8月, 2020 | 平和フォーラム

2020年08月31日

生物多様性の低減をもたらす原発

湯浅一郎

福島事故を経験した後も、この国は原発という核エネルギーの商業利用から解放されることができないまま10年近くになる。人類の営みにとって、最も本質的で、かつ克服が困難な課題の一つが生物多様性の回復と保持であるが、生物多様性という観点から見て原発が持つ本質的な問題点を検討したい。

1.放射能を生み出し、膨大な熱を放出する原発

まず原発を建設し、稼働させることが、何をもたらすのかを辿っておこう。原発は、ことごとく市街地から離れた自然豊かな地域で、自然を破壊して作られてきた。日々、死の灰を生み出す本性から、できるだけ生活域から離れたところへの立地となることは必然であった。1970年代前半、学生時代に私が関わっていた宮城県の女川原発予定地は、当時、水道も通っていない辺鄙な場所で、原発を作るために水道が敷かれた。加えて日本では復水器冷却水として海水を使用するため、原発は、ことごとく生物多様性の極めて豊かな海に面して立地されてきた。この時点で、開発に伴う自然破壊が進み、地域の生物多様性は低下していった。

そして、稼働してからは、たとえ安全に運転されている平常時においても原発は、少なくとも以下の2つの問題を抱えている。

1)産み出される「死の灰」とプルトニウム(Pu)

原発を動かすということは、原子炉内で核分裂の連鎖反応を起こすということである。その結果、核分裂生成物、いわゆる「死の灰」が日々、作り出される。また軽水炉の低濃縮ウラン燃料には、燃えるウラン235の他に燃えないウラン238があり、ウラン238に高速中性子がぶつかってプルトニウムができる。使用済み燃料を再処理し、プルトニウムを抽出し、これを高濃縮すれば核兵器が作れる。2018年末で国内9.0トン、海外36.7トン、合計45.7トンのプルトニウムを有している(注1)。核兵器を作る意思がないはずの日本が、核兵器の原料をNPT加盟国として例外的に大量に持つ唯一の国である。日本の核武装への懸念が消えない物理的背景である。こうして、事故が起きなくても、死の灰とプルトニウムを毎日作り続けることとなる。ひとたび、事故となればこれらの放射性物質のわずか数%が環境中に放出されただけでも、甚大な被害をもたらすことは福島やチェルノブイリ原発事故の経験が証明している。

しかも、この使用済み核燃料の処理方針は、高速増殖炉の運用がうまくいかず、核燃料サイクルが破綻している中で、何ら見通しはたっていない。とりわけ再処理後に出てくる高レベルの放射性廃棄物については処分場の候補地すら見つからないままである。

東海や六ケ所の再処理工場が計画通りに稼働しないため、相当量の使用済み燃料が原発サイトに一時保管されつつ、その大部分を英仏の再処理工場で再処理してきた。その結果、日本の原発から出る使用済み燃料に貯まっていた核分裂生成物は、英仏の大気や海を汚染した。セラフィールド再処理工場(英国)から出た放射能は、アイリッシュ海を汚染した後、ノルウエ―沖を北上し、北極海にまで到達していることがわかっている(注2)。日本の原発で作られた放射能が大西洋を汚染し、地球規模で生態系への悪影響をもたらしてきたのである。

2) 熱効率が悪く、作りだす熱量の3分の2は環境に捨てられる

火電では4割強が電気にできるが、原発は熱効率が悪く、生み出す熱量の3分の2は海に捨てる。膨大な熱を復水器冷却水の温度を高めることで、温排水という形で環境に排出している。原発は、稼働している限りにおいてトリチウムや冷却細管へのフジツボなどの付着防止として使用される発がん性のある次亜塩素酸ソーダ等を含んだ温排水を毎日放出しており、これによる海の生態系への影響という問題もある。

2.生物多様性の豊かな海に立地される原発

第2の問題は、原発が面している海は、ほとんどが生物多様性の極めて豊かな海であるという点である(注3)。2016年4月、環境省は、生物多様性に関する愛知目標を達成するための基礎資料として「生物多様性の観点から重要度の高い海域」(以下、「重要海域」)を抽出した(注4)。その選定は、生物多様性条約締約国会議で示された以下の8項目の抽出基準に基づいて行われ、270の「沿岸域」、20の「沖合表層域」、31の「沖合海底域」が選ばれた。

  1. 唯一性または希少性。
  2. 種の生活史における重要性。
  3. 絶滅危惧種または減少しつつある種の生育・生息地。
  4. 脆弱性、感受性または低回復性。
  5. 生物学的生産性:高い生物学的生産性を持つ種、個体群又は生物群集を含む場所。
  6. 生物学的多様性。
  7. 自然性:人間活動による撹乱または劣化がなく、高い自然性が保たれている。
  8. 典型性・代表性:

原発が面する海の多くが、この「重要海域」に選ばれている。ここでは、典型的な事例をいくつか取り上げる。

a)福島第1原発(福島県)と女川原発(宮城県)

東日本大震災に伴い大事故を起こした福島第1原発が面する常磐沖の海は、その典型である。「沿岸域」では、福島第1原発北方の「高瀬川・請戸川河口」は「ウナギ、カワヤツメ等の両側回遊性(海と淡水を往復する)の希少生物が分布している」とされる。女川原発(東北電力)が面する海は、沿岸域の重要海域の一つである「三陸海岸中南部」の一部であり、「外洋に面するリアス式海岸にはコンブ場、ワカメ場などの藻場が混在して発達し、生産性が高い」。さらに両原発の「沖合表層域」は、「本州東方混合水域」の一部である。ここは、「黒潮親潮移行域あるいは混合水域とも呼ばれる親潮と黒潮の混合する海域であり、暖水・冷水渦を含む複雑なフロント構造が発達」し、「温帯性種と亜寒帯性種とが共存する独特の生物相を形成するとともに高い生物生産を示す海域」であり、「サンマ、サバ類、イワシ類などの浮魚類・イカ類、マグロ類やカツオなど大型回遊魚の索餌・成長海域となっており、大陸棚から大陸棚斜面域にはタラ類、カレイ類などの多様な有用水産資源が生息する」とされる。沖合海底域も「東北沿岸海底谷」とされ、「底性の魚類も多い」。つまり福島、女川原発の面する海は、沿岸、沖合表層、沖合海底と3次元的な広がりをもって、実に南北500㎞、東西200㎞の世界三大漁場の一部であり、生物多様性という観点から見たとき極めて重要な海域である。

b)浜岡原発(静岡県)

御前崎のすぐ西にある浜岡原発が面する海は、「沿岸域」重要海域の一つ「駿河湾西域・御前崎・遠州灘沿岸」のほぼ中央部に位置する。近くの大井川、安倍川「両河川には多様な回遊性生物(ウナギ、アユ、ヨシノボリ類、チチブ、テナガエビなど)が生息しており、河口域はそれらの稚魚・幼体が海から川へと通過する場所である」。また、「大井川河口から遠州灘までの海岸は、アカウミガメの産卵地の前の海域として重要」である。「当該海域の砂浜生態系には、真性海岸昆虫としてのルリキオビジョウカイモドキ、ハマヒョウタンゴミムシダマシ、ハマベゾウムシが、好海岸性昆虫としてハマベエンマムシ、ホソケシマグソコガネなど海岸特有の種が多く認められる」とされる。

c)若狭湾に面する敦賀、美浜、大飯、高浜原発(福井県)

日本海側の原発の典型として若狭湾に面して集中立地する上記4原発がある。若狭湾は、「ホンダワラ類を中心とした広大な藻場が発達しており(約2000ha)、日本海側における天然アラメの北限でもある。また、ウニ、アワビ、サザエなどの多種多様の生物が生息し、産卵場および生育場となっており、生産性も高い。また、砂底質あるいは砂泥域にはベントスが豊富で、トラフグ、ヤナギムシガレイ、マダイ、ヒラメなどの多くの魚種の産卵場の形成が報告されている。また当該海域はカンムリウミスズメ(国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種)の繁殖コロニーである。」

d)上関原発予定地の田ノ浦(山口県上関町)

福島事故以降、いまだに新設の候補地となったままの上関原発予定地の田ノ浦もまた生物多様性の豊かな海である。選定の根拠を示す情報票には、「長島、祝島、宇和島周辺の海岸は、護岸のない自然海岸が多く、瀬戸内海のかつての生物多様性を色濃く残す場所である。」「祝島と長島を隔てる水道は体の漁場として有名であり、スナメリやカンムリウミスズメが目撃されている」とある。またコアジサシの営巣地、イカナゴ、ヒラメ、マダイの産卵場、マダコの生息地、カブトガニの生息地等の記述もある。更に情報票にはないが、埋立予定の田の浦海岸には、ヤシマイシンなどの還元性土壌に生息する微小巻貝が多種類生息していることも大きな話題になったことがある。環境省自らが認めているように、「瀬戸内海のかつての生物多様性を色濃く残す場所である」海を埋めること自体が、生物多様性基本法に基づいて作成された生物多様性国家戦略に反する行為となる。

このように、原発は、「重要海域」に面して「死の灰」を日々ため込む工場となり、トリチウムなどの放射能の一部と膨大な熱を海に排出してきたのである。

3.生物多様性の低減が止まらない

ところで20世紀末、人類は、このまま生物多様性を破壊していけば、自らも含めて破滅への道であることを自覚し、生物多様性の低減を食い止める国際的努力を始めた。1992年6月、リオデジャネイロでの「環境と開発に関する国際連合会議」(地球サミット)で生物多様性条約が採択され、1993年5月に発効したことは、その一つの現れである。日本は、この条約に一早く加盟し、08年6月には生物多様性基本法を施行し、2010年10月、同条約第10回締約国会議(COP10)が名古屋市で開催された。この会議で、2020年までに「生物多様性の損失を止めるために効果的かつ緊急な行動を実施する」ことを掲げた「生物多様性戦略計画2011-2020」(愛知目標)を採択した。沿岸域の10%を海洋保護区にすることや外来生物の侵入防止など具体的な20の目標が設定された。これを受けて政府は、2012年9月、第5次「生物多様性国家戦略」を閣議決定した。

しかし、2019年5月6日、生物多様性条約発効から四半世紀にわたる世界的努力にもかかわらず、事態はより悪化しており、愛知目標の目標年である2020年の到達点は極めて不十分なものとなることを示唆する報告書が発表された。「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットホーム」(以下、IPBES)が、第7回総会(パリ)で初の「生物多様性と生態系サービスに関する地球規模評価報告書」(注5)を発表したのである。そこには例えば、「世界中に約800万種と推定される動植物について、ここ数十年のうちに約100万種が絶滅の危機にある」、「海洋哺乳動物の33%超が絶滅の危機に直面している」と書かれている。

そこで、2020年10月、生物多様性条約の第15回締約国会議を中国の昆明(クンミン)で開催し、「ポスト愛知目標」を策定する日程が組まれ、20年1月初め、公開作業部会(OEWG)が「ポスト2020生物多様性枠組みゼロドラフト」を提案している。それによると、「地球と人々への恩恵のために、生物多様性を回復の軌道に乗せるため、緊急な行動を社会全体で起こす」とし、「2030年までに淡水、海洋、陸域生態系でノーネットロスを達成、2050年までに[20%]以上を向上させる」ことを目標に掲げている。2020年の愛知目標が達成できない中で、次の10年間、積極的でより高い目標を設定しようとの提案となっている。ところが、1月からのコロナ禍の蔓延により、会議は延期され、開催時期も未定である。

この観点から、再度、生物多様性と原発についてみておこう。福島原発や女川原発沖の海は、世界三大漁場の一部として、世界規模で見ても生物多様性の観点から極めて重要度が高い。太平洋側の浜岡原発も、日本海側の若狭湾に面する4原発も同様である。先に指摘したように「死の灰」製造工場である原発を「生物多様性の観点から重要度の高い海域」に面して立地することは、生物多様性国家戦略やさらに遠からず新たに策定されるであろう「ポスト愛知目標」の掲げる「2030年の生態系の損失を実質ゼロにする」との目標に照らして許容できないことである。この文脈においては、コロナ禍によって見える現代文明の脆弱性が問題なのではない。それとは逆に現代文明こそがコロナ禍のような感染症を引き起こしたのであり、同様の事態を繰り返さないためにも、現代文明のありようそのものを改めるしかないことになる。原発を含めた化石燃料依存の文明の克服こそが課題であり、生物多様性の保全と回復という視点から文明のありようを吟味しなければならない。原発のみならず辺野古新基地建設や再処理工場なども含め、あらゆる国策について、とりあえず生物多様性国家戦略や「ポスト愛知目標」に照らして、その是非を吟味することが急務である。

  1. 内閣府:『我が国のプルトニウム管理状況』(2019年7月)。
  2. 湯浅一郎:『海の放射能汚染』,緑風出版(2012年)。
  3. 湯浅一郎:『原発再稼働と海』緑風出版(2016年)。
  4. 環境省HP「生物多様性の観点から重要度の高い海域」。
  5. 「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットホーム」(IPBES):『生物多様性と生態系サービスに関する地球規模評価報告書・政策決定者向け要約』(2019年5月)。

2020年08月19日

沖縄だよりNo.105(PDF)

http://www.peace-forum.com/wp-content/uploads/2020/08/okinawa_No105.pdf

2020年08月17日

「戦争犠牲者追悼、平和を誓う8.15集会」を開催

平和フォーラムは戦後75年となる8月15日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑において、「戦争犠牲者追悼、平和を誓う8.15集会」を開催し、フォーラム参加団体代表者や市民など約120人が参加しました。新型コロナウィルス感染症問題が今なお終息をみないことから、例年より規模を縮小し、フィジカル・ディスタンス確保などの対策を講じながらの集会となりました。


正午から黙とうを参加者全員で行ったのち、平和フォーラムから藤本泰成・共同代表がすべての戦争犠牲者に向けて誓いの言葉を読み上げました。引き続いて、立憲民主党を代表し近藤昭一・衆議院議員、社会民主党党首の福島瑞穂・参議院議員、立憲フォーラム副代表の阿部知子・衆議院議員、そして戦争をさせない1000人委員会の内田雅敏・事務局長が、心からの追悼の言葉を述べました。その後、主催者、参加団体の代表をはじめ、すべての参加者が、墓前にそれぞれ献花を行いました。

→藤本泰成・平和フォーラム共同代表の「誓いの言葉」

アジア・太平洋戦争で亡くなったすべての戦争犠牲者を追悼し、不戦の誓いをあらたにするとともに、いまなお解決していない戦争被害に対する謝罪や賠償などの問題の解決に向け、平和フォーラムとして今後もとりくみをすすめていきます。

2020年08月08日

日米軍事一体化を許すな!馬毛島の軍事基地化に反対!

防衛省は8月7日、鹿児島県西之表市馬毛島に計画する自衛隊基地の概要を公表しました。2本の滑走路を整備し、燃料施設、火薬庫のほか、海岸には桟橋、係留、揚陸施設を建設するとしています。
7日に鹿児島県庁と西之表市役所に訪れた山本朋広防衛副大臣は、「島嶼防衛と日米同盟のために基地は必要」と述べています。新基地の運用は、米空母艦載機の離発着訓練(FCLP)のほか、F35B戦闘機の模擬艦艇離発着訓練、陸自オスプレイの飛行訓練なども想定されています。一方で、大規模災害時の各種支援物資の集積・展開地としての利用を語っていますが、額面通りの受け取りはできません。
九州での自衛隊基地機能の強化と南西諸島ですすむ自衛隊の新基地建設および日米軍事一体化の動きは、中国の海洋進出の監視・阻止が目的であり、日米が軍事一体化して「中国の脅威」に備える布陣であることは明白になっています。その中で、馬毛島の位置づけは、米軍機の訓練基地としての利用と共に、兵站基地としての利用を想定しているものと言えます。
鹿児島に米軍基地はいらない県民の会と鹿児島県護憲平和フォーラムは、7日西之表市役所前、また鹿児島県庁前でも、それぞれ抗議行動を行い、コロナ禍の中でも「国防」を理由に、なりふり構わず基地建設をすすめようとする安倍政権と防衛省に対して反対の声を上げました。

資料 馬毛島における施設整備(防衛省・自衛隊)

2020年08月07日

萩生田大臣発言への抗議と盗掘されたアイヌ遺骨の返還を求める「チャランケ(談判)」の実施


8月6日と7日、参議院議員会館において、北海道内外のアイヌ民族でつくる「先住民族アイヌの声実現!実行委員会」と「日本人類学会のアイヌ遺骨研究を考える会(チャランケの会)」は、萩生田大臣発言と遺骨地域返還に関する「チャランケ」を実施しました。(チャランケとは、アイヌ語で「談判」の意味)。平和フォーラムとしても、この間、「盗掘されたアイヌ遺骨の返還を求める団体署名」に取り組んできており、「チャランケ」には平和フォーラムも参加しました。
「チャランケ」は国土交通省、文部科学省、内閣官房それぞれに対して行われましたが、特に、文部科学省に対しては、アイヌ民族への差別を「価値観の違い」とした、萩生田光一文部科学相発言に対して強く、抗議を行いました。
そのうえで、盗掘されたアイヌ遺骨の問題について「チャランケ」を行いました。「チャランケの会」の出原事務局長からは、「遺骨問題はアイヌ民族差別の象徴だ。国が『共生』という言葉を使うのであれば、大学などの研究機関任せではなく、国の責任できちんと実態を把握すべきだ。」と、国による実態把握を強く求めました。
また、全国の大学や博物館から民族共生象徴空間「ウポポイ」の慰霊施設に集約されたアイヌ民族の遺骨について、「人骨標本」として利用することのないよう、強く求めました。
遺骨盗掘の歴史的な実態調査については、アイヌ民族や歴史学者を含む調査を、国の責任で速やかに行うべきです。それを踏まえて、遺骨を出土地域へ返還し、埋葬することも、国の責任です。平和フォーラムは引き続き、「盗掘されたアイヌ遺骨の返還を求める団体署名」の取り組みを継続し、アイヌ民族と連帯して、取り組みを進めていきます。

2020年08月01日

「被爆75周年原水爆禁止世界大会」開催について

緊急事態宣言が解除され、社会・経済活動が再開されていますが、未だ新型コロナウイルス感染症は終息をみていません。さまざまな集会やとりくみが相次ぎ中止や自粛となる中、今年の「被爆75周年原水爆禁止世界大会」はオンラインでの開催とさせていただきます。

核兵器をめぐる動きは、2020年4月に開催予定であったNPT再検討会議が延期となる一方、米国・ロシア・中国などの核兵器保有国の核開発は、留まるどころか進み続けています。また、福島第一原発の汚染水放出問題や原子力規制委員会による六ヶ所再処理工場の「合格」など、原子力をめぐる課題・問題もあります。

このように核をめぐる状況が、一層厳しい中で迎える今年の「被爆75周年原水爆禁止世界大会」は、大きな節目となります。核兵器廃絶・脱原発・ヒバクシャの援護連帯に向けて大きな声を結集すべく、オンラインでの開催とさせていただきます。

QRコード

  1. 「被爆75周年原水爆禁止世界大会」は、オンラインで開催します。
    「YouTube」を利用し、事前収録した動画をネット配信します。詳細にいては、原水禁ウェブサイトに掲載します。右記のQRコードもご活用ください。
  2. 「被爆75周年原水爆禁止世界大会公式チャンネル」にご登録ください。
    1. YouTube「被爆75周年原水爆禁止世界大会公式チャンネル
  3. 「被爆75周年原水爆禁止世界大会」
    1. オンライン集会
      1. 広島大会:8月6日(木)13:00~
      2. 長崎大会:8月9日(日)13:00~
      3. 福島大会:8月12日(水)13:00~
      4. 内容:
        1. オープニング
        2. 議長挨拶
        3. 現地実行委員会挨拶
        4. 海外ゲスト挨拶
        5. 被爆者・被害者からの訴え
        6. 高校生平和大使からの訴え
        7. 基調提起
        8. アピール採択
        9. エンディング
    2. オンラインシンポジウム
      1. 国際シンポジウム:8月6日(木)14:00~
          テーマ:核兵器廃絶と日本のプルトニウム
      2. 高校生シンポジウム:8月9日(日)14:00~(生中継)
    3. オンライン分科会・特別分科会
      1. 分科会:8月4日(火)13:00~
      2. 特別分科会:8月5日(水)13:00~
    4. 被爆75周年記念事業
      1. DVD「君たちはゲンバクを見たか」のリニューアル事業
      2. 高校生「平和」の作文コンクール。

2020年08月01日

被爆から75年~私の原爆

原水爆禁止日本国民会議 議長 川野 浩一

早いもので「あの日」から75年が経過しようとしている。当時5歳の私も今や80歳、長崎の被爆者5団体のトップは次々と亡くなり、発足時から残っているのは私だけとなった。

自治労長崎県職員組合の青年部長時代から原水禁運動に関わってきたが、退職後も長崎県平和運動センター被爆連議長、原水禁副議長、議長と半世紀以上も、この運動に関わってきている。

川野 浩一さん

平安北道で生まれて

私が生まれたのは、北朝鮮の最北部、中国との国境近くの平安北道、ここで父は警察官をしていた。警察官と言っても、主な任務は鴨緑江を渡ってくる匪賊(ゲリラ)への対応が主な任務で、軍隊とあまり変わりなかったようだ。晩年、酔うとその頃の話を独り言のようにしだす。「夏は良かったなあ。そんかし、冬は河の凍って、匪賊の馬橇でくるもんやけん、命懸けやった。電信柱には生首のようぶら下がっとった。畑にわっか(若い)男のおるぞというと、兎ば捕まえるごと、網ば張って捕まえよった」。こんな危ない話になってくると、いつも母が「やめんね、そんげん話は」と遮った。いつしか私は「加害者の子」を認識するようになった。

私が1歳9ヶ月の時、父が兵隊に取られたため、母方の実家を頼って長崎に引き上げてくる。

あの日、1945年8月9日は、長崎は朝から良く晴れていた。午前11時2分、ようやく警報が解除され、私は家の前の防火用水を背に、近所の子と遠くから聞こえるヒコーキ音を「友軍機やろ」と言って機影を探していた。と、その時、その子が気が狂ったように走りだしたところまでは覚えているが、ピカもドンも私には記憶がない。気がつくと15mほど離れたところに倒れていた。脇にいた近所の中学生は額から血を流しており、私はその血を浴びていた。上空にはB29が旋回しているのが見えたので、近くの防空壕に逃げ込んだ。壕内では近所のおばちゃんたちが、「どけ、爆弾は落ちたとやろか」と大騒ぎしていたが、男の人が「こら、広島に落とされた新型爆弾ばい」と言った途端、壕内は静まりかえった。広島の情報は知れ渡っていたのだ。母が迎えに来てくれ、我が家の防空壕に移ったが、幸い家族は皆無事だった。

しばらくすると、祖母が防空壕の入口から「子供たちは絶対外に出すな」と叫ぶ。爆心地の方から大怪我された人たちがぞろぞろと…祖母は私たちに見せてはいけないと思ったのだろう。まもなく山手の防空壕に避難命令が出、外に出てみると長崎駅の方は赤黒い猛烈な火炎が上がっており、道は避難する人でごった返していた。その夜、山の上から長崎の街が延々と燃える情景を多勢の人が見ていたが誰ひとり言葉を発する人はいなかった。8月15日、「日本は敗けたぞう」と叫びながら中学生が上がってきた。壕から出てきた人たちは彼を囲んで騒いでいたが、しばらくすると、みんな無言で山を降りた。家は無事だった。寝る前にどうしても気になることがあった。枕元の破れたバケツに入っている消し炭のようなもの…祖母に尋ねると「浦上のおばあちゃんよ」と教えてくれた。「街は危ないから浦上に来い」と盛んに言ってくれていたが、母は許さなかった。行っておれば同じ運命だが、原爆の投下目標地は街の中心地、目標通り投下されていたなら…私は骨も残っていまい。運命とはわからないものだ。

世界の核被害者と共に

原水禁の初代議長森瀧一郎さんに最初にお目にかかったのは、1987年9月26日から10月3日まで、ニューヨークで開かれた第1回核被害者大会。この大会はヒロシマ・ナガサキをはじめ世界各地の数百万人に上る核被害者が一堂に会し、核被害の阻止と補償の原則を確立しようとするものだった。この時、森瀧さんがおっしゃった「小さきものは美しきかな」という言葉は今でも覚えているし、また、我々原爆の被害者ばかりが核被害者ではないことを思い知らされた。

1994年5月8日から13日まで、原水禁は欧州へ国際交流調査団を派遣したが、スイス・ジュネーブで現地NGOの方から来年の国際司法裁判所の裁判に長崎市長を証人として出席させて欲しいと頼まれた。当時の市長は本島等さん、彼は市議会で「天皇に戦争責任がある」と発言したことから右翼に銃撃され重症を負いながらも命を取り留める。しかし、その後24時間警察の警護がついていたので、多分無理だと思いながらも、帰国後、その旨を市長に伝えたところ、本人は乗り気で、行く気満々でしたが、次の選挙であえなく落選、代わりに当選した伊藤市長が出廷することになった。

出発直前、市長から「外務省から制約がかかり、発言ができない。これでは行ってもお役に立てない」とのSOS。ラッキーなことに当時は村山政権、外務省を抑えてもらい、「黒焦げの少年・谷崎昭治さん」の写真を掲げ、長崎市長らしい証言ができました。その後1996年7月8日、「(核兵器の威嚇または使用は)一般的には違反する」との勧告的意見が出されました。

この判断から11年後の2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が、122ヶ国の賛成で可決されることになるが、その一翼を故伊藤市長は果たされたのではないかと思う。(伊藤市長も2007年4月17日、銃弾に倒れる)

原爆展への反応

インド、パキスタンの核実験に呼応して、1998年11月22日から11月28日までの7日間、パキスタン・ラホールで開かれた連合・原水禁・核禁3団体による原爆資料展に参加した。

3団体は私たちの団を含め6班を組織し、インド、パキスタンでそれぞれ同様な原爆資料展を行ない、日本政府も12月16日から政府主導による初の原爆展をパキスタンの首都イスラマバードで行った。他の核保有国との違いは多勢の一般市民の他、多勢の学生や軍人、警察官までが来たことで関心が深いことが分かる。労働組合の集会にも参加したが、産別ごとの激しいシュプレヒコールの応酬や政府要人の挨拶の時には、兵士が銃口を聴衆に向けていたのはお国柄だろうか。写真展で一人の現地エンジニアがこんなメッセージをくれた。「写真展を見て非常に悲しい気持ちになりましたが、それをどう説明できるでしょうか。これらの絵や写真は全ての国に対して原子爆弾や核兵器の廃止と人類の平和を訴える手本となるものです。日本が経済国であり、美しい平和な国であることは私にとって喜びでもあります。いつの日か日本を訪ねてみたいです。日本の皆さまへ平和を願います。」彼はイムラン・ハミドと名乗った。

2000年4月19日から10日間、NPT再検討会議に連携し、連合、原水禁、核禁の3団体の「軍縮・核廃絶」平和派遣団に参加したが、その行動の一環としてニューヨークで原爆展を開催した。しかし、なかなか人が入らない。そこで我々はプラカードを持って、街角に立ち、カタコトの英語で呼びかけたが、そこで直面したのは、私の顔に指をふれんばかりの、中年白人男性の「リメンバー・パールハーバー」の強烈な一撃だった。改めて米国民の「ヒロシマ・ナガサキ」への本音を思い知らされたような気持ちだった。

折り鶴平和行進
平和行進 2019年8月4日

どこの国の総理ですか

2017年8月9日、長崎の被爆者5団体は要望書を安倍首相に手渡しますが、今回はたまたま、私が渡すことになっていた。私たち被爆者はこの72年間苦しみ抜き、そして3たび許すまじ、原爆をと必死に闘ってきました。そして、やっと今年国連で核兵器禁止条約が採択されたのです。しかし、我が国は「世界で唯一の戦争被爆国」と称しながら、それに賛同もしない、私は素直に要望書を首相に手渡す気にはなれませんでした。私の口から出たのは「総理、あなたはどこの国の総理ですか」でした。そして、「私たち被爆者はこの72年間、子や孫のために、いやすべての人にあのような苦しみを味わせてはならないと…、核兵器禁止条約に賛同してください。そして、東北アジアの非核兵器地帯構想を実現しようではありませんか、私たちもお手伝いします。」と付け加えた。首相の顔は怒りのためか少し赤らんで見えました。

世界中がコロナ騒動で振り回されているためか、核兵器禁止条約の批准がなかなか進みません。批准している国は現在40ヶ国、50ヶ国に達してから90日後に発効することになりますが、批准後、NPTとの関係をどう図っていくのか、また、この条約に賛同してない核保有国や我が国をはじめ、核の傘にいる国々がどのような動きをするのか見えて来ません。

長崎大学の核兵器廃絶研究センター(レクナ)の6月9日の発表によると、世界の核弾頭は9ヶ国で1万3,410発と、前年同期から470発減少した一方、中国は30発増の320発となりフランスを抜き、ロシア、米国についで3番目に多い国となりました。確かに前年同期と比較すると減少したとは言え、地球上の人類を何十回殺しても有り余る数字であることには変わりありません。しかも近年、米国トランプ大統領は「中距離核戦力(INF)」全廃条約(1987年発効)を失効させ、さらに「核態勢の見直し(NPR)」では「使える核兵器の開発、あるいは通常戦争でも小型核兵器の使用」を表明するなど極めて危険な状況と言わざるを得ません。また、米・ロの核削減交渉も今後どうなるのか見通しがたっていません。このような時だからこそ、「世界で唯一の戦争核被爆国」の日本の出番があるのです。米国の核の傘から出て、東北アジアの非核兵器地帯構想を完成させることです。まさに、世界の核兵器廃絶のリーダーになれるのです。(かわの こういち)

2020年08月01日

8月6日 広島は地獄に変わった

被爆証言
切明 千枝子さん

現在90歳となる切明千枝子(きりあけ ちえこ)さんの被爆体験を広島県原爆資料館の会議室においてインタビューさせていただきました。

県立高等女学校4年生、15歳の時、学徒動員で、たばこ工場に勤務をしていて、8月6日は工場から外科病院へ通院の途上、比治山橋東詰で被爆しました。この日は猛暑だったため、一休みしてから橋を渡ろうと思い、近くの建物の軒下に入った途端、閃光とともに爆風により地面に叩きつけられて気絶しました。気がつくと、建物の下敷きになっていたので、必死で外へ這って出ると、辺りは真っ暗でした。渡って行く予定の橋の向こうは火の海で、大勢の人が悲鳴をあげながら逃げてきます。川岸で疎開作業中だった学生たちが、燃えながら私の前を通り過ぎました。一瞬にして、広島は地獄に変わったのです。幸いにも私は、軒先を借りた建物が陰になってくれたので火傷はまぬがれ、頭や首筋、手指にガラス破片が刺さったのと、建物の下敷きになった際の打撲傷のみで助かりました。もし橋を渡っていたら…、もし一休みして建物の陰にいなかったら…、きっと命はなかったと思います。

私は、何とかたばこ工場に帰り着き、クラスメイトに会い、一緒に学校へと戻りました。しばらくすると、建物疎開に動員されていた下級生と東練兵場の畑に動員されていた下級生が、ひどい火傷や外傷を負って戻ってきました。指先から皮膚が垂れ下がり、皮膚を引きずりながら、歩いてくる姿にどうしていいかわからなかったのですが、先生がその足の先に引きずる皮膚を破いたのです。すると下級生は「痛くて歩けなかったの、ありがとうございます」と言ったのです。その後、薬もなく、医者もいない中で下級生たちは死んでいきました。死体がつみあがってく様を見て、本当にかわいそうでたまりませんでした。それは地獄でした。下級生のご遺体を荼毘に付し、遺骨を拾ったことは今でも思い出します。

切明 千枝子さん

証言活動を始めたきっかけは何ですか。

正直、忘れたいと思っていました。でも、そう思いながらも、年を経ていくごとに、忘れちゃいけない、黙っていてはいけないという思いが強くなっていきました。このまま黙っていることは、死んでいった人たちが無かったことになってしまうのではないかと思ったのです。人間というものは愚かな生き物ですから、どんなにひどい目にあっても、そのことを忘れるとまた同じ過ちを繰り返してしまうものです。わが子の顔、孫の顔を見ていると、あの時の過ちを繰り返してはいけない、そのように強く感じてきたのです。

私の身近に原爆症の方がいて、障害をもったお子さんを産んだ方もいました。私も被爆者、夫も被爆者ということもあって、私たちは結婚するときに「子どもを産まない」という約束をしたのです。周りを見ていて、もし子どもを産んだら、その子にかわいそうな思いをさせてしまうかもしれない、そんな恐怖心を抱いていました。ところがある日、いつもお世話になっている内科の先生に聞かれたのです。「結婚から何年も経っているのに、あんたたちは子どもをつくらないのか」と言われて、私は思っていたことを伝えたのです。「障害のある子どもが産まれたらいやだから、私たちは子どもをつくらないと決めているのです」と言った途端、その先生に怒られたのです。近藤先生といって、今はすでにお亡くなりになっていますが、息子さんが後を継いで、内科の病院をされています。先生から、「障害のある子が産まれたらいやだなんて思うってことは、あなたたちが障害を持っている人に対して差別意識を持っているという証拠ではないか。」って怒られたのです。その当時、私たち夫婦は、差別問題を是正するように求める雑誌の編集や刊行などに関わっていました。先生はそのことを知っておられたのです。子どものことに対して、差別意識があるようなことを言っているのでは、私たちの仕事は嘘をついているようなものだとはっきり言われたのです。そこでハッとさせられて、子どもを産まないということは辞めて、一男一女を産み育てることができました。被爆を体験したものの、今は、子どもだけでなく、孫たちもいます。これも、近藤先生のあの時のことばのおかげだと思います。

被爆証言をしていて、若い人たちに思うことはありますか。

私はまだ、高校生平和大使の皆さんに会ったことがないので、ぜひ会ってみたいと思います。

福山盈進高校の皆さんが、私の被爆証言を書き起こして下さって、一冊の本にしてくれたのです。今は、英訳の作業に取り組んでくれています。若い人が平和のために活動してくれるのは、とてもうれしいことですね。今は新型コロナウイルスの影響で、修学旅行など延期や中止になっていて、被爆証言をする機会がほとんどありません。被爆証言をすると、他県から来る学生さんたちは本当に熱心で、帰ってからも反応がとてもすごいのです。お手紙を書いてくれたり、読み切れないほどの文集を作って送ってくれたりします。この子たちに伝わったのだと感じて、とてもうれしくなります。幼い時に聞いた話っていうのは、その人の心に残るのですよ。大人になっても、心の中に残っていて、大事な要素になると私は思います。だから、小学生が熱心に話を聞いてくれているのがとてもうれしく感じています。残念なことに、広島県内の子どもたちに対しては、被爆証言をする機会がほとんどありません。被爆の話を聞き飽きたと思われているのかも知れませんが、広島の子どもたちこそ、しっかりと理解しておく必要があると思います。

学校教育の場でも平和教育をしっかりとやってほしいと思います。子どもの時のことって、大人になった今でも忘れていません。先生が言ってくれた一言は、今も覚えているものです。教育は本当に大切なものです。私がまさにそうでしたが、軍国主義っていうのはすぐに浸透して、軍国少女が誕生します。私は被爆当時、学徒動員で広島地方専売局のたばこ工場で働いていましたが、配属が決まった時は、「たばこ工場で働いても、御国の役は立てません」なんて、先生に抗議したものです。今、改めて考えてみると、敵の飛行機から直接狙われるようなところではなく、先生たちは考えて配置してくださったのだろうと思います。

軍国少女だった切明さんでも、当時、戦争に対して違和感を持ったことはありますか。

この戦争はどうなっているのだろうと考えたことはあります。学徒動員で、色々なところに配置されましたが、陸軍被服支廠(注:軍人の軍服などを作る施設)に行ったときに、倉庫の中が空っぽだったことがありました。別の場所に新しい軍服が1万2,000着保存されていたらしいのですが、私が行ったところは何もなく、古着を洗濯させられたのです。ボロボロで、穴が開いていて、血も付いていたので、もしかしたら亡くなった兵隊さんの軍服をひっぱがして持ってきたのかな、なんて今になっては思いますが。その古着を洗濯していたときは、もしかしたら戦争に負けるのではないだろうかと思いまして、先生に「こんなんで日本は大丈夫ですか」と聞いて、怒られたこともありました。

また別の機会で、陸軍兵器廠(注:大砲や鉄砲、その弾丸などを作る施設)に行ったときのことです。土嚢で囲われている弾薬庫があるのですが、火薬を測って鉄砲の弾を作るのです。そこにいた時に、見ず知らずの男性から、「恐ろしいところに子どもを入れているな」と言われたことがありました。よく考えると、火薬なんて火がついたり、爆発したりしたらそれで終わり、とても危険なところにいたわけです。でも、先生方も軍の力が強くて、子どもたちに弾薬庫に行かせることを拒否できなかったのだと思います。

もう一つ、38式歩兵銃を整備させられたことがありました。さび落としをするようにいわれて磨きました。どうして、「38銃」というのだろうと尋ねたところ、明治38年製の鉄砲だからだとわかりました。昭和の時代に古い銃を出してきて使おうとしていたのです。新しい銃を作る余裕もなかったのかと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。

今の日本に思うことはありますか。

心の底から思うことです。戦争なんて2度としてはいけないし、ましてや核兵器を使うなんてこと、人類の破滅につながることなので、許せないことだと思っております。日本が唯一の戦争被爆国だからこそ、「戦争はだめ、核武装はだめだ」と叫んでほしいと思います。それなのに、安倍さんはそういう様子でもないし、どうやら日本を核武装したいと思っているのではないかと疑われる節があります。だから、広島の被爆者の務めは終わっていないし、これからもっと動きを大きくしていかなくちゃいけないと思いますが、直接被爆の被爆者は減っていきます。この声を伝承してくださる方が一人でも増えて、反戦反核につながればありがたいと思います。胎内被爆の方でも、75歳ですから、被爆者がこの世からいなくなるのは目に見えています。だからこそ、若い人に広島の惨状を伝えて、2度とヒロシマやナガサキが繰り返されないようにしていかねばならないと思います。

でも、これからのことがとても心配です。日本は憲法9条で、武器は持たない、戦争には関わらないって宣言したのだから、それを絶対に守ってほしいです。安倍さんの在任中の目標の憲法改憲について、広島は黙っていてはいけないと思います。

今、当時のことを思い返すのもつらいです。フラッシュバックするので、悲しくなってしまう。それでも、黙っていてはいけないと思って、命ある限り、被爆体験を語り続けようと思います。

インタビューを終えて

梅雨に入ったことで、広島は生憎の雨。切明さんが、前日に体調を崩されたと聞き、不安で迎えた当日、心配を吹き飛ばすほどに気丈に、はっきりとした口調で被爆証言をお話ししてくださいました。インタビュー前半の「被爆証言」は、被爆75周年原水爆禁止世界大会公式YouTubeでも公開しています。後世に伝えるべき、被爆の実相を是非ご覧ください。 (北村智之)

2020年08月01日

危機のなかで考えるメディアの役割、日本社会の未来

インタビュー・シリーズ:157
金平 茂紀さんに聞く

金平茂紀さん

かねひらしげのりさんプロフィール

TBS「報道特集」キャスター、早稲田大学大学院客員教授。1953年生まれ。東京大学文学部卒。TBS入社後はモスクワ支局長、ワシントン支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、などを経て、2010年より現職。著書に『テレビニュースは終わらない』(集英社文庫)、『沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)、『抗うニュースキャスター』(かもがわ出版)など多数。

─金平さんは福島原発の現状について、継続的に取材をされていますね。

福島第一原発には毎年入って取材しています。今年はすでに2回入りましたが、決して楽観的にはなれない状況です。放射能汚染と新型コロナウィルス感染の二重の問題のなかで、廃炉作業員は「三密」状態に置かれていた(いる)現実があります。こういった実態についての報道が実は十分にできていません。

当初言われていた2040年までの廃炉完了は、どんどん延びています。原子炉のなかのデブリなどがどうなっているのかも把握しきれていないのが現状です。それを取り出すなどという人類史上初めての作業をやりきらなくてはならない。汚染水の問題も深刻です。

そんななかでもオリンピックを1年延期してでもやるというのだから、破綻しているとしか言いようがありません。

─今、新型コロナウィルス感染症問題が私たちの社会を揺るがしています。どのようにご覧になっていますか。

今回のパンデミックも「100年に一度」とも言われていますが、たしかに100年前にはいわゆる「スペイン風邪」(インフルエンザ)でたくさんの人びとが命を落としました。大きなパンデミックの後は、社会構造が変化します。100年前は資本主義の矛盾が噴出し、ロシア革命が起こったりした時代です。

これだけ大きく、地球規模で起きたパンデミックにしても、始まりなのかそれとも半ばにあるのか。どの段階にあるのか、私たちにはまだわかっていません。日本で小康状態に入って終わったかのように思っていたら、今度は南半球で、あるいはアメリカでも拡大している状態です。日本だって、今秋以降や来年どうなっているか、まだわかりません。ワクチン開発や治療法の確立にはまだ時間がかかります。

こうした問題が解決するかどうかがわかる前に「人類がコロナウィルスに打ち勝った証としてのオリンピック開催」などと言うのは、思考を放棄しているとしか言えませんが、こういう人たちが権力を持った代表者なのです。今の危機を乗り越えるだけの能力も想像力も持ち合わせず、ただ権限だけを行使し、みんなが混乱しているところに乗じてやりたい放題をやっているのです。暗澹たる気持ちになります。

─この危機のなかで日本の政治の問題性が大きく立ち現れています。

今という時代は情報過多の時代で、政治家も情報発信やパフォーマンスにばかり熱心で、もっと黙々と仕事をしろと言いたくなりますね。しかしメディアに露出している方が権力を維持できるようになってきていて、政治がメディアショーになってしまっています。為政者・公務員からは、国民に対する奉仕者だという基本的な倫理が失われ、自分たちの仲間うちだけの私利私益を追求し、権力を握り続けることが目的になっています。

コロナウィルス対策で休業させたのならば、当然それに対する補償があるべきですが、いくらか給付してやるぞ、で済ませようとしている。呆れてしまいます。近代国家における政府とは何かということがまるでわかっていない。自分たちが支配者であって、お前たちは「臣民」として従うんだという江戸時代のような感覚で政治をやっている。東京高検の検事長人事をめぐって検察OBたちが法務省に提出した意見書のなかで、「朕は国家なり」というルイ14世の言葉を引用したくだりがありましたが、まさにそういうことです。

1970年代にロッキード事件を摘発した検察の人びとの職業倫理の高さに比べ、今の政治家、たとえば法務大臣は、いったい何をよすがとして執務しているのでしょうか。ほとんど当事者能力を欠いていて、官僚の作文した想定問答を読み上げるだけです。

野党の責任も重大です。世論調査を見ても支持率は惨憺たる状況が続いています。与野党の力関係がこのような状態であるにもかかわらず、足の引っ張り合いに明け暮れている。

戦後の日本は一貫してアメリカに追従してきましたが、この安倍政権においては、トランプ大統領と安倍首相の蜜月ぶりに象徴されるように、極限的な追従にまで堕してしまいました。そのことによる損失は実に大きい。国家としての尊厳がずたずたになってしまった。日米安保条約が、実質上、憲法の上位法になってしまっていることが、政治や外交に歪みをつくっています。一言で言えば「属国」です。

香港で起こっているような基本的人権への侵害は、実は私たちの足元でも起こっています。例えば、関生弾圧のような、露骨な労働組合潰しが大手を振って行われています。まるで戦前の特高警察です。労働組合イコール悪かのような、前時代的な人権感覚が治安機関を中心に横行しています。

しかし、コロナ禍の副作用で、いかにひどいところに私たちがいるのかが、ようやく見えてきたとも言えます。多くの人びとが今の政権のままではいけないと気づき始めている。一刻も早く今の政権にお引き取りいただかないと、この社会そのものが持たなくなっています。

─こういう状況のなかでメディアが重要な役割を持っていますね。

新型コロナ禍はあまりに大きな現象だから、この全体を概観的に語るのは非常に大変な作業です。こういう状況にあって、メディアが何を伝えるべきなのかということを考え続けています。時間をかけてもやり続けなくてはならない。

例えば専門家会議から発表される見解や方針が本当に正しいのか、メディアはチェック機能を果たさなければならないのに、まるで宣伝係になってしまっています。これは恐ろしいことです。3.11以前の原発に対するメディアのスタンスと相似していて、「安全だ」という発表に対し、少数の人びとを除き、ほとんどのメディアは旗振り役のような役割を担っていました。(後日の注記:その専門家会議さえ「廃止」されてしまいましたが。)

「日本の医療水準は高い」、「民度が高い」などと自画自賛する政治家たちがいるなかで、「日本はすごい」というムードに流されチェック機能を失ったメディアは深刻な問題を抱えています。

社会にもたらされた混乱は大きく、経済活動や教育といった社会活動全般の「自粛」、私権の制限に至るまで、国民は飲まされたわけです。「要請」という名目で強制ではないようで、ほとんど「命令」に近いものでした。

「テレワーク」「リモート労働」と言っても、非正規労働者、エッセンシャルな(不可欠な)現場労働者、フリーランスの人たちへの補償は整っていません。こういった問題をメディアがしっかりと報じて、弱い立場に立って検証することが必要なのに、まるで「自粛警察」の先導役のように、パチンコ店客や外出する人々を叩き、今度は「夜の街」=水商売に対する差別的対処を煽るようなことをやっています。

政府による対策や施策は、総じていえば、原理原則を欠いたその場しのぎの弥縫策で、「火事場泥棒」みたいなことをやっているときに、国民はおとなしくしてはいられないはずです。電通系企業群の「中抜き」問題、検察ナンバー2の賭け麻雀もそうだし、国民やメディアが、我慢することに慣れてしまっているのではないでしょうか。

アメリカを見れば、新型コロナウィルス感染が拡がる厳しい状況のなかでも、警察によって黒人男性が殺害された事件に対する抗議を契機に、集会やデモをあそこまでやっています。アメリカの市民の動きを見て力づけられるのは、最終的には、草の根、市民の力が大きく世の中を動かしているのだということです。

─「ポストコロナ」という言葉が聞かれますが、今後の私たちの社会はどのように変わっていくのでしょうか。

大きな災害や危機の後には、とてもよくない反動がしばしば現れます。いつ終わるかわからないという状態が続くと、偏見や差別が、とりわけ嫌なかたちで拡がっていく。ウィルス感染の問題だけではなく、この偏見や差別の問題も怖いものです。だからこそ、このまま黙っていてはいけないのです。

「ポストコロナ」、新型コロナウィルス感染症を経験した後の世界は、単に前に戻るのではなく、必然的に違うものになっていくでしょう。しかし、そのことをバネとして、世界を大きく変革することが必要ではないでしょうか。

3.11のときは元通りに戻るということが強く意識されていて、実際に原発再稼働まで行ってしまっています。「アンダーコントロール」などと国際社会に嘘までついて、オリンピック招致もしてしまった。もう二度とそういうことを繰り返してはいけないのだ、ということを理解しなくてはいけません。

私たちの社会がいかに脆いのか、そして弱いものから順番に痛い目にあわされていくのかということがわかったのなら、元の世界に戻せばいいのではなく、これをきっかけにして、新しい生き方というものを自分たちの側から(政府から押しつけられるのではなく)作っていくのでなければと思います。ただ戻るのであれば、もっとひどいことになるでしょう。

日本社会全体が、知識や知性といったものを役に立たないものとして軽んじる一方で、声高に叫ばれる主張やマッチョな(新自由主義的な金儲け至上主義的な)価値観に惹きつけられていくような流れのなかにあります。とくに常にメディアに露出し続けることによって、自分という存在を保つポピュリスト政治家たちがいます。そういう人たちが行政の中心になってしまったことが悲劇です。おそらくアメリカは大統領選挙もあり、今後大きく変わるでしょうが、日本はどうなるでしょうか。

いま、私の持ち場であるメディアが変わるべきはもちろんです。労働組合や市民が果たすべき役割も大きいですが、とくにアカデミズムの世界ががんばってほしいと僕は思います。たとえば、大学という存在は、単に授業料を取って学生を教育するだけではなく、研究する場ですよね。こういうときだからこそ、社会に対して発信をしていくべきではないでしょうか。

TOPに戻る