8月, 2020 | 平和フォーラム - パート 2
2020年08月01日
ニュースペーパーNews Paper 2020. 8
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8月号もくじ
- 危機のなかで考えるメディアの役割
金平茂紀さんに聞く - 8月6日 広島は地獄に変わった
- 被爆から75年 ~ 私の原爆
- 被爆75周年原水禁世界大会はオンライン開催
- 「被爆75周年原水爆禁止世界大会」は、オンラインで開催します。
「YouTube」を利用し、事前収録した動画をネット配信します。詳細にいては、原水禁ウェブサイトに掲載します。右記のQRコードもご活用ください。 - 「被爆75周年原水爆禁止世界大会公式チャンネル」にご登録ください。
- YouTube「被爆75周年原水爆禁止世界大会公式チャンネル」
- 「被爆75周年原水爆禁止世界大会」
- オンライン集会
- 広島大会:8月6日(木)13:00~
- 長崎大会:8月9日(日)13:00~
- 福島大会:8月12日(水)13:00~
- 内容:
- オープニング
- 議長挨拶
- 現地実行委員会挨拶
- 海外ゲスト挨拶
- 被爆者・被害者からの訴え
- 高校生平和大使からの訴え
- 基調提起
- アピール採択
- エンディング
- オンラインシンポジウム
- 国際シンポジウム:8月6日(木)14:00~
テーマ:核兵器廃絶と日本のプルトニウム - 高校生シンポジウム:8月9日(日)14:00~(生中継)
- オンライン分科会・特別分科会
- 分科会:8月4日(火)13:00~
- 特別分科会:8月5日(水)13:00~
- 被爆75周年記念事業
- DVD「君たちはゲンバクを見たか」のリニューアル事業
- 高校生「平和」の作文コンクール。
危機のなかで考えるメディアの役割、日本社会の未来
インタビュー・シリーズ:157 金平 茂紀さんに聞く
かねひらしげのりさんプロフィール
TBS「報道特集」キャスター、早稲田大学大学院客員教授。1953年生まれ。東京大学文学部卒。TBS入社後はモスクワ支局長、ワシントン支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、などを経て、2010年より現職。著書に『テレビニュースは終わらない』(集英社文庫)、『沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)、『抗うニュースキャスター』(かもがわ出版)など多数。
─金平さんは福島原発の現状について、継続的に取材をされていますね。
福島第一原発には毎年入って取材しています。今年はすでに2回入りましたが、決して楽観的にはなれない状況です。放射能汚染と新型コロナウィルス感染の二重の問題のなかで、廃炉作業員は「三密」状態に置かれていた(いる)現実があります。こういった実態についての報道が実は十分にできていません。
当初言われていた2040年までの廃炉完了は、どんどん延びています。原子炉のなかのデブリなどがどうなっているのかも把握しきれていないのが現状です。それを取り出すなどという人類史上初めての作業をやりきらなくてはならない。汚染水の問題も深刻です。
そんななかでもオリンピックを1年延期してでもやるというのだから、破綻しているとしか言いようがありません。
─今、新型コロナウィルス感染症問題が私たちの社会を揺るがしています。どのようにご覧になっていますか。
今回のパンデミックも「100年に一度」とも言われていますが、たしかに100年前にはいわゆる「スペイン風邪」(インフルエンザ)でたくさんの人びとが命を落としました。大きなパンデミックの後は、社会構造が変化します。100年前は資本主義の矛盾が噴出し、ロシア革命が起こったりした時代です。
これだけ大きく、地球規模で起きたパンデミックにしても、始まりなのかそれとも半ばにあるのか。どの段階にあるのか、私たちにはまだわかっていません。日本で小康状態に入って終わったかのように思っていたら、今度は南半球で、あるいはアメリカでも拡大している状態です。日本だって、今秋以降や来年どうなっているか、まだわかりません。ワクチン開発や治療法の確立にはまだ時間がかかります。
こうした問題が解決するかどうかがわかる前に「人類がコロナウィルスに打ち勝った証としてのオリンピック開催」などと言うのは、思考を放棄しているとしか言えませんが、こういう人たちが権力を持った代表者なのです。今の危機を乗り越えるだけの能力も想像力も持ち合わせず、ただ権限だけを行使し、みんなが混乱しているところに乗じてやりたい放題をやっているのです。暗澹たる気持ちになります。
─この危機のなかで日本の政治の問題性が大きく立ち現れています。
今という時代は情報過多の時代で、政治家も情報発信やパフォーマンスにばかり熱心で、もっと黙々と仕事をしろと言いたくなりますね。しかしメディアに露出している方が権力を維持できるようになってきていて、政治がメディアショーになってしまっています。為政者・公務員からは、国民に対する奉仕者だという基本的な倫理が失われ、自分たちの仲間うちだけの私利私益を追求し、権力を握り続けることが目的になっています。
コロナウィルス対策で休業させたのならば、当然それに対する補償があるべきですが、いくらか給付してやるぞ、で済ませようとしている。呆れてしまいます。近代国家における政府とは何かということがまるでわかっていない。自分たちが支配者であって、お前たちは「臣民」として従うんだという江戸時代のような感覚で政治をやっている。東京高検の検事長人事をめぐって検察OBたちが法務省に提出した意見書のなかで、「朕は国家なり」というルイ14世の言葉を引用したくだりがありましたが、まさにそういうことです。
1970年代にロッキード事件を摘発した検察の人びとの職業倫理の高さに比べ、今の政治家、たとえば法務大臣は、いったい何をよすがとして執務しているのでしょうか。ほとんど当事者能力を欠いていて、官僚の作文した想定問答を読み上げるだけです。
野党の責任も重大です。世論調査を見ても支持率は惨憺たる状況が続いています。与野党の力関係がこのような状態であるにもかかわらず、足の引っ張り合いに明け暮れている。
戦後の日本は一貫してアメリカに追従してきましたが、この安倍政権においては、トランプ大統領と安倍首相の蜜月ぶりに象徴されるように、極限的な追従にまで堕してしまいました。そのことによる損失は実に大きい。国家としての尊厳がずたずたになってしまった。日米安保条約が、実質上、憲法の上位法になってしまっていることが、政治や外交に歪みをつくっています。一言で言えば「属国」です。
香港で起こっているような基本的人権への侵害は、実は私たちの足元でも起こっています。例えば、関生弾圧のような、露骨な労働組合潰しが大手を振って行われています。まるで戦前の特高警察です。労働組合イコール悪かのような、前時代的な人権感覚が治安機関を中心に横行しています。
しかし、コロナ禍の副作用で、いかにひどいところに私たちがいるのかが、ようやく見えてきたとも言えます。多くの人びとが今の政権のままではいけないと気づき始めている。一刻も早く今の政権にお引き取りいただかないと、この社会そのものが持たなくなっています。
─こういう状況のなかでメディアが重要な役割を持っていますね。
新型コロナ禍はあまりに大きな現象だから、この全体を概観的に語るのは非常に大変な作業です。こういう状況にあって、メディアが何を伝えるべきなのかということを考え続けています。時間をかけてもやり続けなくてはならない。
例えば専門家会議から発表される見解や方針が本当に正しいのか、メディアはチェック機能を果たさなければならないのに、まるで宣伝係になってしまっています。これは恐ろしいことです。3.11以前の原発に対するメディアのスタンスと相似していて、「安全だ」という発表に対し、少数の人びとを除き、ほとんどのメディアは旗振り役のような役割を担っていました。(後日の注記:その専門家会議さえ「廃止」されてしまいましたが。)
「日本の医療水準は高い」、「民度が高い」などと自画自賛する政治家たちがいるなかで、「日本はすごい」というムードに流されチェック機能を失ったメディアは深刻な問題を抱えています。
社会にもたらされた混乱は大きく、経済活動や教育といった社会活動全般の「自粛」、私権の制限に至るまで、国民は飲まされたわけです。「要請」という名目で強制ではないようで、ほとんど「命令」に近いものでした。
「テレワーク」「リモート労働」と言っても、非正規労働者、エッセンシャルな(不可欠な)現場労働者、フリーランスの人たちへの補償は整っていません。こういった問題をメディアがしっかりと報じて、弱い立場に立って検証することが必要なのに、まるで「自粛警察」の先導役のように、パチンコ店客や外出する人々を叩き、今度は「夜の街」=水商売に対する差別的対処を煽るようなことをやっています。
政府による対策や施策は、総じていえば、原理原則を欠いたその場しのぎの弥縫策で、「火事場泥棒」みたいなことをやっているときに、国民はおとなしくしてはいられないはずです。電通系企業群の「中抜き」問題、検察ナンバー2の賭け麻雀もそうだし、国民やメディアが、我慢することに慣れてしまっているのではないでしょうか。
アメリカを見れば、新型コロナウィルス感染が拡がる厳しい状況のなかでも、警察によって黒人男性が殺害された事件に対する抗議を契機に、集会やデモをあそこまでやっています。アメリカの市民の動きを見て力づけられるのは、最終的には、草の根、市民の力が大きく世の中を動かしているのだということです。
─「ポストコロナ」という言葉が聞かれますが、今後の私たちの社会はどのように変わっていくのでしょうか。
大きな災害や危機の後には、とてもよくない反動がしばしば現れます。いつ終わるかわからないという状態が続くと、偏見や差別が、とりわけ嫌なかたちで拡がっていく。ウィルス感染の問題だけではなく、この偏見や差別の問題も怖いものです。だからこそ、このまま黙っていてはいけないのです。
「ポストコロナ」、新型コロナウィルス感染症を経験した後の世界は、単に前に戻るのではなく、必然的に違うものになっていくでしょう。しかし、そのことをバネとして、世界を大きく変革することが必要ではないでしょうか。
3.11のときは元通りに戻るということが強く意識されていて、実際に原発再稼働まで行ってしまっています。「アンダーコントロール」などと国際社会に嘘までついて、オリンピック招致もしてしまった。もう二度とそういうことを繰り返してはいけないのだ、ということを理解しなくてはいけません。
私たちの社会がいかに脆いのか、そして弱いものから順番に痛い目にあわされていくのかということがわかったのなら、元の世界に戻せばいいのではなく、これをきっかけにして、新しい生き方というものを自分たちの側から(政府から押しつけられるのではなく)作っていくのでなければと思います。ただ戻るのであれば、もっとひどいことになるでしょう。
日本社会全体が、知識や知性といったものを役に立たないものとして軽んじる一方で、声高に叫ばれる主張やマッチョな(新自由主義的な金儲け至上主義的な)価値観に惹きつけられていくような流れのなかにあります。とくに常にメディアに露出し続けることによって、自分という存在を保つポピュリスト政治家たちがいます。そういう人たちが行政の中心になってしまったことが悲劇です。おそらくアメリカは大統領選挙もあり、今後大きく変わるでしょうが、日本はどうなるでしょうか。
いま、私の持ち場であるメディアが変わるべきはもちろんです。労働組合や市民が果たすべき役割も大きいですが、とくにアカデミズムの世界ががんばってほしいと僕は思います。たとえば、大学という存在は、単に授業料を取って学生を教育するだけではなく、研究する場ですよね。こういうときだからこそ、社会に対して発信をしていくべきではないでしょうか。
8月6日 広島は地獄に変わった
被爆証言 切明 千枝子さん
現在90歳となる切明千枝子(きりあけ ちえこ)さんの被爆体験を広島県原爆資料館の会議室においてインタビューさせていただきました。
県立高等女学校4年生、15歳の時、学徒動員で、たばこ工場に勤務をしていて、8月6日は工場から外科病院へ通院の途上、比治山橋東詰で被爆しました。この日は猛暑だったため、一休みしてから橋を渡ろうと思い、近くの建物の軒下に入った途端、閃光とともに爆風により地面に叩きつけられて気絶しました。気がつくと、建物の下敷きになっていたので、必死で外へ這って出ると、辺りは真っ暗でした。渡って行く予定の橋の向こうは火の海で、大勢の人が悲鳴をあげながら逃げてきます。川岸で疎開作業中だった学生たちが、燃えながら私の前を通り過ぎました。一瞬にして、広島は地獄に変わったのです。幸いにも私は、軒先を借りた建物が陰になってくれたので火傷はまぬがれ、頭や首筋、手指にガラス破片が刺さったのと、建物の下敷きになった際の打撲傷のみで助かりました。もし橋を渡っていたら…、もし一休みして建物の陰にいなかったら…、きっと命はなかったと思います。
私は、何とかたばこ工場に帰り着き、クラスメイトに会い、一緒に学校へと戻りました。しばらくすると、建物疎開に動員されていた下級生と東練兵場の畑に動員されていた下級生が、ひどい火傷や外傷を負って戻ってきました。指先から皮膚が垂れ下がり、皮膚を引きずりながら、歩いてくる姿にどうしていいかわからなかったのですが、先生がその足の先に引きずる皮膚を破いたのです。すると下級生は「痛くて歩けなかったの、ありがとうございます」と言ったのです。その後、薬もなく、医者もいない中で下級生たちは死んでいきました。死体がつみあがってく様を見て、本当にかわいそうでたまりませんでした。それは地獄でした。下級生のご遺体を荼毘に付し、遺骨を拾ったことは今でも思い出します。
証言活動を始めたきっかけは何ですか。
正直、忘れたいと思っていました。でも、そう思いながらも、年を経ていくごとに、忘れちゃいけない、黙っていてはいけないという思いが強くなっていきました。このまま黙っていることは、死んでいった人たちが無かったことになってしまうのではないかと思ったのです。人間というものは愚かな生き物ですから、どんなにひどい目にあっても、そのことを忘れるとまた同じ過ちを繰り返してしまうものです。わが子の顔、孫の顔を見ていると、あの時の過ちを繰り返してはいけない、そのように強く感じてきたのです。
私の身近に原爆症の方がいて、障害をもったお子さんを産んだ方もいました。私も被爆者、夫も被爆者ということもあって、私たちは結婚するときに「子どもを産まない」という約束をしたのです。周りを見ていて、もし子どもを産んだら、その子にかわいそうな思いをさせてしまうかもしれない、そんな恐怖心を抱いていました。ところがある日、いつもお世話になっている内科の先生に聞かれたのです。「結婚から何年も経っているのに、あんたたちは子どもをつくらないのか」と言われて、私は思っていたことを伝えたのです。「障害のある子どもが産まれたらいやだから、私たちは子どもをつくらないと決めているのです」と言った途端、その先生に怒られたのです。近藤先生といって、今はすでにお亡くなりになっていますが、息子さんが後を継いで、内科の病院をされています。先生から、「障害のある子が産まれたらいやだなんて思うってことは、あなたたちが障害を持っている人に対して差別意識を持っているという証拠ではないか。」って怒られたのです。その当時、私たち夫婦は、差別問題を是正するように求める雑誌の編集や刊行などに関わっていました。先生はそのことを知っておられたのです。子どものことに対して、差別意識があるようなことを言っているのでは、私たちの仕事は嘘をついているようなものだとはっきり言われたのです。そこでハッとさせられて、子どもを産まないということは辞めて、一男一女を産み育てることができました。被爆を体験したものの、今は、子どもだけでなく、孫たちもいます。これも、近藤先生のあの時のことばのおかげだと思います。
被爆証言をしていて、若い人たちに思うことはありますか。
私はまだ、高校生平和大使の皆さんに会ったことがないので、ぜひ会ってみたいと思います。
福山盈進高校の皆さんが、私の被爆証言を書き起こして下さって、一冊の本にしてくれたのです。今は、英訳の作業に取り組んでくれています。若い人が平和のために活動してくれるのは、とてもうれしいことですね。今は新型コロナウイルスの影響で、修学旅行など延期や中止になっていて、被爆証言をする機会がほとんどありません。被爆証言をすると、他県から来る学生さんたちは本当に熱心で、帰ってからも反応がとてもすごいのです。お手紙を書いてくれたり、読み切れないほどの文集を作って送ってくれたりします。この子たちに伝わったのだと感じて、とてもうれしくなります。幼い時に聞いた話っていうのは、その人の心に残るのですよ。大人になっても、心の中に残っていて、大事な要素になると私は思います。だから、小学生が熱心に話を聞いてくれているのがとてもうれしく感じています。残念なことに、広島県内の子どもたちに対しては、被爆証言をする機会がほとんどありません。被爆の話を聞き飽きたと思われているのかも知れませんが、広島の子どもたちこそ、しっかりと理解しておく必要があると思います。
学校教育の場でも平和教育をしっかりとやってほしいと思います。子どもの時のことって、大人になった今でも忘れていません。先生が言ってくれた一言は、今も覚えているものです。教育は本当に大切なものです。私がまさにそうでしたが、軍国主義っていうのはすぐに浸透して、軍国少女が誕生します。私は被爆当時、学徒動員で広島地方専売局のたばこ工場で働いていましたが、配属が決まった時は、「たばこ工場で働いても、御国の役は立てません」なんて、先生に抗議したものです。今、改めて考えてみると、敵の飛行機から直接狙われるようなところではなく、先生たちは考えて配置してくださったのだろうと思います。
軍国少女だった切明さんでも、当時、戦争に対して違和感を持ったことはありますか。
この戦争はどうなっているのだろうと考えたことはあります。学徒動員で、色々なところに配置されましたが、陸軍被服支廠(注:軍人の軍服などを作る施設)に行ったときに、倉庫の中が空っぽだったことがありました。別の場所に新しい軍服が1万2,000着保存されていたらしいのですが、私が行ったところは何もなく、古着を洗濯させられたのです。ボロボロで、穴が開いていて、血も付いていたので、もしかしたら亡くなった兵隊さんの軍服をひっぱがして持ってきたのかな、なんて今になっては思いますが。その古着を洗濯していたときは、もしかしたら戦争に負けるのではないだろうかと思いまして、先生に「こんなんで日本は大丈夫ですか」と聞いて、怒られたこともありました。
また別の機会で、陸軍兵器廠(注:大砲や鉄砲、その弾丸などを作る施設)に行ったときのことです。土嚢で囲われている弾薬庫があるのですが、火薬を測って鉄砲の弾を作るのです。そこにいた時に、見ず知らずの男性から、「恐ろしいところに子どもを入れているな」と言われたことがありました。よく考えると、火薬なんて火がついたり、爆発したりしたらそれで終わり、とても危険なところにいたわけです。でも、先生方も軍の力が強くて、子どもたちに弾薬庫に行かせることを拒否できなかったのだと思います。
もう一つ、38式歩兵銃を整備させられたことがありました。さび落としをするようにいわれて磨きました。どうして、「38銃」というのだろうと尋ねたところ、明治38年製の鉄砲だからだとわかりました。昭和の時代に古い銃を出してきて使おうとしていたのです。新しい銃を作る余裕もなかったのかと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。
今の日本に思うことはありますか。
心の底から思うことです。戦争なんて2度としてはいけないし、ましてや核兵器を使うなんてこと、人類の破滅につながることなので、許せないことだと思っております。日本が唯一の戦争被爆国だからこそ、「戦争はだめ、核武装はだめだ」と叫んでほしいと思います。それなのに、安倍さんはそういう様子でもないし、どうやら日本を核武装したいと思っているのではないかと疑われる節があります。だから、広島の被爆者の務めは終わっていないし、これからもっと動きを大きくしていかなくちゃいけないと思いますが、直接被爆の被爆者は減っていきます。この声を伝承してくださる方が一人でも増えて、反戦反核につながればありがたいと思います。胎内被爆の方でも、75歳ですから、被爆者がこの世からいなくなるのは目に見えています。だからこそ、若い人に広島の惨状を伝えて、2度とヒロシマやナガサキが繰り返されないようにしていかねばならないと思います。
でも、これからのことがとても心配です。日本は憲法9条で、武器は持たない、戦争には関わらないって宣言したのだから、それを絶対に守ってほしいです。安倍さんの在任中の目標の憲法改憲について、広島は黙っていてはいけないと思います。
今、当時のことを思い返すのもつらいです。フラッシュバックするので、悲しくなってしまう。それでも、黙っていてはいけないと思って、命ある限り、被爆体験を語り続けようと思います。
梅雨に入ったことで、広島は生憎の雨。切明さんが、前日に体調を崩されたと聞き、不安で迎えた当日、心配を吹き飛ばすほどに気丈に、はっきりとした口調で被爆証言をお話ししてくださいました。インタビュー前半の「被爆証言」は、被爆75周年原水爆禁止世界大会公式YouTubeでも公開しています。後世に伝えるべき、被爆の実相を是非ご覧ください。 (北村智之)
被爆から75年~私の原爆
原水爆禁止日本国民会議 議長 川野 浩一
早いもので「あの日」から75年が経過しようとしている。当時5歳の私も今や80歳、長崎の被爆者5団体のトップは次々と亡くなり、発足時から残っているのは私だけとなった。
自治労長崎県職員組合の青年部長時代から原水禁運動に関わってきたが、退職後も長崎県平和運動センター被爆連議長、原水禁副議長、議長と半世紀以上も、この運動に関わってきている。
平安北道で生まれて
私が生まれたのは、北朝鮮の最北部、中国との国境近くの平安北道、ここで父は警察官をしていた。警察官と言っても、主な任務は鴨緑江を渡ってくる匪賊(ゲリラ)への対応が主な任務で、軍隊とあまり変わりなかったようだ。晩年、酔うとその頃の話を独り言のようにしだす。「夏は良かったなあ。そんかし、冬は河の凍って、匪賊の馬橇でくるもんやけん、命懸けやった。電信柱には生首のようぶら下がっとった。畑にわっか(若い)男のおるぞというと、兎ば捕まえるごと、網ば張って捕まえよった」。こんな危ない話になってくると、いつも母が「やめんね、そんげん話は」と遮った。いつしか私は「加害者の子」を認識するようになった。
私が1歳9ヶ月の時、父が兵隊に取られたため、母方の実家を頼って長崎に引き上げてくる。
あの日、1945年8月9日は、長崎は朝から良く晴れていた。午前11時2分、ようやく警報が解除され、私は家の前の防火用水を背に、近所の子と遠くから聞こえるヒコーキ音を「友軍機やろ」と言って機影を探していた。と、その時、その子が気が狂ったように走りだしたところまでは覚えているが、ピカもドンも私には記憶がない。気がつくと15mほど離れたところに倒れていた。脇にいた近所の中学生は額から血を流しており、私はその血を浴びていた。上空にはB29が旋回しているのが見えたので、近くの防空壕に逃げ込んだ。壕内では近所のおばちゃんたちが、「どけ、爆弾は落ちたとやろか」と大騒ぎしていたが、男の人が「こら、広島に落とされた新型爆弾ばい」と言った途端、壕内は静まりかえった。広島の情報は知れ渡っていたのだ。母が迎えに来てくれ、我が家の防空壕に移ったが、幸い家族は皆無事だった。
しばらくすると、祖母が防空壕の入口から「子供たちは絶対外に出すな」と叫ぶ。爆心地の方から大怪我された人たちがぞろぞろと…祖母は私たちに見せてはいけないと思ったのだろう。まもなく山手の防空壕に避難命令が出、外に出てみると長崎駅の方は赤黒い猛烈な火炎が上がっており、道は避難する人でごった返していた。その夜、山の上から長崎の街が延々と燃える情景を多勢の人が見ていたが誰ひとり言葉を発する人はいなかった。8月15日、「日本は敗けたぞう」と叫びながら中学生が上がってきた。壕から出てきた人たちは彼を囲んで騒いでいたが、しばらくすると、みんな無言で山を降りた。家は無事だった。寝る前にどうしても気になることがあった。枕元の破れたバケツに入っている消し炭のようなもの…祖母に尋ねると「浦上のおばあちゃんよ」と教えてくれた。「街は危ないから浦上に来い」と盛んに言ってくれていたが、母は許さなかった。行っておれば同じ運命だが、原爆の投下目標地は街の中心地、目標通り投下されていたなら…私は骨も残っていまい。運命とはわからないものだ。
世界の核被害者と共に
原水禁の初代議長森瀧一郎さんに最初にお目にかかったのは、1987年9月26日から10月3日まで、ニューヨークで開かれた第1回核被害者大会。この大会はヒロシマ・ナガサキをはじめ世界各地の数百万人に上る核被害者が一堂に会し、核被害の阻止と補償の原則を確立しようとするものだった。この時、森瀧さんがおっしゃった「小さきものは美しきかな」という言葉は今でも覚えているし、また、我々原爆の被害者ばかりが核被害者ではないことを思い知らされた。
1994年5月8日から13日まで、原水禁は欧州へ国際交流調査団を派遣したが、スイス・ジュネーブで現地NGOの方から来年の国際司法裁判所の裁判に長崎市長を証人として出席させて欲しいと頼まれた。当時の市長は本島等さん、彼は市議会で「天皇に戦争責任がある」と発言したことから右翼に銃撃され重症を負いながらも命を取り留める。しかし、その後24時間警察の警護がついていたので、多分無理だと思いながらも、帰国後、その旨を市長に伝えたところ、本人は乗り気で、行く気満々でしたが、次の選挙であえなく落選、代わりに当選した伊藤市長が出廷することになった。
出発直前、市長から「外務省から制約がかかり、発言ができない。これでは行ってもお役に立てない」とのSOS。ラッキーなことに当時は村山政権、外務省を抑えてもらい、「黒焦げの少年・谷崎昭治さん」の写真を掲げ、長崎市長らしい証言ができました。その後1996年7月8日、「(核兵器の威嚇または使用は)一般的には違反する」との勧告的意見が出されました。
この判断から11年後の2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が、122ヶ国の賛成で可決されることになるが、その一翼を故伊藤市長は果たされたのではないかと思う。(伊藤市長も2007年4月17日、銃弾に倒れる)
原爆展への反応
インド、パキスタンの核実験に呼応して、1998年11月22日から11月28日までの7日間、パキスタン・ラホールで開かれた連合・原水禁・核禁3団体による原爆資料展に参加した。
3団体は私たちの団を含め6班を組織し、インド、パキスタンでそれぞれ同様な原爆資料展を行ない、日本政府も12月16日から政府主導による初の原爆展をパキスタンの首都イスラマバードで行った。他の核保有国との違いは多勢の一般市民の他、多勢の学生や軍人、警察官までが来たことで関心が深いことが分かる。労働組合の集会にも参加したが、産別ごとの激しいシュプレヒコールの応酬や政府要人の挨拶の時には、兵士が銃口を聴衆に向けていたのはお国柄だろうか。写真展で一人の現地エンジニアがこんなメッセージをくれた。「写真展を見て非常に悲しい気持ちになりましたが、それをどう説明できるでしょうか。これらの絵や写真は全ての国に対して原子爆弾や核兵器の廃止と人類の平和を訴える手本となるものです。日本が経済国であり、美しい平和な国であることは私にとって喜びでもあります。いつの日か日本を訪ねてみたいです。日本の皆さまへ平和を願います。」彼はイムラン・ハミドと名乗った。
2000年4月19日から10日間、NPT再検討会議に連携し、連合、原水禁、核禁の3団体の「軍縮・核廃絶」平和派遣団に参加したが、その行動の一環としてニューヨークで原爆展を開催した。しかし、なかなか人が入らない。そこで我々はプラカードを持って、街角に立ち、カタコトの英語で呼びかけたが、そこで直面したのは、私の顔に指をふれんばかりの、中年白人男性の「リメンバー・パールハーバー」の強烈な一撃だった。改めて米国民の「ヒロシマ・ナガサキ」への本音を思い知らされたような気持ちだった。
平和行進 2019年8月4日
どこの国の総理ですか
2017年8月9日、長崎の被爆者5団体は要望書を安倍首相に手渡しますが、今回はたまたま、私が渡すことになっていた。私たち被爆者はこの72年間苦しみ抜き、そして3たび許すまじ、原爆をと必死に闘ってきました。そして、やっと今年国連で核兵器禁止条約が採択されたのです。しかし、我が国は「世界で唯一の戦争被爆国」と称しながら、それに賛同もしない、私は素直に要望書を首相に手渡す気にはなれませんでした。私の口から出たのは「総理、あなたはどこの国の総理ですか」でした。そして、「私たち被爆者はこの72年間、子や孫のために、いやすべての人にあのような苦しみを味わせてはならないと…、核兵器禁止条約に賛同してください。そして、東北アジアの非核兵器地帯構想を実現しようではありませんか、私たちもお手伝いします。」と付け加えた。首相の顔は怒りのためか少し赤らんで見えました。
世界中がコロナ騒動で振り回されているためか、核兵器禁止条約の批准がなかなか進みません。批准している国は現在40ヶ国、50ヶ国に達してから90日後に発効することになりますが、批准後、NPTとの関係をどう図っていくのか、また、この条約に賛同してない核保有国や我が国をはじめ、核の傘にいる国々がどのような動きをするのか見えて来ません。
長崎大学の核兵器廃絶研究センター(レクナ)の6月9日の発表によると、世界の核弾頭は9ヶ国で1万3,410発と、前年同期から470発減少した一方、中国は30発増の320発となりフランスを抜き、ロシア、米国についで3番目に多い国となりました。確かに前年同期と比較すると減少したとは言え、地球上の人類を何十回殺しても有り余る数字であることには変わりありません。しかも近年、米国トランプ大統領は「中距離核戦力(INF)」全廃条約(1987年発効)を失効させ、さらに「核態勢の見直し(NPR)」では「使える核兵器の開発、あるいは通常戦争でも小型核兵器の使用」を表明するなど極めて危険な状況と言わざるを得ません。また、米・ロの核削減交渉も今後どうなるのか見通しがたっていません。このような時だからこそ、「世界で唯一の戦争核被爆国」の日本の出番があるのです。米国の核の傘から出て、東北アジアの非核兵器地帯構想を完成させることです。まさに、世界の核兵器廃絶のリーダーになれるのです。(かわの こういち)
「被爆75周年原水爆禁止世界大会」開催について
緊急事態宣言が解除され、社会・経済活動が再開されていますが、未だ新型コロナウイルス感染症は終息をみていません。さまざまな集会やとりくみが相次ぎ中止や自粛となる中、今年の「被爆75周年原水爆禁止世界大会」はオンラインでの開催とさせていただきます。
核兵器をめぐる動きは、2020年4月に開催予定であったNPT再検討会議が延期となる一方、米国・ロシア・中国などの核兵器保有国の核開発は、留まるどころか進み続けています。また、福島第一原発の汚染水放出問題や原子力規制委員会による六ヶ所再処理工場の「合格」など、原子力をめぐる課題・問題もあります。
このように核をめぐる状況が、一層厳しい中で迎える今年の「被爆75周年原水爆禁止世界大会」は、大きな節目となります。核兵器廃絶・脱原発・ヒバクシャの援護連帯に向けて大きな声を結集すべく、オンラインでの開催とさせていただきます。
高校生「平和」の作文
コンクール募集案内
政治的対立、民族的対立、宗教的対立、資源をめぐって、食料をめぐって、様々な対立を、人間社会は克服しようとして、できないでいます。戦争のない、飢餓も貧困もない、差別もいじめもない社会、「平和」な社会をつくっていくためには、ひとり一人の命が大切にされるためには、何が必要なのでしょうか。今を生きている私たちひとり一人の思いを、言葉にしてみませんか。
鎌田 慧(ルポライター)
佐高 信(評論家)
審査員特別賞(3名)
優秀賞(若干名)