11月, 2013 | 平和フォーラム - パート 2
2013年11月03日
沖縄から問う「平和、人権、いのち」-核も基地も戦争もない世界を!憲法理念の実現をめざす第50回大会基調
2013年11月01日
「ヘイトスピーチ」への断罪 ─人権確立への一歩に─
学校法人京都朝鮮学園へ、いわゆる「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)を繰り返してきた「在日特権を許さない市民の会」(在特会)に対して、京都地裁(橋詰均裁判長)は、一連の発言を「差別」として学校近辺での街宣の禁止と合計1226万円を超える賠償を命じた。在特会は、2010年4月の徳島県教組書記局への襲撃や、2011年1月には奈良県水平社博物館への差別街宣事件などを繰り返し起こしてきた。判決は、極めて明瞭に在特会の行動を断罪している。判決文の中には「こいつら密入国者の子孫」「不逞鮮人を許さないぞ」「朝鮮人を保健所で処分しろ」「犬の方が賢い」「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮へ帰れ」など、聞くに堪えない差別発言が並ぶ。
判決は、民族教育は人格的生存に不可欠な権利として憲法13条、および教育を受ける権利の自由的側面として憲法26条によって補償される。加えて、国連人権法上も普遍的権利として保障されるとしている。かかる権利は、教育権として全ての人に補償されるべき権利の側面と、少数集団に特有な権利として二重に保護されるべきとし、最後に「我が国における歴史的経緯を踏まえれば、日本国内における在日朝鮮人に対する民族教育は、特別な意義を有する」と結んでいる。
このように、朝鮮学園を民族教育の極めて重要な権利行使の場とし、それに対する「ヘイトスピーチ」が、少数集団に属する人々の自尊心や民族的自我を傷付け、少数集団に対して深刻な被害をもたらすものであり、ゆえに日本が批准している「人種差別撤廃条約」が禁止する「人種差別」に該当するとした。ついで「ヘイトスピーチ」は、朝鮮学園の民族教育に対する違法な侵害と評価すべきであり、朝鮮学園が関係する在日朝鮮人の自己実現に極めて重要な役割を果たしていることからすれば、教員や児童、その父母らの精神的苦痛の総量が積極的に評価されるべきとしている。この判決に示された考え方は国際基準であり、私たちはしっかりと受け止めなくてはならない。
日本政府は、民族教育を認めず高校無償化制度から朝鮮高校を排除した。国連社会権規約委員会は、日本への勧告で「排除は差別」と断じている。日本が批准した社会権規約は、その実現のために「漸進的な努力」を義務づけている。しかし政府は「必ずしも従わなくて良い」と発言している。市民団体の交渉に臨んだ文科省の官僚は「罰則規定はない」と主張して恥じない。あの「改憲案」を作るくらいの安倍政権だから、ため息しか出ない。
2013年11月01日
ニュースペーパー2013年11月号
- インタビュー:中山きくさんに聞く
- 第50回憲法理念の実現をめざす大会
- オスプレイ全国展開、配備を撤回させよう
- 第45回食とみどり、水を守る全国集会によせて
- 2兆円かけても…もんじゅの研究開発は中止を!
- 公正なルールで電力システム改革の実現を
- 核実験禁止条約発効促進…採択から17年
- 投稿:戦慄する遊就館の展示
- 東京平和運動センターの取り組み
- 重慶大爆撃訴訟の公判開かれる
- 核のキーワード図鑑
オスプレイ日米共同訓練始まる
「沖縄の負担軽減になるという欺瞞は許せない!」─9月29日に滋賀県高島市で開かれた「オスプレイ来るな!あいば野集会」で連帯あいさつに立った沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが、怒りをこめて訴えました。10月16日に滋賀県の陸上自衛隊饗庭野演習場で行われる日米合同演習に米海軍MV-22オスプレイが初めて登場します。また10月25日には高知県での「防災」共同訓練にも同機が登場する予定です。負担軽減や防災訓練という「初出演」の演出がされるのです。集会では「負担軽減というなら、沖縄県が指摘した318件のオスプレイ飛行合意違反に答えなければならない」「機体自身が危険で、垂直モードでは真下の人が吹き飛ばされるオスプレイが『防災』に使われるとは笑止の極みだ」という声があがりました。「あいば野集会」は「フォーラム平和関西ブロック」と「あいば野に平和を!近畿ネットワーク」が主催し、800人が参加しました。関西ブロックの石子雅章議長は「自衛隊基地の強化と米軍機飛行訓練は絶対に許さない」とアピールしました。
(写真は高島市の公園で開かれた集会とデモ行進)
【インタビュー・シリーズ その83】
戦争の体験を次の世代に伝えることが使命
元「白梅学徒看護隊」中山きくさんに聞く
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【プロフィール】
1928年沖縄県佐敷村(現・南城市)生まれ。1941年沖縄県立第二高等女学校入学、4年在学中の1945年3月、山第一野戦病院で女子学徒隊として補助看護婦となる。同年6月初めに軍より解散命令を受け戦場を彷徨。九死に一生を得る。戦後は25年間小学校教諭を務め、「命の尊厳と平和の尊さ」を根底に教壇に立つ。退職後、戦後50年目に白梅学徒看護隊の記録『平和への道しるべ』を出版。以後沖縄戦証言活動を始める。
―中山さんは「白梅学徒看護隊」として沖縄戦を体験されました。
女子学徒隊は、よく知られている「ひめゆり」だけではありません。当時沖縄には九つの女子校がありました。そのすべての学校に学徒隊が編成され、最寄の病院で傷病兵の看護にあたったんです。
私の学生時代は、戦時訓練なども始まりほとんど勉強できませんでした。食糧増産のため、学徒勤労動員令の下、農作業などもしました。1944年にはたくさんの兵隊さんが沖縄にやってきました。みんなで万歳して迎えました。学校が兵舎になり、女学生だけではなく、年配の男性や働き盛りの女性も動員されて軍事基地づくりをしました。働かなければ「非国民」のレッテルが貼られました。食べ物も配給制で、沖縄の人はほとんど芋しか食べていませんでした。米軍の魚雷で撃沈された学童疎開船「対馬丸」も食糧対策のため疎開させようとしたものでした。
私たちは社会情勢のことなどあまり知りませんでした。新聞やラジオから流される勇ましいニュースを聞いて、それを信じ切っていました。日中戦争から10年、戦場はずっと中国や東南アジアでしたから、国民は銃の弾1発も見たことがなかったのです。そこに突然大空襲(1944年10月10日)があったのです。胸に響くものすごい爆音が聞こえ、近くの防空壕に逃げ込みましたが、みんなガタガタ震えていました。那覇に居ては危ないからと豊見城の知り合いのところまで逃げる途中、機銃掃射を二度受けました。このとき初めて戦争はこんなに大変なことだったのかと思ったのです。
それからしばらくは田舎に疎開していましたが、昭和20年(1945年)2月、第32軍(沖縄守備軍)司令部から要請があり、学校から女学校の上級生に看護教育を行うという連絡が来ました。3月6日、56人が東風平(こちんだ)国民学校を宿舎にして、受講しました。ものすごい詰め込み教育でしたが、一所懸命勉強しました。学徒については「動員」だと言われますが、実態は軍隊そのものでした。6つの「内務班」に編成され、ラッパの合図で起床し、宮城遥拝、そして軍人勅諭の唱和を行いました。不寝番もあってたいへん厳しい規律でした。しかし、米軍の艦砲射撃が始まり、看護教育は18日目で打ち切られました。ですから、注射の仕方などは説明を受けただけでした。
そして山第一野戦病院に配置されました。「トンボ」(米軍の偵察機)が上空を飛ぶようになっていたので、艦砲攻撃を避けるため病院も壕のなかにありました。どんどん大けがをした人たちが運ばれてきました。はらわたが飛び出したり、手がちぎれたり、とにかく大変でした。十分な救急体制もありませんから、多くの人が悪化して、亡くなっていきました。2、3日で化膿し、ウジが涌きました。
私は4月に仲間5人とともに手術場壕に配置換えになりました。夕方暗くなってから大けがをした人たちが運ばれてきて、夜中にかけて手術をするのですが、電灯もありません。手術台の両脇に一人ずつ、両手に蝋燭を持って立ちました。ほとんどが悪化した状態でしたから、切断しなくてはなりません。麻酔も足りず、苦しむ兵隊さんの様子に目を背けましたが、軍医さんにしっかり蝋燭で照らせと蹴飛ばされながら、痛みで暴れる兵隊さんに「動かないでください、もうすぐ終わります」と必死で声をかけました。そうして切り落とされた手足を空き缶に放り込んで、艦砲弾の飛び交うなか、敵機に見つからないようにしながら、投げ捨てるのです。
毎日患者は運ばれてきて「入院」はありますが、「退院」はありませんでした。病衣もなく、薬品、包帯も不足がちでした。人手も足りず、兵隊さんも垂れ流しの状態でした。一日一日、大変な状態になっていき、軍医さんが壕の入り口で患者さんを選別するようになりました。あるとき開南中学の生徒さんが運ばれてきましたが中に入れてもらえず、私たちが治療の真似事をするくらいしかできないまま、亡くなっていきました。それでもきっと友軍が助けに来てくれると信じて、一所懸命働きました。
6月4日、本部壕に集合させられました。そのとき、ほかの壕にいた仲間と再会し、重症の患者が毒殺されていったことを聞きました。そして中部の西海岸に米軍が上陸し、5月下旬には首里も陥落し、あと2、3日もすればここまで米軍がやってくる。この病院は解散するので南に逃げろと指示されました。そうして私は避難民の後について逃げていったのでした。食料は尽き、敵がすぐ近くに迫り、本当に怖い思いをしながら、南のほうをめざしました。
―証言活動を行われるようになったのはなぜですか。
ひめゆり学徒隊の場合には先生が同行しており、戦後その先生方のご指導で『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』を出され、全国に知られるようになりましたが、それ以外の学徒隊には先生は同行しませんでしたし、生徒は配置された場所以外のことを知ることができませんでした。その後友達の消息を知るのも10年以上かかったくらいです。そして、戦争のことはもう思い出したくないという仲間も多くて、なかなか記録の書きようがなかったのです。
私自身、亡くなった友達に申し訳ないという気持ちもあり、ずっとふさぎこんでいました。しかし、夫の転勤で2年間広島に、その後転勤したのが長崎でした。両県で原爆の被害者のお話を伺い、資料館の展示も見ました。そのなかで、広島・長崎の原爆被害、そして沖縄の地上戦の記録は、絶対残さなくてはならないと思い立ちました。そして沖縄に帰ってきて友達に記録づくりを呼びかけました。そのとき、戦後50年ほど経っていました。
私のような人生を子どもたちには歩ませたくない、というのが私の活動の原点です。戦争を体験した者として、二度とあのような戦争を起こしてはならない。次の世代の人たちにそのことを伝えることが証言活動の大きな目標です。戦争体験者はみんなそう思っているはずですよ。でも、一歩を踏み出せないんです。戦争を許さない集まりはいろいろありますが、そこに参加することには二の足を踏むんです。そこを、行動派の私が引っ張りだすんです。一緒に行こうと。私はやらなくてはならないことがあると思ったら、自分だけではなく、必ず仲間を一人でも多く誘うんです。そのことが私のモットーです。
学生さんにお話しする機会がありますが、「今度学習会に来るときには必ず一人でもいいから、仲間を連れてきなさい。そして勉強してわかったことを発言しなさい」と言います。
―この間「さようなら原発1000万人署名」をたくさん集めていただきました。
2011年にこの署名が始まって以来、小さな集まりがあるたびに少しずつですが集め続けています。呼びかけ人の方々は本当にすばらしい人たちで、私は大好きなんですよ。いま私は「白梅同窓会」の会長、そして「青春を語る会」の代表を務めています。まずお声掛けをする役は私がやっていますが、皆さんの力を借りながら活動しています。
私たちの16、7歳のころは沖縄戦でした。ですから私たちが青春を語ることはイコール戦争体験を語ることだということで、会の名前を「青春を語る」という名称にしたのです。戦争のことを、自分たちだけがわかってもしょうがないですよね。次世代に語り継ぐことが必要だということで活動しています。毎月9日に集いを持って、13年目になります。
7年前に私が同窓会の会長になりました。できたら戦争体験の継承活動に専念したかったのですが、これまで頑張っていただいた先輩方にご無理をかけてはいけないと思って、お引き受けしました。私は女子学徒隊体験者だからということもあって、皆さん納得してくれ、会員の皆さんに行動してもらう上でやりやすくなり、感謝しています。
―オスプレイ配備など沖縄の基地負担がいっそう強まっています。
中山さんをモデルにした絵本 (今年6月刊) |
足が悪いので県民大会には行けなかったのですが、何かのかたちで反対の気持ちを示していかなくてはいけないということで、同窓会や青春を語る会の仲間といっしょに、赤いリボンをつけています。単に安全性の問題ではなく、ただでさえ基地の負担が大きいのに、オスプレイ配備によってもっと基地が強化されると言うことだから反対なのです。
二度と日本が戦争をする国にはなってほしくありません。しかしそのためには「心の中で思っただけではだめ」というのが私の信条です。何か行動することが大切です。これまでお会いしてきた小学生から大学生までのたくさんの若い人たちが、白梅同窓会の慰霊祭のお手伝いに来てくれています。その場限りにならないのがうれしいですね。
どうしたら命の安全・安心と人権の平等を実現できるのか、そのために私はがんばっていきます。
〈インタビューを終えて〉
さようなら原発署名を懸命にとりくまれ、私ども事務局を励ます丁寧な手紙を書いていただいた中山さん。かくしゃくとして平和への思いを語られました。沖縄県立第二高女の校章は「白梅」であり、そこから白梅学徒隊と呼ばれるようになった女学生同窓たちが出遭った経験。中山きくさんは、沖縄戦で観たこと、体験したことを伝えるために命を捧げられているようでした。オスプレイ反対集会にも「心の中で思っていただけではだめ」と仲間をつよく誘われました。戦争を生きてこられた体験を、じかに聴いた私の体験を生かす使命をいただきました。
(道田哲朗)
第50回憲法理念の実現をめざす大会
私たちの「市民革命」を! 沖縄の地から闘いの火蓋を
フォーラム平和・人権・環境 事務局長 藤本泰成
「憲法改正」が現実となる安倍政権
10月1日、「日本の憲法改正(自民党改憲案)は、韓国・中国との関係に悪影響を与える」との認識に基づき「憲法と自衛隊(のあり方)の見直しの議論について、ここ数カ月の安倍首相の発言をすべて読んだが、率直に言ってこの地域の役に立たない」との在韓米軍高官の発言が報道されました。米軍関係者の異例の発言ですが、アジアにおける日本の立場や歴史に学び、自民党改憲案の中身を精査するならば、当然の発言内容ではないかと思います。
安倍晋三首相は、「侵略戦争の定義はない」「村山談話を見直す」「従軍慰安婦は強制ではない」などと、史実に基づかない勝手な主張を繰り返してきました。米国やEU諸国からは、差別主義、国家主義者として評価されているのではないかと考えます。オバマ米大統領は、今年2月の安倍首相訪米では共同記者会見を行わず、G8サミットにおいても首脳会談を拒否しています。安倍晋三の政治姿勢に関して、各国首脳は距離を置くものとなっています。
安倍政権誕生以来、「憲法改正」が現実のものと受け止められています。しかし、国民の多数は「戦後憲法を大切にしたい」と考えているのではないでしょうか。今年8月24日に示された東京大学谷口将紀研究室と朝日新聞の共同世論調査で言えば、憲法改正に賛成するものは2012年の51%から44%に減少しています。自民党改憲案の中身が知らされ、実態が見えてくるにつれて、国民が懐疑的になってきていると言えます。自民党改憲案を端的に言うと、「憲法9条を変えて戦争をします」と言うことです。いざ戦争と言えば若者は自衛隊をやめるかもしれません。現在の自衛隊法では不十分として、国防審判所を置き敵前逃亡に厳罰を処す。国民が協力しないと困るので「領土・領海・領空を保全し、その資源を確保しなくてはならない」と国民に国防の義務を負わせ、「公益と公の秩序に反しない」との人権に対する制限を加える。緊急事態を宣言してすべての法を停止することも考える。戦争になったら、教育勅語にあった「一旦緩急あれば義勇公に奉仕」を実践させる。自民党改憲案をそのように見ていくと、「怪しい」ことは間違いない。国民の「命」を脅威にさらすことに違いない。安倍晋三という人物の「危うさ」が見えてきます。
解釈改憲で集団的自衛権行使へ
政府は、今臨時国会において戦前の軍事機密法のような「特定秘密保護法」と「国家安全保障会議(日本版NSC)」の成立をめざし、次期通常国会に提出しようとしている「国家安全保障基本法」と三位一体で、憲法を改正することなく集団的自衛権の行使を可能にすることを目論んでいます。国会で3分の2をとっても、憲法改正には国民投票の壁がある。法律なら過半数で成立し、しかも国民投票はいらない。下位の法律で最高法規である憲法を変える。私たちはこのような解釈改憲の姑息な手段を許してはなりません。
平和フォーラムは、憲法理念を守り・生かし・育てることを基本に「憲法理念の実現をめざす大会」を積み重ねてきました。今年は、11月3日から5日まで、先の大戦で壮絶な地上戦を経験し幾多の犠牲者を出した沖縄県の那覇市で、50回目の節目の大会を開催します。戦後、長きにわたって米軍軍政下で塗炭の苦しみを味わった沖縄は、1972年に本土復帰を果たします。沖縄県民は言います「私たちは平和憲法の下に復帰した。しかし、この現実は何だろうか?」。これは、あたりまえの思いではないでしょうか。
あの第2次世界大戦のように、沖縄から、日本から、若者が戦いの地に送られその命を散らしていく。積極的平和主義などという美名の下に、悲劇を繰り返してはなりません。自民党改憲案では、「個人」が「人」に変えられています。「個人」をないがしろにする中で「人権尊重」の確立はありません。平和フォーラムは「ひとり一人の命に寄り添う政治と社会」を求めてとりくみを展開してきました。その基本に立つことが大切です。
東大教授の高橋哲也さんは北信越ブロックの憲法集会で「日本人は、明治憲法を欽定憲法として与えられ、そして敗戦ということをきっかけとして日本国憲法を得た。いまだ自らの意志で、自らの血を流し憲法を獲得したことがない」と話されています。沖縄の地から、私たちの手による憲法を確立する闘いの火蓋を切って、私たちの「市民革命」を成就したいと思います。大会の成功に向けて、全国連帯でとりくみましょう。
憲法理念の実現をめざす第50回大会
沖縄から問う「平和、人権、いのち」
─核も基地も戦争もない世界を
11月3日(日)
13:30~開会総会、14:30~シンポジ ウム(会場=那覇市民会館大ホール)
11月4日(月)
9:30~13:00 分科会
「非核・平和・安全保障」「地球環境─脱原発に向けて」
「歴史認識と戦後補償」「教育と子どもの権利」「人権 確立」「地方の自立・市民政治」「憲法」
14:00~16:00 ひろば
「女性と人権」「オスプレイ問題」「映画上映」 (会場=那覇市内各所)
フィールドワーク
11月5日(火)
9:30~11:00 閉会総会(会場=琉球 新報ホール)
安全性への懸念増幅も放置する日米政府
オスプレイ全国展開を食い止め、配備を撤回させよう
ピースデポ代表 湯浅一郎
オスプレイは、1つの航空機で、垂直離着陸機能と水平飛行ができる航空機の2つの性格を有するという無謀な目標を掲げた輸送機である。結果として、全体的に揚力が不足し、空中でエンジンが停止した際の安全性を保証するオートローテーション機能の欠如や、操縦技術の複雑化など構造上の問題が指摘されている。沖縄配備の直前、相次いだモロッコやフロリダでの墜落事故について、日米政府は、「機体に問題はなく、パイロットのミスである」として、安全性に問題はないと強弁しているが、現に事故が起きていること自体が問題なのである。
増強される配備と飛行訓練
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2013年3月6日から8日にかけて、とうとうオスプレイの本州初の訓練が始まった。これは、オスプレイの「環境レビュー」の以下のくだりに関わっている。「一定の訓練については、キャンプ富士及び岩国飛行場にて、また日本本土及び沖縄北方の太平洋上にある6つの航法経路に沿って実施されると見込んでいる」。さらに「米海兵隊は、毎月2,3日間、2~6機のMV-22をキャンプ富士及び岩国飛行場に派遣する」ことを見込み、「航法訓練は、展開中、1日当たり1つ、または1つ以上の航法経路を使いながら、航法経路上で実施される」としている。
この間、数機が普天間から岩国に頻繁に飛来している。環境レビューの想定よりも回数は多い。しかし、低空飛行訓練ルートにおける飛行は、まだ様子見で、かなり高空を四国山地のオレンジルートに沿って飛行するにとどまっている。およそ「低空飛行訓練」とはいえない内容である。ここには、米軍が、地元住民、自治体の反応を恐れ、様子を見ている姿勢がうかがえる。姿を見せてポーズをとっただけである。
そして9月6日、小野寺五典防衛相は、10月中下旬に滋賀と高知で予定されている日米共同軍事演習に、海兵隊のMV-22を使用することを明らかにした。両者とも、オスプレイは岩国を拠点として動くという。滋賀県饗庭野での演習には、岩国から北上して日本海側を東に進み、京都府・福井県境から南下するという。市街地を避けたようには見えるが、島根原発の近くを通過するルートである。低空飛行訓練だけでなく、むしろ日米共同演習にオスプレイを投入する形での本州における運用が強化されつつある。
さらに7月29日、カーライル米太平洋空軍司令官は、ワシントンでの記者会見で、空軍仕様のCV-22オスプレイをアジア太平洋に配備する計画で、嘉手納(沖縄県)と横田(東京都)を配備先として日本政府と相談していると語った。本年1月9日の沖縄タイムスも同型機の嘉手納配備の計画を報じており、それによれば、2015会計年度から2年内に9機の配備が計画されている。横田配備の可能性も含めて、海兵隊とは別に空軍用のオスプレイが配備される公算が高い。
監視・抗議の全国ネットワークを
普天間代替施設の沖縄への押し付け、オスプレイの強行配備と沖縄の声を無視する暴挙が続いている。これらの動きを覆すためにも、オスプレイの日米共同演習への参加や低空飛行訓練を手がかりとした全国での取り組みが求められている。
岩国では、さまざまなグループが共同で抗議行動をし、また監視活動を続けている。滋賀や高知では、地域での反対集会や抗議行動が展開されている。こうした動きを基盤として、6本のルート下における監視体制を作り、抗議の輪を広げていくネットワークの形成が求められる。これは「低空飛行監視・反対運動の全国化」への一つのプロセスであり、今後の全国的な運動のネットワークを作る基盤にしていかねばならない。
そもそも日米の軍事一体化の強化の一貫としてオスプレイの配備が増強されることが、果たして北東アジアの平和を築く上で役に立つのか否かという観点からの取り組みも必要であろう。仮に、在日米軍のオスプレイが空軍と併せて全33機体制となり、自衛隊も導入し、そしてオスプレイの日米共同訓練への参加や低空飛行訓練が常態化していった場合、結果として北東アジアの軍事緊張を高めることにしか寄与しないであろう。中国をはじめ、近隣諸国との緊張関係を高めることは、平和を作る道をかえって遠ざけるだけであるという視点がさらに求められる。外交的な努力によって、非核兵器地帯などを手がかりに北東アジアの平和の枠組みを作っていくことが、一方で同時に求められていることを肝に銘じたい。
第45回食とみどり、水を守る全国集会によせて
緒についたばかりの震災からの農業・農村の復興
食・緑・水を創る宮城県民会議会長(東北大教授) 工藤昭彦
11月29日~30日に「第45回食とみどり、水を守る全国集会」を宮城県仙台市で開催するにあたり、集会のテーマに関わる震災復興や農業振興をめぐる課題について、若干の所感を述べてみたいと思います。
東日本大震災の特徴─壊滅的打撃を受けた農漁村
東日本大震災の特徴を阪神・淡路大震災と比較してみると、阪神・淡路大震災が都市(中心部:発展領域)型であったのに対して、東日本大震災は農漁村(周辺部:限界領域)型でした。死亡、行方不明者の数や漁船、漁港、農地等の被害、全体の被害額も東日本の方が抜きん出ています。
被害を受けた農漁村地域の多くは震災以前から衰退・マイナー化を余儀なくされてきました.これが震災で一挙に壊滅的な打撃を受け、大津波に襲われた沿岸部の集落は一瞬のうちに消滅し、雑草の陰にコンクリートの土台だけが垣間見える荒漠たる光景が今も続いています。
また、福島第一原発事故による放射能被害は、住民の強制避難、農畜産物・水産物の出荷停止や作付け・飼養制限の拡大を招きながら農・漁村の崩壊をドミノ倒し的に加速し続けています。一方、がけ崩れ、地滑り、ダムの決壊などにより山村・中山間地域も深刻な被害を被りました。被災地ではイエ・ヒト・トチ・ムラの衰退傾向が、震災により一挙に壊滅状態にまで早送りされたと言っていいでしょう。それを復旧・復興しようというわけですから一筋縄でいくはずはありません。
仙台平野独特の景観をなす屋敷林は「居久根」(いぐね)と呼ばれ多くの人々に親しまれてきました。家を意味する居(イ)と境界を意味する久根(クネ)で屋敷境をあらわしたのが語源だといわれています。文字通りに読めば,そこに久しく根を張って居住するための暮らしの砦といった解釈もできそうです。近年、都市化の進行により減少傾向にありましたが、それでも仙台市若林区を中心に数多く残っていました。
人々の暮らしとともにあった居久根は日頃さして気にも留めない存在だったようです。壊滅したことで懐かしい光景が人々の気持ちの中に蘇ったのでしょう。「復興するなら居久根も欲しい」との声が少なからず聞こえてきます。そこにはまた、失われた暮らしを取り戻したいという被災地の人々の切実な思いが込められているに違いありません。
被災地と距離のある復興ビジョン─住民参加型で
2年以上経った石巻市内の津波被害地域 (2013年7月) |
震災以降、国や自治体の復興ビジョンが相次いで公表されました。興味深いのは、国のビジョンに追随するかのように県、市のビジョンが公表されていることです。そのせいか、多少の文言上の違いを別として、いずれのビジョンも驚くほど似通っています。
シナリオの前提となっているのは「震災で大半の農家は営農基盤・営農意欲を喪失した」という認識です。そのため「農業者単独での震災以前への復帰や営農再開は困難」なので、「農外資本等民間活力の導入による抜本的農業改革」を推進しなければならない」という筋書きになっています。
復旧・復興のキーワードも「高付加価値化、低コスト化、6次産業化による競争力・効率重視の構造改革」と横並びです。しかしこれでは、ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』の翻訳者の表現を借りれば、国から県、市町村へとトップダウンで流れてくる「被災農家排除型惨事便乗シナリオ」だと言わざるをえません。「営農の再開」を望む多くの被災地の人々の切実な意向を丁寧に汲み上げながら構築するビジョンとは、ほど遠いものです。
こうした中、被災地では地域農業の復興に向けた「経営再開マスタープラン」の策定作業が始まっています。農水省の「人・農地プラン」の被災地版です。補助金と計画策定マニュアルで縛りを掛けながら、特定の中心的経営体への農地集積を促すなど選別型構造改革路線上の取り組みだといっていいでしょう。もっとも営農再開の視界がすこぶる悪いため、中心となる経営の担い手がなかなか見えてきていません。
ただ、事業の実施要綱をよく読めば「中心となる経営体とそれ以外の農業者(兼業農家、自給的農家)を含めた地域農業のあり方等を記載」しろとも書いてあります。そうだとすれば、多様な農家の参加可能なプランも支援の対象になるはずです。
膨大な被災地を抱えるJA仙台の「水田農業チャレンジプラン」は、全員参加型農業で復興をめざすとうたっています。協同組合としての真価が問われる取り組みになるでしょう。危機に瀕する日本農業・農村にも通底する、知恵と力量と持続力が問われる復旧・復興の取り組みは、まだ緒についたばかりです。
2兆円かけながら見通しなし
もんじゅの研究開発は中止を!
安全意識の欠如した原子力機構
高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市) |
日本原子力研究開発機構(原子力機構)の高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)で、1万数千点もの機器の点検漏れが発覚し、原子力規制委員会は、原子力機構の度重なる安全軽視の姿勢に対して、6月29日、再発防止にむけた安全管理体制が確立されるまで運転再開の準備作業を行わないこととする使用停止命令を出しました。
その後も機器の点検漏れが明らかになり、現時点でその数は14000点をこえるまでになっています。原子力機構が、これまでこのような状況を放置したまま、「年度内再開」を求めていたことは大きな問題です。原子力機構の安全に対する認識の甘さが厳しく問われるものです。
9月16日にもんじゅにつながる唯一の県道と敷地内の道路で相次いで土砂崩れが発生し、9時間も孤立しました。さらに同日、原子炉の状況などを監視する国の緊急時対策支援システム(ERSS)へのデータ送信が止まりました。18日にはナトリウム漏れ検出器が人為ミスで監視不能になるなど問題が多発しています。
原子力機構の前身の動燃時代から、もんじゅや東海再処理工場のアスファルト固化施設等の事故・情報隠しを行い、安全文化の欠如を指摘されながら、それから20年近く経ったいまでも事業者の安全意識が希薄なことに驚かされます。福島原発事故で原子力の「安全神話」が崩れ、さらなる安全・安心を追求しなければならないのが原子力事業者の立場であるにもかかわらず、様々なトラブルを起こし続けていることは、原子力を扱う資質そのものが根本から問われるものです。
巨額な資金投入に未来はあるか?
もんじゅは停止中にもかかわらず1日約5500万円もの維持費がかかり、今回の停止命令で運転再開そのものがますます不透明になり、ムダな経費がさらにつぎ込まれようとしています。そのもんじゅに2014年度の予算概算要求として、本年度の174億円からさらに21億円上乗せした195億円を計上しています。さらに原子力機構がもつ研究施設への新規制基準に対する対策費として74億円も計上しています。
もんじゅは、これまで2兆円もの巨費を投じながら実用化への目途もたっていないのが現実です。原型炉・もんじゅの後継となる実証炉は、もんじゅとはまったく違った設計概念で描かれており、もんじゅの存在意義すら否定されています。そのようなもんじゅにこれ以上、研究開発に血税を投入することの意義は見出せません。
さらにもんじゅには、原子炉施設直下の断層(破砕帯)の問題があります。原子炉建屋直下にある8断層のうち、最大とされる「a破砕帯」(約70メートル)が炉心の西約500メートルをほぼ南北に走る活断層「白木(しらき)─丹生(にゅう)断層」(約15キロ)と連動して動くかが最大の焦点となっています。また敷地南東にある線状地形「Lー2」も活断層の可能性が指摘されています。原子力機構は、活断層の追加調査(5月の時点では「活断層でない」との調査報告をあげた)の計画書を原子力規制委員会に提出し、来年3月までに結果をまとめ、報告するとしています。問題の断層が活断層かどうかの調査は長期化し、さらに運転再開は不透明感を増しています。
もんじゅに関連して茨城県東海村にあるリサイクル機器試験施設(RETF)は、約830億円もかけて建設が進められましたが、2000年に建設を中断したままとなっています。この施設もただ維持するためだけに毎年数千万円が浪費され、今回の概算要求の中で3000万円が計上されています。会計検査院でさえムダな施設として指摘し新たな活用法を検討すべきだとしていますが、いまだその答えすらないまま、ここにも貴重な血税が投入され続けています。
これ以上先の見通しのない高速増殖炉開発に税金を投入することは許されません。福島原発事故の収束に全力をあげ、英知と資金そして人材を投入すべき時に、このような「ムダ」に貴重な資源や資金を投入することは国際的にも許されるものではありません。さらに安全文化の欠如した原子力機構に、これ以上高速増殖炉開発を担う資格はありません。12月7日の「もんじゅを廃炉へ!全国集会」へぜひ結集をお願いします。
公正なルールで
電力システム改革の実現を
電気事業法改正案 臨時国会に提出
電気事業法の改正案が臨時国会に提出されました。6月の通常国会で衆院を通過して、参院で廃案になったものの再提出です。3段階で進めるとする電力システム改革をになうものとなります。第1段階として全国規模で電力需給・融通の調整をする「広域系統運用機関」を設立するのが2015年、第2段階の電力小売業参入の自由化が2016年、発送電分離や小売料金の自由化が2018~20年をめどとされています。
電力会社の会計は、一般の会計規則以外に経済産業省が特例を決められるという特別扱いが電気事業法で決められています。その改正は、戦前から維持された旧態依然の電力システムを効率的で透明に、さらには経済的な公正をも実現する機会です。これまで、電力は地域独占と総括原価方式で、原発のコストを全て一般家庭に転嫁する仕組みを維持してきました。はたしてそのシステムを改革できるのか、肝心の電力自由化や発送電分離を7年先延ばしにするだけなのかは今後の展開を見なければいけませんが、改革の舵取りをしている経済産業省の動きを見ると全く信用出来ません。
廃炉会計制度の不可解な変更
10月1日に出された、「電気事業会計規則等の一部を改正する省令」というのが、そのいい例です。原発廃炉会計制度を変更するものでした。審議会を2回開いただけで制度を検討したとして、省令一本で決めたのは、他の産業ではありえない会計規則をつくり、動いてもいない施設の減価償却を認め、電気料金に上乗せして回収する仕組みです。一般企業であれば、粉飾決算として告発されるようなものです。不良資産を隠して資産があるように見せかけ、必要な経費の処理を先延ばしするのですから、刑事罰の対象です。
廃炉会計制度変更の省令は、廃炉になっても原発は、会計上の資産として計上でき、廃炉のために新設する設備も同様に計上し、積み立ててあるべき廃炉費用の不足も損失として処理せず、10年に分割できるとするものでした。東電の場合は、福島第一原発の5、6号機は帳簿上の資産となり、原発事故処理の追加費用も発電経費として電気料金に上乗せすることになるでしょう。会計規則を変えてさえ、東電を含めた電力会社を破綻させない、原発を死守するという強い意志が現れているとしか見えません。
将来世代にリスクと負担を押し付け
バブル崩壊後に不良債権問題を先送りし「失われた20年」と呼ばれた金融政策での失敗を、電力でも行うのでしょうか。不良債権隠しとツケの先送り、全く相似形の政策が繰り返されようとしています。失敗の責任を誰も取らないという部分も同じです。原発の場合は、そもそも行く先のあてのなかった使用済み核燃料を、「夢の」核燃料サイクルという幻想でごまかしてイギリス・フランスに送り続けて再処理、更に国内で六ヶ所再処理施設のプールに貯め続けた年月を考えると、「失われた40年」と言うべきかもしれません。ツケを先送りしてリスクと負担を将来の世代に押し付けることをいつまで続けるのでしょうか?
一部の利益のために他者に負担を押し付ける不公正なシステムは、倫理的にも許されません。事故被害の賠償も自力でできない東電は、除染、廃炉、汚染水対策、廃棄物処理など膨大なコストを国民や消費者に転嫁しようとしています。公的資金1兆円、原子力損害賠償支援機構法から交付金4兆円の投入でかろうじて経営を維持している東電には、問題解決能力のないことは明らかです。ズルズルとこのままの経営に資金投入しても問題を大きくするだけです。
地域独占と総括原価主義の打破を
電源三法や様々な補助金、交付金も原発にばかり投入されてきました。地域独占、発送電一体も新規発電事業者との自由競争をなくしています。独占禁止法からも例外の扱いです。また、電気事業法では、一般電気事業者の発行する債権は他の債権より優先するという規定もあります。これだけ優遇されているのに、原発事故の補償を自己資金で準備せず、原発を再稼働させようとしているのです。事故リスクの保険を義務化すれば、保険のコストで到底、原発による電力は自由市場で生き延びられないことが、ドイツの保険フォーラムの試算などで明らかになっています。
原発事故を起こしても、政府・国民がその負担を負う現在のシステムでは、電力会社は原発を維持することによって、電力を選べない消費者や、遠くへ移住することの出来ない住民をいわば人質にとって、絶対に潰れない会社として生き延びられるようになっているのです。
電力システム改革が動き出した今こそ、不透明な電力会計を改め、経済的にも公正なものに変える最大のチャンスです。電気事業法の中身ももちろんですが、経済産業省による運用も今回の省令のような動きを注視する必要があります。電力自由化や発送電分離を実現し、電力の地域独占と総括原価主義を打破するのは、7年先ではなく、今しかありえません。公正なルールのもとでは、原発が経済上必要だとは誰も言えなくなるでしょう。安全性からの規制も当然ですが、経済的な公正を実現するだけで、脱原発は実現できます。
破綻処理を含め、打つべき手を早期にとることが、電力システム改革を実効あるものにします。現実を見ずに嘘をついて現状維持に巨額の資金を注ぎ込むのではなく、一刻も早い政治決断と公正なルールづくりが必要です。
核実験禁止条約発効促進会議が開かれる
国連総会採択から17年
9月27日、ニューヨーク国連本部で第8回「包括的核実験禁止条約(CTBT)」発効促進会議が開かれました。各国の外務大臣や高官等約50人が参加した会議は、未署名・未批准国に対する早期署名・批准を促す呼びかけを含む宣言を採択して終わりましたが、1996年9月24日に条約が署名開放されてから17年が経った今も、条約発効の目処は立っていません。
この条約の発効には高度な原子力技術を持つ44カ国の署名・批准が必要です。現在条約に署名しているのは183カ国で、161カ国が批准しています。しかし、発効要件国44カ国のうち批准しているのは36カ国で8カ国足りないため、CTBTが発効しないのです。発効要件国のうち未署名は北朝鮮、インド、パキスタンの3カ国、署名はしていながら未批准となっているのは、中国、エジプト、イラン、イスラエル、米国の5カ国です(英仏ロは批准済み)。
CTBTを推進しながら批准してない米国
1996年に国連総会で採択されたCTBTは、地下でのものも含め核実験を全面的に禁止する条約で、核保有国の新たな核開発に歯止めをかけると同時に核拡散を防ぐうえで重要な条約と見なされています。クリントン政権は、1995年に開かれた核不拡散条約(NPT)再検討・延長会議でNPTの無期限延長を確保するのに必要だと見なしたということもあって、CTBTの国連採択に力を注ぎました。NPTの前文には、「1963年の大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約の締約国が、同条約前文において、核兵器のすべての実験的爆発の永久的停止の達成を求め及びそのために交渉を継続する決意を表明したことを想起し」とあります。再検討・延長会議では、NPTの無期限延長を決めるとともに、『核不拡散及び軍縮の原則及び目的』を採択し、その中でCTBTの遅くとも1996年中の締結、兵器用の核分裂物質生産禁止協定の早期締結、核兵器の廃絶を最終目的とする核削減に向けての体系的・積極的努力などを約束しました。クリントン大統領は、1996年9月24日、CTBTに最初に署名しました。
ところが、共和党が多数を占める上院が1999年10月に条約批准を拒否してしまいました。続くブッシュ(息子)政権下では批准の可能性は全くありませんでした。核のない世界を求めると約束して当選したオバマ大統領は、就任直後の2009年2月、CTBTの上院での批准を「直ちに、そして積極的に」追求すると言明したものの、上院での再度の批准拒否を恐れ、積極的には動けていません。非核兵器国やNGOの要求に従う形でCTBTを推進した米国自身が未批准状態では、条約発効促進の望みはありません。
いま行動をと呼びかける世界のNGO
条約発効促進会議は、条約の署名開放後3年しても発効していない場合には批准国の過半数の要請により開けるとの規定に基づき1999年から隔年で開かれているものです。今回の会議では、世界各国のNGOを代表して、「世界安全保障研究所(GSI)」のジョナサン・グラノフ所長が発表しました。この発表のために米国のNGO「軍備管理協会(ACA)」のダリル・キンボール事務局長が中心になって、世界各国の専門家・NGO代表等29人が署名した声明『核実験の扉を閉じる時は過ぎている』を用意しました。日本からは長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)の梅林宏道センター長とともに原水禁の藤本泰成事務局長が署名しています。声明は次のように述べています。
「CTBTの文言と精神の両方が遵守されれば、現存の核兵器の改善を抑制し、核兵器計画の威信を低下させるのに役立つ。それは、法の支配に基づく国際秩序の追求に力を与えるだろう。しかし、CTBTの約束と効果は未だ現実のものとなっていない。なぜなら、カギになる8カ国が署名・批准していないからである。この条約が締結されてからすでに17年が過ぎた。この間、既存の核兵器国は核兵器研究開発活動を続けており、いくつかの場合には核兵器の改善をしている。行動を起こすときである」。
包括的核実験禁止条約(CTBT)
署名開放 1996年9月24日
署名国 183カ国 (批准国 161カ国)
発効要件国(原子力技術保有44カ国)の現状
批准国 36カ国
未批准国 8カ国 未署名国 3カ国(北朝鮮、インド、パキスタン)
署名後未批准国5カ国(中国、エジプト、イラン、イスラエル、米国)
5ヶ国の初めての核実験
米国 | ソ連 | 英国 | フランス | 中国 |
---|---|---|---|---|
1945年7月16日 | 1949年8月29日 | 1952年10月3日 | 1960年2月13日 | 1964年10月16日 |
プルトニウム | プルトニウム | プルトニウム | プルトニウム | ウラン235(爆縮型) |
21kt | 22kt | 25kt | 60-70kt | 20kt |
1996年の署名開放までとそれ以降の核実験数 |
(田窪 雅文:ウェブサイト核情報主宰)
<投稿コーナー>
国辱の展示
戦慄する遊就館の「伏龍」「回天」「桜花」
弁護士 内田 雅敏
戦争の反省を欠いた異様な展示
2013年8月25日、リベラルな論調で知られる韓国のハンギョレ新聞の記者を靖國神社の遊就館に案内した。喧噪を極めた8月15日を過ぎたとはいえ、日曜日のせいもあって、結構、人が出ていた。若者の姿も多く、都心という交通の便の良さもあって、ある種のデートスポットになっているのかもしれない。そんな若者たちが、正門の出入りの際に、本殿に向かって、直立して拝礼しているのが気になった。
今回の案内、恥ずかしくてならなかった。世界の常識に、そして日本政府の公式見解にも反する靖國神社の「聖戦思想」についてではない。遊就館の展示が先の戦争についての反省を全く欠いた異様なものであることは、書きだしたらきりがない。同行した高校の友人の「70年前(戦前)にタイムスリップしたみたいだ」の一言が展示の異様さを端的に語っている。
恥かしかったのは、特攻兵器「伏龍」のミニチュアが展示してあったことだ。「伏龍」とは米軍の本土上陸に備えたもので、竹の先に爆薬をつけたものを持って海中で待機し、敵の上陸用舟艇が近づいてきたらその爆薬を艇の底に接触させて爆破しようとするものである。もちろん自分も爆死する。この「伏龍」作戦に動員されたのは16歳前後の子どもたちで、作家の故城山三郎氏もその一人であった。現実には8月15日の敗戦で出撃はなかったものの、劣悪な潜水具等もあって、訓練中の事故死もかなりの数に上るという。このような「兵器」が国に殉じようとした少年たちの崇高さを称えるかのように展示されていることに言葉を失った。生前、城山三郎氏は「自分たちの青春は惨めであった。個人の幸福ということを考えることは許されなかった。いかに天皇のために死ぬか、これしか考えることは許されなかった」と述懐していた。
人間魚雷や人間爆弾も
敗戦時、海軍軍令部次長の職にあり、神風特攻隊の生みの親と云われる大西瀧治郎海軍中将は8月13日、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長、及び東郷茂徳外務大臣の三者に対し、「今後、二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用いれば、決して負けはせぬ」と述べ、ポツダム宣言を受諾して戦争終結をしようとする天皇、政府の決定を覆そうとしたという(東郷茂徳『時代の一面』中公文庫)。すでに、空襲により日本全土が焼け野原になっており、広島、長崎には原爆も落とされている。さらに2千万人を殺してまでして何を守ろうというのか。
同館に展示してある人間魚雷「回天」の展示も恥ずかしい。飛行機による特攻、モーターボートによる「震洋特攻」も愚劣だが、飛行機、船は構造的には引き返すことは可能であった(実際出撃したものの、悪天候などで引き返した特攻機もある)。しかし、「回天」は抱かれた潜水艦から放たれるや、もう引き返すことはできない。「慄然」という言葉しかない。同種のものとしての人間爆弾「桜花」があった。
時代遅れの兵器に怒りと絶望
この「伏龍」のミニチュアや「回天」「桜花」の展示を見ながら、二・二六事件の際の岡田啓介首相の秘書官で、敗戦時の鈴木貫太郎内閣の書記官長の迫水久常氏の手記『機関銃下の首相官邸』(ちくま学芸文庫)の下記箇所を思った。
「私は陸軍の係官から、国民義勇戦闘隊に使用せしむべき兵器を別室に展示してあるから、閣議後見てほしいという申し入れを受けた。総理を先頭にその展示を見に行って、一同腹の底から驚き、そして怒りと絶望を感じたのであった。さすがに物に動じない鈴木首相も唖然として、側にいた私に『これはひどいなあ』とつぶやかれた。展示してある兵器というのは、手榴弾はまずよいとして、銃というのは単発であって、銃の先から、まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押し込み、その上に鉄の丸棒を輪切りにした弾丸を棒で押し込んで、射撃するものである。それに日本在来の弓が展示してあって、麗々しく、射程距離概ね、三、四十メートル、通常射手における命中率五〇%と書いてある。
私は一高時代、弓術部の選手だったから、これには特に憤激を感じた。人を馬鹿にするのも程があると思った。その他は文字どおり竹槍であり、昔ながらのさす叉である。いったい陸軍では、本気にこんな武器で国民を戦わせるつもりなのか。正気の沙汰とも覚えず、まさに具体的に戦意を喪失させ、終戦を急ぐほかないと思ったのである」。
靖國神社にも「歴史ガイド」が必要
いっそのこと、遊就館も「伏龍」のミニチュアや「回天」「、桜花」の展示だけでなく、前記の「本土決戦用兵器」も展示すればいい。そうすれば靖國神社の展示の馬鹿馬鹿しさがよく分かる。「お笑い靖國神社」だ。
靖國神社に若い人が結構訪れている。彼らの多くは遊就館の展示は見ない。遊就館の展示を見なければ普段の靖國神社は他の神社とほとんど変わらない。遊就館の展示を見ても、漫然と見るだけでは展示の意味する本質に迫ることはなかなかむつかしい。靖國神社を訪れる若者にどう語りかけるか。広島の原爆資料館や沖縄にはボランティアの平和ガイドがいる。靖國神社にも「歴史ガイド」が必要ではないか。
各地からのメッセージ
横田基地へのオスプレイ配備に反対の行動
東京平和運動センター事務局長 本橋益男
オスプレイの低空飛行に反対する集会(1月27日) |
東京平和運動センターの組織形態は、全国各地と概ね同様で、労働組合と民主団体で構成されています。活動内容も大きく変わるところはありませんが、東京という首都に存在することにより、良い意味でも悪い意味でもの特徴〈悩み?〉もあります。中央集会・全国集会と各種の大集会や政府・国会などへの行動に、地元として最大の取り組みが求められます。加盟団体はそのための「動員」体制づくりに追われています。全国闘争になかなか参加しにくい地方の皆さんにとっては、ぜいたくに見える悩みかもしれませんが、これが首都圏の地方組織の共通する実態です。
なかなか東京独自の課題に対する取り組みができていないことの一因でもあると言ったら、言い訳になってしまうでしょうか。ただ、東京という「地方」はそこに働き住む人々にとって、たいへん希薄な「地方」であって、国の動きには敏感でも地元の課題に目が行くことがたいへん少ないのが実情です。都内で働く人の多くは近接圏で居住するため、出身地への郷土意識はあっても、今住む町への地元意識は薄い、こんな実態が、なかなか「東京課題」を課題とさせていないのかもしれません。
オスプレイ配備・飛行訓練反対の取り組みが全国各地で闘われています。東京に沖縄の全首長さんたちが政府要請に来ました。わたしたち東京の仲間もその激励・連帯集会に結集しました。いま、東京の西部に存在する米軍横田基地にオスプレイを配備する動きが出ています。しかし、この動きに対する都民の反応は鈍く、まだ他人事かのような状況です。「横田基地ってどの辺にあるの?」程度でしょうか。もちろん地元自治体〈立川・昭島・福生・武蔵村山・瑞穂〉はすぐに政府に反対要請をしましたが、世論は盛り上がっていません。
横田基地は東京の三多摩地区に存在しています。周辺は密集した住宅地です。三多摩平和運動センターは、横田基地の整理・縮小・撤去を求めて、毎年10月21日に集会と基地へのデモ行進を重ねてきました。本年も、全都の課題として取り組まれ、東京平和運動センター全体で集会を成功させる事ができました。沖縄平和運動センターの山城議長も駆けつけていただきました。沖縄をはじめとして全国で闘う仲間と連帯していきたいと決意しています。
重慶大爆撃訴訟の公判開かれる
日本の侵略と加害責任を問う
重慶訴訟団のデモ行進(10月2日) |
多くの人は、50万人を超える犠牲者を出した米軍による日本の都市への大空襲は知っているが、7年を超えて、東京地裁で争われている戦後補償裁判の一つである「日本軍」による重慶大爆撃訴訟についてよく知らない。そもそも重慶大爆撃とは、1937年の盧溝橋事件から始まった日中全面戦争の過程で、とりわけ四川省の重慶を中心に、1938年から1943年の間に日本軍によって行われた、一般住民を狙った無差別爆撃で、多くの死者・負傷者を出した。日本軍は国際法違反の無差別爆撃を米軍に先んじて実施していたのである。
爆撃により被害を受けた原告(中国の重慶市、成都市、楽山市、自貢市、濾州市などに在住)が、日本政府に謝罪と賠償を求めて始まったのが重慶大爆撃訴訟で、2001年頃から準備され、2006年3月6日に東京地裁に提訴され、現在まで25回の公判を重ねてきている。原告団も最初は40人で出発したが、現在では188人の大訴訟団となっている。日本では、重慶大爆撃訴訟弁護団(団長・田代博之弁護士)、「重慶大爆撃の被害者と連帯する会」(前田哲男代表)が中心となって支えている。原告は、侵略と加害の責任を明確にすること、国際法違反の無差別別爆撃であること、「国家無答責」は許されないことなどを根拠に、日本政府に対して謝罪と賠償を求めている。
裁判は、これまで原告28人が法廷陳述を終わり、原告の主張を立証するため鑑定意見書や書証を提出している。専門家13人(日本側7人、中国側6人)の証人の採用を申請しており、その採否の後、証人調べに入り、2014年の秋に判決が出ると弁護団は予測している。
10月2日には、重慶でこの裁判を支援している王永鋼さんが来日し、公判に参加し、中国・重慶を中心に集められた「重慶訴訟支援」の約5000人の署名を提出した。そして「我々の賠償訴訟は恨みを記憶するための行動ではない。歴史を鑑とし、共存共栄を実現するための運動である。超えられない山はない」と力強く語っている。戦後補償裁判すべてにおいて、日本がそして私達が、明治からアジア・太平洋戦争に至る加害責任とどう向き合い、その反省の上に東アジアでの平和の確立をめざす努力が問われている。
(福山真劫)
核のキーワード図鑑
アベ政治は廃棄するしかない(橋本勝) |
第45回食とみどり、水を守る全国集会取り戻そう人々の暮らしと豊かな自然
2011年の東日本大震災の最大の被災地である宮城県を中心に震災からの復旧・復興、福島原発事故、山場を迎える環太平洋連携協定(TPP)問題などを討議します。
第1日目11月29日(金)13:15~17:00
会場:仙台市青葉区「仙台国際センター」(仙台駅徒歩20分)内容:全体集会(挨拶、基調提起)、シンポジウム「復興ビジョンの理念と現実的課題」コーディネーター=工藤昭彦さん(食・緑・水を創る宮城県民会議会長・東北大教授)、パネラー=渋谷奉弘さん(JA仙台震災復興推進課課長)、佐々木恵寿さん(河北新報社論説副委員長)、郡和子さん(宮城県選出衆議院議員、元復興庁政務官)他、全体交流会(夜)
第2日目11月30日(土)9:00~12:00
内容:分科会(1)「原発事故被害の現状と環境エネルギー政策」(2)「食のグローバル化と地産地消」(3)「問題だらけのTPPと食料・農林業・農村政策」(4)「水・森林を中心とした環境資源の保全・活用」(5)「フィールドワーク─被災地の復興・再生の現状と課題」Aコース=仙台沿岸部東地区視察(9時~12時)、Bコース=石巻地区視察(9時~17時)
参加費
(資料代、交流会参加費込み)6600円 フィー ルドワーク参加費 Aコース2500円、Bコース3500円