題」について講演を受けた。その講演の概要は次の通り。
生物多様性とは、生物のつながりを持つ多様性さを意味し、生物多様性条約とは、正式には「生物の多様性に関する条約」と言い、1992年に署名公開された国際条約である。この目的は、①生物多様性の保全、②生物資源の持続可能な利用、③遺伝資源から得られる利益の公正・衡平な配分の3つである。
2010年は国際生物多様性年であったが、そのスローガンは、「生物多様性はいのち、生物多様性は私たちのくらし」であり、今回の全国集会のスローガンと相通じるものがある。
2010年10月18日~29日に名古屋市で行われたCOP10の決議で採択された重要なものは、①愛知ターゲット(自然と共生する世界を作るために、2020年までに達成するべき20の目標)、②名古屋議定書(遺伝資源の採取・利用と利益の公正な配分に関する国際的な取り決め)、③名古屋・クアランプール補足議定書(遺伝子組み換え生物が輸入国の生態系へ被害を与えた場合、各国政府が原因事業者を特定して原状回復や賠償を求めること等を定めたもの)である。

愛知ターゲットを達成するためには取り組みの継続が必要である。2010年12月の国連総会では、2011年から2020年を「国連生物多様性の10年」と定め、国連をはじめ政府、企業、NGO、先住民、研究者などが積極的にかかわるべきであるとした。また、生物多様性条約の締約国は、その実現のために必要に応じて国内法の作成・改正が義務付けられている。しかし、現在のところ我が国の国内法の整備の準備は、まだ十分とは言えない状況である。

以上の講演の後、遺伝子組み換え作物問題や外来種問題などで参加者との意見交換が行われた。

なお、ビデオ「原発、ほんまかいな?」の内容は次のホームページを参照。
http://www.parc-jp.org/video/sakuhin/genpatsu.html

第2分科会 「食の安心・安全・安定をめぐって」

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分科会の助言者、報告者から次のような提起・報告があった。

安田節子さん(食政策センター・ビジョン21代表)
環太平洋連携協定(TPP)は関税自主権を失うばかりでなく、食品添加物や食品保存剤、遺伝子組み換え・放射線照射食品、農薬など国内法で規制されているものが、「国際協定」で撤廃されてしまう恐れがある。
原発事故による放射能汚染が避けられない時代の中で生きるには、これ以上、化学物質汚染のない食べ物が必要である。また、食の安定のため、西日本など放射能の非汚染地帯での食料増産が不可欠である。

旗野梨恵子さん(福島・白河給食センター)、國分俊樹さん(福島県教組書記次長)
毎日、外部被曝している現状の中で、福島県内の学校給食では、国の基準の500ベクレル以下は「安全だ」として、地場産の農産品使用を指導する市町村もある。発ガンする確率は、低い量の被曝であっても被曝した放射線の量に応じて増加すると考え、食物摂取による内部被曝を極力少なくするために、1ベクレルでも少ない食材を確保するために努力している。

佐伯昌和さん(有機農家、反原発運動全国連絡会世話人)
「有機野菜」にこだわり、最初に除草剤の使用をやめ、殺菌剤などの使用も順次やめ、15年前からはまったく農薬を使用していない。放射線は「規制値以下だから安全」ではなく、微量でも危険である。規制値は「ガマン値」で、どこまでガマンするかは、測定値を公表して消費者が判断すべきことだ。

山浦康明さん(日本消費者連盟共同代表運営委員)
「食品表示制度」は、食品の情報を企業が公開し、消費者が食べたくない食品を選択できるようにしなければならない。現行の厚労省、農林水産省、公正取引委員会などの縦割り行政ではなく、消費者庁が消費者の視点に立って消費者の知る権利を確保できるようにすることが必要だ。その上に立って、食品表示の一元化を求めていこう。

参加者からは次のような発言があった。
「浜岡原発をまず最初に止めるべきだ。また、沖縄の辺野古基地問題と同じに、福島原発を地元だけの問題とすることなく、日本全体の問題にしよう」、「食品表示は、今の法制度では各省庁に分散していてできないのではないか。消費者庁に権限を一元化するような法整備が必要だ」、「掛川市で茶葉をつくっているが、セシウムが検出され売れなくなった。浜岡原発から20km圏内であり、何としても再稼働を止めていきたい」。

以上のような意見などを踏まえて、放射線量や食品表示など、知ることの大切さを学んだ。最後に、福島原発の問題は私たち自身の問題として捉えていくことを確認した。

第3分科会 「食料・農業・農村政策をめぐって」

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それぞれの報告者より、次のような報告があった。

日本農業新聞記者の金哲洙さんは、韓国で韓米FTA交渉の批准が強行採決された状況を取材したことを中心に報告した。韓国の国会では、催涙弾が投げられるなどの混乱の中で、FTA批准の強行採決が行われたが、それに反対してデモなどが行われている。その先頭に政党が立っていることや、若者のデモ参加者が多いことなど、日本との違いも指摘した。また、農業は、自然や地域に調和して成り立つものであり、単に経済効率だけで市場開放をしていいものではない点も強調した。

食と農の再生会議代表の岩瀬義人さんは、愛知県内で農業を営むとともに、農協組合長として活動した経験から、日本の農業の特徴は、水や流域がその成り立ちに大きく関わっている点や、地域内に生産者と消費者が混在している点をあげた。そして農業は、効率を追求する産業ではなく、その土地に定住する生業であり、生命をつなぐ尊い職業であることを強調した。また、これまで10名の若者を、農業実習として受け入れてきたが、まともに就農に至ったのは2人だけであり、本人の農業に取り組む意識とともに、新規就農支援制度の不十分さを指摘した。

農林水産省の大臣官房政策課上席企画官の鳥海貴之さんは、TPPの影響と対策の説明のほか、「食と農林漁業の再生推進本部」が提起している「食と農林漁業の再生のための基本方針」を説明。①新規就農の増加と規模拡大の加速、②6次産業化、消費者との絆の強化、輸出戦略の立て直し、③エネルギー生産への農山漁村資源の活用促進、④森林、林業再生プランの推進、⑤近代的・資源管理型で魅力的な水産業の再生、⑥震災に強いインフラを構築、⑦原子力災害対策に正面から取り組む戦略をあげた。また、食料・農業・農村基本計画の3本柱(①戸別所得補償制度の導入、②農山漁村の6次産業化、③消費者ニーズに適った生産体制への転換)についての説明がなされた。

報告を受けて意見交換が行われ、「農水省は農業を成長産業とすべく位置付けているが、その見方で良いのか」「所得補償制度は有効な政策とし、継続拡大、法制化を目指してもらいたい」「相変わらず農業政策が、規模拡大一辺倒の議論になってしまっている」などの意見や、親の後を継いで地域に入って営農している事例報告なども行われた。

最後に東北大学教授の工藤昭彦さんが、「農業は自然と地域文化を育み、命を繋ぐ尊い職業である。今後は、流域や多面的機能などを重視した新しい農業像の形成が望まれる」とまとめられた。

第4分科会 「水・森林を中心とした環境問題をめぐって」

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まず、「『森林・林業再生プラン』~東日本大震災からの検証と課題」と題して、太田猛彦さん(東京大学名誉教授)から次のような提起を受けた。

日本の自然と社会の特徴である、①プレートの沈み込み帯に形成された列島であること、②アジアモンスーン(温帯)にあること、③先進工業国などの国土条件の違いを再認識し、防災対策を見直しする必要がある。
海岸の防災林は、今回の津波に対し、①津波エネルギーの減衰効果、②津波の到達時刻の遅延効果、③漂流物補足効果など、災害を少なくする減災の役目を果たしたことから、多重防御策の一つと認めるべきだ。
戦後、天然林(奥山)の伐採と「拡大造林」が行われ、燃料革命・肥料革命とも相まって、人工林の成長と里山における森林の復活を見ることになり、日本の森林は、400年ぶりに緑を回復した。しかし、その後、森林は回復したが、里山の森林が利用されなくなり、奥山の森林は保全が十分でなく、人工林が手入れされずに荒廃している。
農山村は社会共通資本と言われるが、自然条件に左右される林業や農業は、市場経済では工業と単純比較することは出来ない。生産性が低いのに管理費を都市と同じ基準で林業・山村に任せるのは無責任である。森林・林業への支援は正当性があることを、国民が認識し政策が進められるよう取り組みを展開する必要がある。

次に「放射性物質と水環境問題を考える」と題して、熊本学園大学の中地重晴教授から講演を受けた。中地さんは、大阪の環境監視研究所での取り組みで、阪神淡路大震災時でのアスベスト飛散の問題や、チェリノブイリ原発事故での放射能汚染調査に参加した経験を踏まえた問題提起が行われた。その中で、福島原発事故については、冷温停止がされても今もなお高濃度汚染水の処理の問題が残っていること。1~3号機のメルトダウンの状況を誰も確認したわけでなく危険な状況が続いていることが示された。

また、除染や廃棄物の処理については最終処分地も確定しておらず、放射能汚染とつき合う社会が到来している、と問題点が提起された。

さらに、自治労宮城県本部から「仙台市下水道事業の震災対策」と、下水道事業における放射線対策の課題が提起された。

 

第5分科会 「フィールドワーク-岐阜県垂井町を歩く」

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第5分科会は「中山道垂井宿・水に活かされる町」の視察として行われた。岐阜県美濃地方の西に位置する垂井町は、中山道57番目の宿場町であり、美濃路の起点としても交通の要所として栄えた。

最初に、神田浩史さん(NPO法人「泉京(せんと)・垂井」理事)、榎本淳さん(同事務局長)などから、垂井町の歴史や「幸福度の高いまち・垂井」をめざして、西濃圏域、揖斐川流域での地域づくりを実践している活動について説明を受けた。

その後、2班に分かれて説明を受けながら町内を散策。「マンボ」と呼ばれる横穴式の井戸で地下水を集水する横井戸式地下水灌漑大系施設は、かつて町内に百数本があり農業用に利用されたが、現在ではそのほとんどが姿を消している。わずかに現存するマンボは、洗い場として利用されたり、水田のかんがい用に使われたりしている

また、垂井宿はたびたび大火に襲われたため、渇水期でも防火用水を確保する必要があり、西・中・東町にそれぞれ用心井戸を作っていた。東町にはいまでもその井戸が残っている。

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岐阜県名水50選に選ばれた「垂井の泉」は、県指定の天然記念物である大ケヤキの根本から湧出し、「垂井」の地名の起こりとされている。「続日本記」の中でも、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った場所と考えられており古くからの由緒がある。近隣の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、藤原隆経は「昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」(「詞花集」)と詠み、また、松尾芭蕉が「葱白く 洗いあげたる 寒さかな」と詠んでいる。このほかにも涌き水がでている場所があり、今でも洗い場としたり、水路を引いて生活用水としたり、住民には欠かすことのできないものとなっている。

また、町指定史跡の紙屋塚があり、その辺りは美濃国府で使われる紙の管理を一手に担う役所があったらしく、そのことを後世に伝えるために紙屋塚が築かれた。紙漉きに必要な清水は垂井の泉が利用されていたものと考えられている。このように、垂井の泉は、古くから多くの人々に、天下の名泉として親しまれてきた。

伊吹山の東の山麓に位置する垂井町は地下水が豊富で、住民の生活には欠かすことのできない水となっている。そのことは、住民が水に活かされながら生活していることを意味している。現代の生活ではすでに忘れてきている過去の遺物のようにも見えるが、今なお住民の中に息づいていることを参加者は学んだ。

第6分科会 「フィールドワーク─蔵の街半田市を訪ねる」

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半田市は、愛知県の西南部、伊勢湾と三河湾に囲まれた知多半島の中央に位置し、人口約12万、知多地域の中核を担っている。江戸時代から醸造業が栄え、海運を活かして半田から江戸へ特産の酢や酒が運ばれた。今も半田運河沿いには、黒板に囲まれた醸造蔵が現役で残り、当時の醸造業の繁栄を偲ぶことができる。
また、JR武豊線「半田駅」には、明治43年に設置された全国で最も古い跨線橋があり、歴史を感じることができる。

半田駅から歩いて10分ほどの「酒の文化館」(中埜酒造併設施設)では、ガイドから半田地域の酒造業は、江戸時代に尾張藩の積極的な奨励があったこと、主要流通手段であった海運の便に恵まれ江戸にまで大量に運ばれたことから、かつては灘に次ぐ2番目の大産地であったと説明を受け、その後、江戸時代からの酒造りの道具・製法を見学した。

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次に日本唯一の酢の博物館「酢の里」(「ミツカン」併設施設)を訪れ、昔と今もお酢づくりの違いやお酢の効用、使い方の情報について説明を受け、製造工程を見学した。
お酢は最古の調味料で世界中で食され、日本には5世紀頃に中国から製法が伝わったとされている。穀物や果実などを原料として作られ、時代とともに様々な料理の味付けに使われてきた。
半田の酢は、酒造りの過程で大量にできる酒粕をリサイクルできないかと考えた結果、「粕酢」の醸造に成功した。この「粕酢」は、飴色の深い色合いと芳ばしい風味から、江戸前の「にぎり寿司」とよく合い、人気を博し全国へと広がった。
最近では、内臓脂肪減少、血圧低下、疲労回復、防腐・静菌、減塩など、酢の持つ不思議な力が科学的に証明されつつある。

酢作りは何百年も引き継がれているものであり、時代とともに移り変わる食生活の中にあっても、私たちが健康的な食生活を送るには、なくてはならないということを学んだ。

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